「来週の土曜日あけといてほしいんだ。」

そんなメールをしたのがちょうど一週間前。
もう予定が入ってしまってるかも、
そうじゃなくても断られるかも、と不安になったけど
「それって何日?」
とすぐさま返事があったことに安堵したと同時に笑みがこぼれた。
あえて日にちは言わなかったのにな―と思いつつ、
その意図が読み取られないよう細心の注意をはらって返信した。

「(笑)いいよ。」

文の最初の(笑)はきっと、私の意図に気付いたということだろう。
来週の土曜日…つまり今日、彼は24歳になる。
私はどうしても、その日をお祝いしたかった。
数か月ぶりに会う私を見て、少しでも「変わった」と思ってほしくて、
1か月前からダイエットもしていた。
その頃から入念に計画を練っていた。
正直に言えば、先々週友達の誕生日を同じ場所でお祝いしたのも、
彼と過ごす今日の下見がしたかったからだ。
とにかく、私は今日にかけていた。
半年前、私に愛想を尽かした彼に、もう一度私を愛してもらいたかった。

待ち合わせより少し早く駅に着いた。
鏡で付けまつげが浮いてないかを確認して、
風で乱れた髪を整えていると、携帯が鳴った。

「もう少しでつくよ。」

その文字に、心臓がドクン、と跳ねる。
そして一度跳ねた心臓は、どんどんと大きくなり、体丸ごと心臓が侵食したのではと錯覚するほどの大暴れを始めた。
久々に会える嬉しさと、緊張と、不安とときめきと。
とにかくいろんな感情が混ざり合って、立っているのも困難だった。
でも必死に脚に力を入れて、顔は笑顔を作る。
改札からどっと人が流れ出てくる。
端から端までゆっくりと確認し、折り返し、もう一度折り返す。
そして、私の心臓は更に大きな音を立てた。
手を顔の高さまであげると、彼も私に気付き手を振る。

「…久しぶり。」

彼が目の前まで来た時どうにか絞り出した一言が、思いのほか普通だったことに安心する。
「久しぶりだね。」とにっこり笑う彼に、半年前となんら変わらない笑顔に、
私の緊張はいとも簡単にほどけた。

「今日はね、もうお店決めてあるんだ。」

「へー。どこに連れっててくれるの?」

いつもデートコースは彼任せだったからか、彼は意外な顔をしている。

「えへへ。行こっか。」

行先は告げないで、私は歩き出す。

「元気だった?」

「うん、変わらずだよ。由佳はちょっと痩せた?」

「そーなの。ちょっと頑張ってみた。」

さらっと答えたけど、本当は嬉しくて仕方ない。
気付いてくれた。ただそれだけでよかった。

お互いの近状なんかを報告し合いながら、街を歩いた。
人通りの多い道は縦になって。
大通りからわき道にそれてからは、並んで歩いた。
顔を見上げると、彼もそれに気付いてこちらを見てくれる。
にこっと、あの頃と変わらない笑顔を向けてくれると、
あの頃―私と彼が「私たち」だった頃―に戻った気になる。

それでもあれから時が経った事も、もう「私たち」には戻れない事も、しっかりと分かっている。
手を伸ばせば容易に繋げる距離にいるのに、彼はもちろん私もそうすることはない。
たった数十センチ、されど数十センチ。
それが私と彼の、今の距離だ。
別れてしまってから離れてしまった距離を、私は必死に縮めてきた。
何度もメールを送り、半ばストーカーのようだった私に
彼も根負けしたのか、彼なりの優しさなのか、本意は分からないけどとにかく
「友達としてならいいよ。」
と返信してくれた。
気持ちを隠していれば側にいられるのなら、そうするしかなかった。
私にはそれで充分だった。


「あ、ここだよ。」

ナチュラルなオレンジ色の光が漏れるダイニングバー。
ドアには薄いグリーンと、紫陽花をつかったリースがかけられている。

「お洒落な所だねぇ。こういうとこ好き。」

彼の嬉しそうな反応を確認して、お店に入る。
お店の中のテーブルも椅子も、木を基調に作られている。
あちこちに飾られている観葉植物に合わせて、お店の人のエプロンも緑だ。

「へー。こんなところよく見つけたね。」

「うん、大くんこういうの好きかなって思って。」

私は得意げにしてみたけど、本当はとても不安だった。
気に入ってくれるお店を探したつもりでも、はずれていたらどうしようと思っていた。
でも、嬉しそうな彼を見てその分とても安心した。
彼の笑顔を見れる事が嬉しくて仕方ない。

