雨の中泣きながら自転車をこいだ。

雨にぬれたことが悲しいんじゃない。
天気予報を見ずに家を出たことも、
天気予報を見たとしても、忘れ物を取りに戻ったせいで時間がないから自転車に乗って駅まで来たことも、
そこまで言うなら駅から遠くに住んでしまったことも、
大量にお菓子を買いこんで食べつくしてやろうとか考えながら、結局会計は525円だった貧乏性な自分も、
色々なことに対してぬかりがありすぎる自分も、悲しくないといったらウソにはなるけれど、
でもそんなことで泣くほどあたしは幼くない。

ひとつうまくいかないことがあると
連鎖反応を起こしたようにその他のことまでうまく回らなくなる。

水を含んだジーンズが肌に張り付いて、重いうえに気持ち悪い。
早く帰ろう、とスピードを出すと今度は、雨が目に入るし鼻に入るしで辛い。

仕方なく、もうどれだけ濡れても一緒だし、とタカをくくってスピードを緩める。


ふと、課長の顔が浮かぶ。
いつだったか、仕事が終わった後、コーヒーを持っていったら
すごく優しい顔でほほ笑んでくれた時の、あの顔。
ふにゃ、って音が本当にぴったり似合う、あの顔。
「お疲れ様。気がきくね。」
そういって、ふにゃ、って、笑ったんだ。
いつもは固い顔して仕事しているのに、あれは反則だと思う。
あの日から率先してお茶汲みするようになったから、
同期の子からは物好きだと思われるし、
お局様たちからは点数稼ぎだって陰口叩かれるようになった。
「あなたがそんなことするから、私たちの立場がないじゃない」
つまり、そういうことらしい。

でもあたしは、多少風当たりが強くなっても、同期にどう思われても、どうでもよかった。
課長のあの「ふにゃ」を誰にも取られたくなかった。

それが恋だと気付いた時、あたしは同時に失恋をした。

新規のプロジェクトの立ち上げに、課内がバタバタとしていて、ようやく一段落ついた時だ。
いつものように仕事終わりにコーヒーを差し出すと、その日はふにゃ、におまけがついてきた。
「内山くん、この後ご飯でも行かないか?」
すごく親しい、という訳でもなかったのに、なぜ他の誰か―例えば男性社員とか―じゃなくてあたしなのだろう。
そう思うよりも先に、嬉しさがこみあげ、即座に了承した。

連れてこられた居酒屋で、お酒を飲み、おつまみを食べた。
あたしは舞い上がっていた。
課長がいい具合に酔っぱらい出し、仕事について熱弁をふるっている時、
もっと綺麗な下着をつけてくれば良かった、と思っていた。

「それで、息子がさ…」
その一言で瞬時に現実に呼び戻される。
確か課長は独り身のはずだ。
前にスーツのボタンが取れかけていることを指摘すると、カバンから針と糸を出して直していた。
すごいですね、と率直な感想を述べると、
「やってくれる人がいないと、自然とこうなるんだよ」
と、苦笑いしていたのを思い出す。

「ちょっと待ってください、課長お子さんいらっしゃるんですか?確かご結婚されてないですよね?」

聞きたいことを矢継ぎ早に質問する。
課長はあぁ、と笑う。
「言ってなかったか?」
聞いていない。何故か腹立たしい気持ちになった。
「実は、妻は4年前に死んだんだよ。息子っていうのは、その妻との子で、もう5歳になるんだ。」
「そう…なんですか…」
なんて答えていいのか分からず、それらしい相槌を打つ。
あたしの心はざわざわと音を立てていた。
そんな私の気持ちに気付く訳もなく、酔っている課長は話し続ける。

「4年経った今も、息子と2人だけで生活してるんだ。
周りからは、息子のためにも、って縁談とかいろいろ、勧められるんだけどね。
どうしてもそんな気にはならなくて…妻が、消えないんだよ。
3年後もそうなのか、って聞かれたら分からない。
でも、俺は一生、妻を愛していくつもりなんだ。忘れるなんてできないんだよ。」

喋り終えた課長はぬるくなったビールを一口飲み、悲しそうに笑った。
ふにゃ、とはまた違ったニュアンスのその笑みに、あたしは泣きそうになった。
「ごめんね。」

このごめんね、が、単純に「部下である君にこんな話をしてごめん」なのか
「だから君の気持ちにこたえられなくてごめん」なのかは分からない。
でも、あたしでさえ気づかなかったこの気持ちを、課長はとっくに気づいていたのだろう。
証拠に、課長はあたしの顔をうかがうような目で見ていた。

「息子さんが待ってますし、帰りましょうか」
そう言って、先に席を立った。
課長の顔を見ることも、泣きそうであろうあたしの顔を見せることも、したくなかった。

私は課長が、好きだったのだ。
そしてそれは気付いたと同時に、ビールの泡のように消えていった。


連鎖反応の始まりは多分、ここからだろう。
仕事ではミスをするし、気持ちは上がらないし、
何より、課長とはもうあの日以来話していない。
仕事も辞めて、地元にでも帰ろうかと思う。
逃げているようで嫌だけど、今、あたしは逃げたいのだ。
全てのことから逃避して、1からスタートしたい。


「お姉ちゃん、傘あげるから泣かないで。」

信号待ちをしていると、ふとそんな声がした。
声の方を見降ろすと、カッパを着た男の子が立っていた。

「はい、傘、あげる。」

小さな手に握られた、黄色の小さな傘。
心配そうにあたしを見つめる、小さくて綺麗な目。

「はい、って、君は?どうするの?」
「僕はカッパ着てるから大丈夫なんだよ!
それに女の子には優しくしなさいってパパが言ってたの。」
「でも…。」
戸惑うあたしに向けられた傘を持つ手は、つんと伸びたままだ。
「こういう時は男を立てて素直に受け取るんだよ!
そういう女の子のが可愛いってパパが言ってたもん!はいっ!」
男の子はそう言ってもう一度傘をぐんと前に押し出した。

「あ…ありがとう。」
その勢いに押されて、傘を受け取る。
よく見ると、その子の逆の手には黒くて大きい傘が握られていた。

「どういたしまして!」
男の子は笑顔を見せ、行くべき方向に歩きだした。
駅に向かうのだろう。お父さんのお迎え、かな?
とても小さな笑顔は、誰かに似ている気がした。

くれた傘を開かずに片手に握り、自転車をこぐ。
先の事はこの雨があがったら考えよう。
“やまない雨はない”
なんてありきたりな言葉が私の胸によぎる。
雨が上がった頃きっと、私の気持ちも整理がついているはず。
遠くの方の明るい空を見て、ふとそう思った。


セブンスターと缶コーヒー