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ももち駅前文学倉庫

文学、思考の断片―考えるということ

世界との関係性について、新たな視点を紡ぎだそうとしているような

そうでもないような

何かしらのエネルギーのあるような作品ではないかな

いや、文学とは必ずしもそうである必要はないのだからそう読むのはよくないだろう

そういう付いてまわるものから解き放ってくれるものは

すべて文学と言えると思う

しょっぱいのが、人間関係から発せられるものではなく、

潮のことだとしたら、確かにしょっぱいなぁと思う

たぶん掛けられてはいるんだろうけど、作品から潮のかおりが

立つほどではなかった

と書いているのが、私は文学とはこうあって欲しいという特定の

視点から語ってしまっているようでいけない

別に文学は自由をもたらすものと言っているわけではないのだが、

ひとには何かしら足かせのようなものはあるわけで、

そこをついてくるものを欲するという文学の捉え方もあっていいよねと

だからこそ私はものを読んで、それについて語ろうと試みているわけだし

また話でかくなってきたな

ではまた

新潮文庫は昔の小さい文字に限る。

品がある。

潮騒は元気になる。

生きる力、精力の源が描かれている。

でも三島由紀夫自体は好きじゃない、

この作品は初恋が軸ではあるけれど、

社会というか共同体について思考させられるから好きなんだと思う。

「島の政治はいつもこうして行われるのだ」という一節が好きだ。

あと、ベタだけれど、新治が嵐の中を泳ぐところも好きだ。

いや、よくよく考えると話全体がベタである。

ベタな世界はときとして、読者に安心感を与えるような気がする。

しかし、そういう読書には違和を感じる。

保守的な読書、自分の内に内にと世界が広がっていく言葉たちは、

言葉のもつもっと偉大な機能、可能性を閉ざしていると思えるからだ。

そう、三島には言葉遊びではないかという疑問があるのだ。

と、でかい話になってしまったが、私はもっと力強く言葉にのせて

世界を裏返していくような表現が欲しいのだと思う。

小説を書きたくなります。
小説ってストーリーがあって、人物関係があって、世界像があって・・・というのを思い起こすかもしれないけれど、そういうのって実は小説ではなくて、ただ世間一般に広がっている思考の反復でしかないのかもしれない。