料理を食べ終え、お酒もいい感じに入った頃、彼がトイレの為に席を立つ。
私はすかさず店員さんを呼んで、「お願いします。」と告げた。
店員さんが笑顔で会釈し、キッチンに戻っていく。
さっと鏡で化粧崩れを確認した。
入念にした化粧はちょっとアブラが浮いているだけで、ハンカチで押さえるだけで平気だった。

彼が戻ってくる。
気付かれないように店員に目くばせすると、お店の照明が消える。
そして店員さんが「ハッピーバースディ」の歌を歌い始めた。
彼は他人事のように、飲みかけのグラスに口をつけている。
ローソクの揺れる炎がこちらに向かってきていることにも気づいていなかった。

「お誕生日、おめでとうございます。」

満面の笑みの店員さんが、彼の前にケーキを置くと、
店員さんとケーキと、そして私とを何度も目線が行ったり来たりしていた。
そんな彼を見て、私は嬉しくてつい、微笑んでしまう。
すると彼もようやく笑い、ローソクに息を吹きかけた。

それと同時に店内にいた数人のお客さんと、店員さんが拍手をしてくれた。
パーン、とクラッカーまで鳴らしてくれ、微かな火薬のにおいと、カラフルな紙吹雪が舞った。

「まさかここまでしてくれるとは思わなかったよー。
なんか恥ずかしいね。」

言葉通り恥ずかしそうにはにかむ彼に、私の胸はぎゅうぎゅうと締めつけられる。

「えへへ。びっくりしたでしょ?おめでとう。」

「ありがとう。」

さらっと交わした言葉だったけど、涙が出そうになる。
こんなにも愛しさの籠った「おめでとう」を言った事も、
こんなにも「ありがとう」という言葉に喜びを感じた事も、今までなかった。
あぁ、私は本当にこの人が大好きなんだ。
鼻の奥に感じる苦しさが、私にそれを教えてくれている。

「じゃぁ、もう一回乾杯ってことで。」

店員さんがサービスで持ってきてくれたドリンクで乾杯をして、
ケーキも2人で分け合って食べた。

***

「はぁー。本当びっくりしたよー。」

お店を出て駅へ向かいながら、彼がつぶやく。
もう少しで駅に着いてしまう。
こんなときだけ信号は全部青で、一秒でも多く一緒にいたいという思いは、簡単に打ち破られる。

「あれ?送ってくれるの?」

右に行けば駅、左に行けば私の家方面という道で何も言わず右に曲がろうとすると、彼に尋ねられた。

「迷惑じゃなければ。」

そういうのが精いっぱいだった。
あと少し。ほんの少しでいいから一緒にいたい。
そう思ってるのはやっぱり私だけなのだろう。彼の目が見れず、思わずうつむいてしまう。

「じゃぁ送ってもらおうかなー。」

私の不安とは裏腹に頭の上から呑気な声が聞こえ、はっとして顔をあげた。
そこには笑顔の彼がいて、今日何度目かの涙が溢れそうになるのを堪えなければならなかった。

2人で暗くなった駅ビルの横を歩く。
それでもまだ、数十センチ。すぐそこにあるのに遥か遠い。
その手を握りたい、そう強く思った。
言ってしまえばもう二度と、この距離には戻れない。
だけど友達でいいなんてそんなのは嘘だ。
こんなにも愛しいと心が叫んでいるのに、友達でなんていられるわけがない。

言ってしまおう。
そう思って息を吸う。

「今日はありがとう。楽しかったよ。」

だけど先に口を開いたのは彼だった。

「どういたしまして。私も楽しかった。」

吸った息を全て、その言葉に費やしてしまった。
そして彼は手を振って、改札をくぐっていく。

彼が一度振り返って手を振ってくれ、私もそれに応える。
小さくなっている背中を見つめながら、私の視界はぼやけていく。

――“ありがとう”なんて。
“楽しかったよ”なんて。
そんなこと言われたら、用意した言葉飲み込むしかなかった。

大好きで大好きで、「友達」なんて距離壊してしまいたかった。
だけど、そしてしまうには彼の隣は温か過ぎた。
こんなにもはっきりと強く強く愛しいと思うのに伝える事が怖かった。
この温かさを失うなんて出来なくて、言わないままで失恋する道を選ぶしかなかった。

