ももち駅前文学倉庫

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文学、思考の断片―考えるということ

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これは小説なのか?


巧妙に小説という表現形態に偽装された別の何かではないのか?


そう思いながらも、これは疑うことのできないほどの「小説」であるという確信も抱いてしまう。はじめは、これは「詩」なのではないかと疑った。でも、やはりこれは「小説」かもしれないと思うようになった。その変化は突然にではなく、徐々に訪れた。第一部、第二部、第三部と続く、その連続性によってもたらされた。


解説で、加藤典洋は「第二部がおもしろくない」と言っている。それは、二部を、高橋源一郎の狙い(意図)として解釈していることから発せられている。はたして、「小説」というものは、そのようにして読まれるべきものなのか?そのようにして読み込む(解釈する)態度こそが問題であり、瞬間、ただの言葉の羅列に思われてしまうような断片たちを拾いつなげていく作業が私たちに課せられていると考えるべきではないのか?


また、加藤は、この高橋源一郎の作業(作品)を比喩を用いて表現する。「小説」に対して、少なくともこのような作品に対して、その「小説」を比喩を用いて解説する、とはどういうことなのか。それこそ、もっとも避けるべき(文芸)批評の方法ではないのか?比喩を用いて説明することは「解説」ではないと、私は思う。
比喩することによって、その「小説(作品)」の重要な部分が隠されてしまうのではないか、そういう不安に襲われた。言葉を尽くすこと、それについてまた語ること、これには「さらに言葉を尽くす」ことでしか応答できないように思えるのだ。


さらに、加藤は、第一部を高評価している。それは、第一部がもっとも(それまでの)「小説」らしいからとしか思えない。「娘の死の挿話」、このような話は、それまでの「小説」がたどってきた道(王道)に他ならないし、その意味で、読み手は安心して読むことができる。


でも、そうではない。


第二部、第三部と進むにつれてましていく不安感と高揚感。これこそが、この「小説」(作品)に対峙したときに生まれる感情であり、改めて考えるべきことではないのか。自分にとっての安心・安全に従い読む態度を停止し、不安感に身をまかせる。その不安感の起源に対する思考が求められている気がしたのだ。
ここまで書いて(読んで)きた。私だって、言葉を尽くしたとは言い切れないが、ここまでで『さようなら、ギャングたち』というこの言葉の意味はもうわかるだろう。



「『私たちは、一般的にギャング的であると信じられている格好・様式に従いました。
 私たちは、人々を当惑させるような行動をとったり、珍奇な言辞を弄することを避けましたし、全く新しいギャングになろうとも考えませんでした。
 それでも、時として私たちの行為が「ギャングを逸脱した、珍無類な」ものと受け取られることがありましたが、誤解を招くことを恐れて私たちのやり方を無理にねじまげるようなことは決してしませんでした」』

近代あるいは近代的な語りがどこからきたのか。このような問いはあるひとつの盲目的な前提を置いていると考えなければならない。始まりがあり成長があり成熟があり終わる、この歴史的視点をどのように乗り越え、あるいは含みながらわれわれの言語を考えていくべきか。


「わたしたちは、明治の初期にその起源を求めました。しかし、実際の話、明治二十年に、近代文学が突然生まれたわけではありません。もっと以前に、ある意味では江戸時代、いや、そのもっとずっと前にさえ、近代的な文学と呼ぶしかないものがあったのも事実なのです。/しかし、そんな事実は問題ではないのだ―サイードはそう書いています。つまり、歴史の起源は任意なのです。ある共同体の成員が、その共同体の中で起こった出来事を、ずっと後になって回想し、『我々はあそこから来た』のだ、あるいは『我々はあそこから生まれた』と認識したとき、ようやくその歴史は始まるのです。/同じように、その共同体の成員が、『我々の時間は終わった』と考えた時、その歴史もまた終わりを告げることになるのです。/では、なぜわたしたちは、『近代文学が終わった』と考えるようになったのでしょう。/それはもしかしたら、わたしたちが『近代文学が始まった』と考える明治の初期から、百年を遥かに超える時が流れたから、という単純な理由からかもしれません。百年は、一人の人間の生涯を超えた時間です。『わたしたち』は、ひとりの人間ではなく、いくつもの世代であるにもかかわらず、目の前に積み重ねられた百年の文学を見つめ、なぜそこに、さながらひとりの人間の誕生や成長や亡くなる様子を眺めるような感覚を持つのでしょうか。/そこに存在する作家たち、それを読んできた読者たちは、過去のすべての作品に目を通したり、読んだりするわけではないのに、まるで、すべてを知っているかの如く振る舞います。/それが、なにかの、いや、あることばの共同体に所属するということの意味なのかもしれません。」


このような思考がなぜ説得的であると感じられるのか。日本において近代文学が登場したと考えられる頃、それを支えてきた世代の父親たちの世代が死んだということを前田愛が述べている。それと同じ状況が現代にもあてはまるのではないか。そう考えると「死」によって何らかの分断(はっきりとしたものではないけれど)が起こるという考え方もひとつの重要な鍵となると思われる。

しかしながら、「死」はこの百年の間に絶え間なく存在していたのであり、それがこの百年後の今特別な「死」が起こっていると言うことは難しい。それでも、高橋源一郎は現代の文学を見つめながら、ひとつの歴史が終幕を迎えようとしていると述べている(緩やかな下降のはじまりと言っている)。われわれが次に構築していく新しい言語とはいったいどのようなものであるのか。それは未来の人びとがわれわれを振り返り決めることになる。

共同体とは、言語によって構築されていく集団であると述べられている(アンダーソンも言っているが)。新しい言語・言語的実践を構築することができれば新たな「生」の実践が可能になるのではないか。これはずっと私が考えている問題であるのだが、今回もそれについて考えさせられた。



ノリ(?)で購入。

作者の文学論はおもしろいのに、小説についてはあまりおもしろくないと感じるのはなんでだろう…


子どもが「悪」らしきものと戦う。

(らしいというのは、それが具体的になんなのかわからないから)

戦うといっても、銃でドンパチとか、リュック・ベッソンみたいなアクション系でもなく、

革命をめざして地下にこもるとかそういうのではない。


私は「子ども」をかける作家が好きだ。

吉野朔実、小田扉、大友克洋、小川洋子、長嶋有、サリンジャー

(半分は漫画ですね、もしかすると松本大洋もかな)


「子ども」って特別な体験だと思う。


人はみんな「子ども」の頃があるのに、ときが経つとなんとなくその感覚がなくなっていく。

脈略のなさとか、無邪気さとか、やさしさとか、そういう「子ども」独特の感覚ってあると思っていて、

もちろん大きくなってもそういうのを失わない人もいるけど、たいていの場合、そういったものは性格の一部ではあっても、全面を覆うようなものではなくなってしまう。


「子ども」をえがける人って、そういう感覚が生きている人で、なおかつ観察力があって、表現力がある人だと思う。そういう才能があるってうらやましい。まぁ、そういうふうに思えるということは、自分がもう「子ども」ではない(ある意味ではまだまだ子どもだけれど)ってことなんだと思う。だから、作品の中に求めてしまう、「子ども」を。


そういう意味では、この作品はもの足りなく感じてしまった。

漫画では子どもを題材にした作品はあるのに、文学には少ない気がする。

(読書不足なだけ?)

もしそうだとすると、文学って力不足な気がする。

「子ども」を表現することが出来ないのだ。

漫画には出来て文学には出来ないとすると、子どもって視覚的だったり、思考と発話の関係が特殊だったりするのかもしれないと思った、今。


『童夢』読みたくなってきたな、でも勉強せねば。


では、次回。