※原初舞踏ブログよりお借りしました。
■ 我ここにあり
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先日の原初舞踏の稽古。深かった。
自らの存在に触れてくる。
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上手に踊るとか、綺麗に見えるにはといった表層の取り繕いはできない世界。素っ裸の自分を見てもらうぐらいのつもりでやっている。(服は着ています)
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今年に入り稽古が再開し、毎回参加させていただいてるのですが、回を追うごとに、その深まりが半端なくなっていっている。
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先日の回では最上さんがお話しされている時、喉の辺りをツンと突かれた感じになり、少しの間、席を立たなければならなくなった。
私の中のどこかで、エゴが、これまでの自分が反応したのだと思う。
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「我ここにあり」
動き始めが肝心。そこがしっかりできてないと後が付いてこない。
確かに日常でも、仕切り直しが必要なときは、動き出しが良くなかった場合が多いし、途中で動きながら調整するのは至難の業。
ましてや存在そのものを現そうというのだから、曖昧になどできようはずがないけれど、それに気づけずにいたわけで。
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「我ここにあり」はエゴエゴしくオレオレでいるのではなく、名前さえもない存在そのもので、そこにいること。
現場では最上さんの本質をついた言葉が強度を持って心身に伝わってくる。
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ヌーソロジーで言うと垂質の位置だと理解した。普段は割とその位置にいることが多いのだけれど、この日はうまくできなくて、それでも稽古の順番は回ってきて、まるで”ほったて小屋”のように今にも崩れそうな「我ここにあり」から始めた。
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稽古後、えさこさんは「かたい」と最上さんから教えていただいた。
自分でも覚えのある「かたさ」。なんとかしたいと思っても私の一部である「かたさ」です。
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「我ここにあり」の後の踊りでは、まるで自分が超古代の積まれた石であった気がした。そしてその時の動きは、星の運行とか自然の理を表しているように思えていた。私がそう感じただけで、そんな大袈裟なものではなかったのかもしれないし、最上さんがおっしゃった「かたい」とは質が違うものだとは思うけれど。
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最後に「(場が立ち上げられれば?)かたくても踊れるから大丈夫」と言ってくださった。
私の中にあるものを出すのだから、かたさも「うまみ」として表現できたらいいのだと思えた。
最上さんのワークショップの募集が明日から始まります。
稽古場では新たに参加者を募っていないので、希少なチャンスです。
※受け付け開始と同時に定員を大幅に上回る申し込みがあり、現在受付終了しています。