溢れそうになる涙を流してしまうことすら出来なくて
生意気なくらい顎を上げて、私は歩き始める。
思い出は綺麗なままポケットに仕舞って。
いつか彼にも聞こえるくらい大きな声で歌おう。

“愛していた、よ。”

君は嘘が下手だ。

嘘をつく時は決まって後ろ髪に手を突っ込んで
長くて綺麗な髪を毛先までサラサラと梳く。

僕は今まさに君がそうしているのを、ただ綺麗だと思い、見とれてしまう。

「好きだよ、アツシだけだから。」

そのしぐささえなければ、
僕が君のその癖さえ知らなければ、
すんなりと騙されてしまうほど、君は完ぺきな笑顔で僕に言う。

どこかがズキズキと痛むような気がするが、
僕はそれに気づかないふりをして微笑み返す。

「分かってるよ。」


全部分かっている。
君がそうして僕に嘘をつき続けてきたことも、
君が本当は誰を好きなのかも。
全部分かった上で、こうして君の隣にいる。

僕は君を他の誰にも譲りたくなかった。
例え嘘だとしても、他の誰かに君の「好き」という言葉を譲りたくなかった。
もっと言ってしまえば、君に騙される役を他の誰に譲る気もなかった。

君の嘘に僕は進んで騙された。


君は嘘をつくけれど、心はとても綺麗な人だ。
嘘をつきながらも、心は痛んでいたと思う。
僕は知っていながら、君に嘘をつかせ続けた。
僕が騙されてさえいれば、君は僕のそばから離れない。 僕はとても狡賢かった。

目の前の君は、複雑に顔を歪ませる。

きっともう、終わりなのだろう。

「ねぇ、もうやめようよ。」

静かな君の声。

「知ってると思うけど、私本当はね…」

「やめろよ。」

僕はその声を遮断する。
本当の事なんて、聞かなくていい。
全部分かっていた。
いつか嘘が本当になるんじゃないかって、信じたかった。
僕が騙され続けてさえいれば、君の心さえ変わっていくんじゃないかと期待していた。
それが叶わなかった今、君には最後まで嘘をつき通してもらう。
それは君に対する小さな復讐でもあるし、
そうすることで少しでも僕が救われるからでもある。

泣きそうな君の髪をなでる。
これで最後だ。

「もう誰にも嘘はついちゃ駄目だよ。」

君に騙されるのは僕だけで十分だ。
君の嘘を許せるのは僕だけでありたかった。




君は肩を震わせて、コクンと頷く。

「もう嘘はつかない。」

そう言った君の手は後ろ髪を撫でようとはしていなかった。



僕らの関係をイーブンにするために、僕は最後に一つだけ嘘をつく。
これでさよならだよ。



「お互い、苦しいだけだったね。」
『ずっと一緒にいような』

あいつのあの言葉をそのまま鵜呑みにしていたわけじゃない。
ましてや、永遠を誓う約束なんて…何の意味もない。
分かってる。
それでも、あまりにも急すぎた。


女が、いた。

浮気なんて男は誰だってする。
それこそ、それをいちいち咎めていたらきりがない。
だから浮気なら、許す心くらいはあった。


3か月記念日。
私は特に期待なんてしていなかったけれど、
仕事の後にデートをしようと誘ってきたのはあいつからだった。
私はその日は休みだったから、一応それなりっぽく、化粧も洋服も頑張ってみた。
待ち合わせには少し早いけどそろそろ出ようかな、と思っていた時に携帯が鳴った。

『悪い、仕事が片付かなくて会えそうにない。』

あいつは申し訳なさそうにそう言った。

「分かった。」

仕事じゃ仕方ないよ、そう言って電話を切って、
じゃぁ今日はお菓子を買いこんでDVDでも見ようとおもいコンビニに出かけた。

そしたら、女と一緒にいるあいつと鉢合わせた。

多くの男がそうするように、他人のふりをして通り過ぎればよかったのにあいつは

『お前なんでいるの?』

と言ってきた。
何でいるの?じゃない。
ここは私の家の近所だ。
隣の女は脱色した髪の毛に人工的に焼いたであろう黒い肌、あたしは馬鹿です、とでも言わんばかりの露出っぷりだ。
そしてとろん、とした喋り方でしんちゃん、誰?と言っていた。
私と馬鹿そうな女を交互に見て、なおも慌てるあいつが可哀そうで、あたしは嘘をついた。

