「嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 」 斎藤秀雄の生涯とサイトウ・キネン・オーケストラ | クラシック音楽と読書の日記 クリスタルウインド

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小澤征爾を始めとして、戦後数多く登場し世界的にも注目された日本人指揮者の多くを育てた教育者として有名なのが斎藤秀雄でした。彼の著作である「指揮法教程」は指揮者のバイブルとも呼ばれ現在でも指揮法のテキストとして高く評価され続けています。指揮法を具体的な形、図形を用いて解析するその指導法は世界的にも注目されました。

中丸美繪著「嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 」は、斎藤秀雄の生い立ちから始めその生涯を追うことで、彼の音楽観を作った背景を問い直し教育者として大きな業績を上げることのできた理由を解き明かすことを目指した評伝です。とても面白く読み応えのある本でした。

この本を読んでから、斎藤秀雄の動画を見たのですが、これがなかなか面白かったです。

うう~ん、やっぱり怖そうだなぁ、この先生は、なんて(笑)

しかし教え子の方達が今でも強い結びつきを持っていると言うことは、やはり魅力的な人だったのでしょうね。

今日はサイトウ・キネン・オーケストラの演奏でもじっくり聴いてみましょうか。







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「齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家である。東京都出身。

英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京市京橋区築地明石町に生まれ、1906年から麹町区五番町(現在の東京都千代田区一番町)に育つ。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。

16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの手ほどきを受けはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。22年には当時作曲家、指揮者として有名だった近衛秀麿に随伴して、ドイツに留学。ライプツィヒ音楽学校に入学してチェロの名教師ユリウス・クレンゲルに学ぶ。

1927年に帰国しNHK交響楽団の前身である新交響楽団に首席チェロ奏者として入団。翌1928年の第30回定期では指揮者としてデビューする。同年にはチェリストとしてもデビューを果たし、1929年に初のリサイタルを開催して成功を収める。1930年、ベルリンに留学し、ベルリン高等音楽院(Musikhochschule)でエマーヌエル・フォイアーマンに師事する。ホッホシューレを修了後帰国し、再び新響の首席チェリストとして活動を続けるが、チェリストとして出演した演奏会で失敗したのがきっかけとなり、ソリストとしてはあまり活動しなくなる(ただし太平洋戦争中には後述の指揮活動と並んで、チェリストとしてしばしば放送に出演している)。

1936年、新響の招きで来日したヨーゼフ・ローゼンシュトックとの出会いは齋藤の将来を大きく変えた。齋藤はローゼンシュトックのありとあらゆるものを吸収しようと努力。ローゼンシュトックの音楽に対する情熱や指導方法は、戦後「齋藤メソッド」を確立する際大いに参考になった。1938年4月26日の新響特別演奏会のヴェルディのレクイエム(指揮:ローゼンストック)で合唱指揮を務めたが、練習中に舞台から転落して大怪我をする。1939年には新響初の海外公演(京城)に帯同するが、1941年、新響が翌年の日本交響楽団への改組に向けた準備に際し、齋藤がすでに日本ビクターと個人契約していることがネックとなり、同年秋のシーズン開幕を前に新響を退団。指揮者として独立することとなる。齋藤は松竹交響楽団や東京交響楽団などの首席指揮者を務め、1943年には戦時中の困難な状況の中、井口基成とベートーヴェンの「皇帝」を、1944年には巌本真理とベートーヴェンのロマンス第1番、第2番を録音する。

終戦後、巌本や森正らの室内楽活動に手を貸す傍ら、1948年には井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を開設。これが後の桐朋学園の一連の音楽系学科開設につながっていく。齋藤は同学園にて弦楽部門を担当する。なお、大阪でも相愛大学音楽学部でオーケストラの指導を 行う。1952年には桐朋女子高校音楽科主任、1961年から1972年まで桐朋学園大学教授を歴任。1955年には海外に長期滞在することとなった井口の留守を預かる形で桐朋学園短期大学学長に就任。1964年には桐朋学園弦楽合奏団を結成し、アメリカ公演を行い、成功を収める。1967年には日本指揮者協会会長に就任。その後は新日本フィルハーモニー交響楽団顧問を務めた後、1973年文化功労者。癌のため1974年9月18日に東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。」(Wikipwdia 齋藤 秀雄 より)