「友達です。安倍君の彼女さん?」

馬鹿そうな女は嬉しそうにはにかみ、
「そうでーす。おととい1年記念だったのにしんちゃんエッチ拒否ったんですよー。
あり得なくないですかぁ?だから今日は高いホテル連れてってもらうんだーぁ。」
恥ずかしげもなくそんな話をし、女はあいつの手を引きそのまま行ってしまった。
あっけにとられてあいつの顔も見れなかったけど、たぶん気まずそうな顔をしていただろうな、
というのは横を通り過ぎる時の空気で分かった。

その次の日、言い訳の電話を待ったけれど連絡は来なかった。
その次の日も、次の次の日も待ってみたけれど無意味だった。
決定的な一言を聞いたわけではないけれど、それがあいつの答えなのだと思う。
私から掛けるなんて馬鹿馬鹿しいからしてやらなかった。
優先順位や付き合ってる期間を考えても間違いなく、本命はあの馬鹿女の方だ。
つまり私が浮気相手。
第一、浮気相手を連れて本命の家の近くを歩くだろうか。
あいつは馬鹿だけど、そんな阿呆なことはしない。



『美里の知的な感じ好きだよ。他の女みたいにギャーギャー騒ぎ立てなくて。
クールな女って感じだし。』
付き合いたての頃のあいつの言葉を思い出す。
あの言葉も嘘だったのだろう。
現に、隣にいたあの女は知的な感じとは程遠い。
そんな女が本命だなんて、私のそんなに高くもないプライドでさえ、ぼろぼろだ。
私は本当は少しもクールじゃなくて、あいつと付き合う前の私だったら泣き叫んでいただろう。
だけど3か月の間あいつが好きだと言ったクールな女になりきっていたせいか、涙は少しも零れなかった。
一人の時くらい素になればいいのに、泣き方すら思い出せない。



独り相撲、だったのだ。
あいつの望む女になったつもりでいた。だけどそれは嘘で、もしかしたらこうなる事を予測していたのかもしれない。
浮気現場を目撃されて、…あるいは自分が浮気相手だと知って、
言いよらないで身を引くほど楽な女はいない。
うまく利用された。

だけど“そんなひどい男じゃない”そう思ってしまう自分もいる。
それは自分自身を保つためとは少し違って、あいつを庇ってしまっているのに近い。
そしてあれから2週間たった今でも、ディスプレイにあいつの名前が表示されるのを待ってしまい携帯を片時も手放せずにいる。
これのどこがクールよ。
思わず苦笑してしまう。

少し落ち着こう、とあれから格段と減るスピードの速くなった煙草に火をつけた。

たまらず目をつぶる。


…煙が、目に染みたのだ。
ただ、それだけの理由――
「愛してるよ」


癖もない冷たい印象の電子文字を、3つの真っ赤で大きいハートマークが飾っている。
開いた携帯をパカン、と閉じる。14時14分。

最大級の愛の言葉をもらったのに私の心は冷たく冷たく冷えていく。
健が“愛してる”のは私だけじゃ、ない。

それを知ったのはつい1週間前。

家に泊まりに来た健がシャワーを浴びている時。
ふと目にとまった携帯から、目が離せなくなってしまった。
今まで一度も健を疑ったことなんてなかったし、信頼していた。
もしかしたらあれが女の勘ってやつだったのかもしれない。
見たい…見ない方がいい…見たい…見てはいけない…
興味と理性とに揺れ動き、ざわざわと騒ぐ胸は、私への警鐘だったのだろう。

結局私は耐えきれず、健のプライベート、“知らなくていい事”に足を踏み入れてしまった。


あかね

ゆき

まい…

真っ先に開いたメールの受信ボックスにはいくつもの女の子の名前が並んでいた。
いけないと思いつつも開いてしまったメールには
「私も愛してるよ」
という文字と、ハートマークが3つ。
足先から、指先から、体のいたる所から、徐々に血の気が引いていくのが分かった。
もうやめよう、と思う頭を無視して、手は次のメールを開き、目は文字を追いかける。

「早く会いたい」

「まいも健がいれば何もいらないよ」

「ずっと一緒にいようね」





シャワーの音がまだ続いているのを確認して、今度は送信メールを開く。
こうなるともう、止められなかった。
私にだけ向けられていると信じていた愛の言葉が、たくさんの女の子に向けて溢れかえっていた。

バタン、というバスルームのドアが閉まる音がして慌てて携帯を元の位置に戻す。
ドクドクと波打つ心臓の音を隠すように
「上がるの早かったね。」
と、いつもより少し大きくていつもより少し高い声で言うと、
「そうかぁ?」
そんなことに気づきもしない健は、興味なさ気にそう言った。

その日はいつまでも眠る事が出来なかった。
私だけを愛してくれていると思っていた。
出会ったころ、不毛な恋愛をしていた私を救ってくれたのは健だ。
「俺が幸せにするから、そんな男とはもう会うな。」
あの一言は、今も忘れられない。
きっと健は今までの男とは違う、そう信じ切っていただけに、
まるで砂のお城を踏みつけられ、崩されてしまったような、そんな感覚の悲しさが押し寄せていた。

健が与えてくれていた、安心感や幸福さえも全て嘘だったのだろうか、
それこそがすべて立派に見せかけられた砂のお城のような脆い紛い物だったのだろうか。


ぐるぐるぐるぐると思考は巡り、だけど何の答えも出るはずもなく、
堂々巡りの思考に脳みそだけが疲れ、重苦しい心のまま、太陽が昇るころようやく目を閉じた。


あんなにも信頼していた自分が馬鹿らしく思えてくる。
でもそれでも、彼を擁護する言葉ばかりが浮かび、まだ健を信じたい自分がいることがはっきりと分かる。

つくづく、馬鹿だなぁと思う。
馬鹿らしいんじゃなくって、多分、かなりの確率で、馬鹿なんだろう。

もしかしたら今彼は、他の女の子にも同じメールを送ってる最中かもしれない。
閉じた携帯を開き、そんな疑念を消すように「>愛してるよ」とハートマーク3つを消す。

冷たい印象の文字たちに少しでも気持ちがこもるように、ゆっくりとキーを押す。

「私もよ」

そしてハートマーク3つ。


今は、これでいい。

崩れた砂のお城は、また作り直せばいい。
だって健は今日も、私の家に帰ってくる。
「ただいま」って、疲れた顔して、帰ってくる。
まるで自分の家のようにくつろいで、私の布団で朝を迎える。

健の“ただいま”は、今、私の家にある。
だからきっと大丈夫。

送信出来たことを確認して携帯を閉じる。
14時29分。
健が帰ってくるまでは、あと、3時間。






セブンスターと缶コーヒー

雨の中泣きながら自転車をこいだ。

雨にぬれたことが悲しいんじゃない。
天気予報を見ずに家を出たことも、
天気予報を見たとしても、忘れ物を取りに戻ったせいで時間がないから自転車に乗って駅まで来たことも、
そこまで言うなら駅から遠くに住んでしまったことも、
大量にお菓子を買いこんで食べつくしてやろうとか考えながら、結局会計は525円だった貧乏性な自分も、
色々なことに対してぬかりがありすぎる自分も、悲しくないといったらウソにはなるけれど、
でもそんなことで泣くほどあたしは幼くない。

ひとつうまくいかないことがあると
連鎖反応を起こしたようにその他のことまでうまく回らなくなる。

水を含んだジーンズが肌に張り付いて、重いうえに気持ち悪い。
早く帰ろう、とスピードを出すと今度は、雨が目に入るし鼻に入るしで辛い。

仕方なく、もうどれだけ濡れても一緒だし、とタカをくくってスピードを緩める。


ふと、課長の顔が浮かぶ。
いつだったか、仕事が終わった後、コーヒーを持っていったら
すごく優しい顔でほほ笑んでくれた時の、あの顔。
ふにゃ、って音が本当にぴったり似合う、あの顔。
「お疲れ様。気がきくね。」
そういって、ふにゃ、って、笑ったんだ。
いつもは固い顔して仕事しているのに、あれは反則だと思う。
あの日から率先してお茶汲みするようになったから、
同期の子からは物好きだと思われるし、
お局様たちからは点数稼ぎだって陰口叩かれるようになった。
「あなたがそんなことするから、私たちの立場がないじゃない」
つまり、そういうことらしい。

でもあたしは、多少風当たりが強くなっても、同期にどう思われても、どうでもよかった。
課長のあの「ふにゃ」を誰にも取られたくなかった。

それが恋だと気付いた時、あたしは同時に失恋をした。

新規のプロジェクトの立ち上げに、課内がバタバタとしていて、ようやく一段落ついた時だ。
いつものように仕事終わりにコーヒーを差し出すと、その日はふにゃ、におまけがついてきた。
「内山くん、この後ご飯でも行かないか?」
すごく親しい、という訳でもなかったのに、なぜ他の誰か―例えば男性社員とか―じゃなくてあたしなのだろう。
そう思うよりも先に、嬉しさがこみあげ、即座に了承した。

連れてこられた居酒屋で、お酒を飲み、おつまみを食べた。
あたしは舞い上がっていた。
課長がいい具合に酔っぱらい出し、仕事について熱弁をふるっている時、
もっと綺麗な下着をつけてくれば良かった、と思っていた。

「それで、息子がさ…」
その一言で瞬時に現実に呼び戻される。
確か課長は独り身のはずだ。
前にスーツのボタンが取れかけていることを指摘すると、カバンから針と糸を出して直していた。
すごいですね、と率直な感想を述べると、
「やってくれる人がいないと、自然とこうなるんだよ」
と、苦笑いしていたのを思い出す。

「ちょっと待ってください、課長お子さんいらっしゃるんですか?確かご結婚されてないですよね?」

聞きたいことを矢継ぎ早に質問する。
課長はあぁ、と笑う。
「言ってなかったか?」
聞いていない。何故か腹立たしい気持ちになった。
「実は、妻は4年前に死んだんだよ。息子っていうのは、その妻との子で、もう5歳になるんだ。」
「そう…なんですか…」
なんて答えていいのか分からず、それらしい相槌を打つ。
あたしの心はざわざわと音を立てていた。
そんな私の気持ちに気付く訳もなく、酔っている課長は話し続ける。

「4年経った今も、息子と2人だけで生活してるんだ。
周りからは、息子のためにも、って縁談とかいろいろ、勧められるんだけどね。
どうしてもそんな気にはならなくて…妻が、消えないんだよ。
3年後もそうなのか、って聞かれたら分からない。
でも、俺は一生、妻を愛していくつもりなんだ。忘れるなんてできないんだよ。」

喋り終えた課長はぬるくなったビールを一口飲み、悲しそうに笑った。
ふにゃ、とはまた違ったニュアンスのその笑みに、あたしは泣きそうになった。
「ごめんね。」

このごめんね、が、単純に「部下である君にこんな話をしてごめん」なのか
「だから君の気持ちにこたえられなくてごめん」なのかは分からない。
でも、あたしでさえ気づかなかったこの気持ちを、課長はとっくに気づいていたのだろう。
証拠に、課長はあたしの顔をうかがうような目で見ていた。

「息子さんが待ってますし、帰りましょうか」
そう言って、先に席を立った。
課長の顔を見ることも、泣きそうであろうあたしの顔を見せることも、したくなかった。

私は課長が、好きだったのだ。
そしてそれは気付いたと同時に、ビールの泡のように消えていった。


連鎖反応の始まりは多分、ここからだろう。
仕事ではミスをするし、気持ちは上がらないし、
何より、課長とはもうあの日以来話していない。
仕事も辞めて、地元にでも帰ろうかと思う。
逃げているようで嫌だけど、今、あたしは逃げたいのだ。
全てのことから逃避して、1からスタートしたい。


「お姉ちゃん、傘あげるから泣かないで。」

信号待ちをしていると、ふとそんな声がした。
声の方を見降ろすと、カッパを着た男の子が立っていた。

「はい、傘、あげる。」

小さな手に握られた、黄色の小さな傘。
心配そうにあたしを見つめる、小さくて綺麗な目。

「はい、って、君は?どうするの?」
「僕はカッパ着てるから大丈夫なんだよ!
それに女の子には優しくしなさいってパパが言ってたの。」
「でも…。」
戸惑うあたしに向けられた傘を持つ手は、つんと伸びたままだ。
「こういう時は男を立てて素直に受け取るんだよ!
そういう女の子のが可愛いってパパが言ってたもん!はいっ!」
男の子はそう言ってもう一度傘をぐんと前に押し出した。

「あ…ありがとう。」
その勢いに押されて、傘を受け取る。
よく見ると、その子の逆の手には黒くて大きい傘が握られていた。

「どういたしまして!」
男の子は笑顔を見せ、行くべき方向に歩きだした。
駅に向かうのだろう。お父さんのお迎え、かな?
とても小さな笑顔は、誰かに似ている気がした。

くれた傘を開かずに片手に握り、自転車をこぐ。
先の事はこの雨があがったら考えよう。
“やまない雨はない”
なんてありきたりな言葉が私の胸によぎる。
雨が上がった頃きっと、私の気持ちも整理がついているはず。
遠くの方の明るい空を見て、ふとそう思った。


セブンスターと缶コーヒー