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文学、思考の断片―考えるということ

博論の構想をねろうと、まず一番にしたこと、それが高橋源一郎を読むことだった。

何か、そこにはあると思って、はじめた。

でも、読み終わると、そこには何かあったようで何もなかったような、

あるはずと思っていたことを見透かされ、かわされたような気持ちになった。


たぶん、彼は(意図なんてものはわからないけど)、私たち自身で思考するという宿題を出すだけにしたような気がする。答えを言うのは簡単なことだけれど、それを彼はしなかった。いや、彼にも答なんてわかっていない、というか答えなんてない課題―文学、小説―なのだ、そもそもから。だから、みんなで考えてみようと書いていたのだと思う。


彼は全文引用したいとずっと言っている(私も論文で資料をカットするのはキラいだ)。

これから彼の本を引用しようと思うが、それは彼の論に反したことになってしまうので残念だけれど、

それを許して欲しい。


「ベネディクト・アンダーソンの『近代小説(文学)は近代国家の成立と共に始まる』という定説は、それ自体、驚くべき卓見ですが、実は、その奥に、さらに広くて深い、内実を持っているのではないか、とぼくは考えているのです。

 『近代』というのは、簡単にいうと、『主体性』がいちばん大切である、と考える時代のことです。『主体性』っていうことばは、時には『個性』とも翻訳される。

 『主体性を持った個人』というと、『悩める豊かな内面』も持っていて、一筋縄ではいかない存在っぽいですね。でも、実際には、この『主体性』ってやつは、資本主義的エコノミー(合理性)ときわめて相性がいいのではないか、とぼくは思っています。

 『近代小説』というやつを、極端に形式化していうと、『主体性を持った個人』が『社会や他人との相剋に悩む』話です。ほとんど全部、そう。例外なし、です。

 ということは、『主体性』と『社会』とは敵対しているように見えますよね。なにしろ『相剋』なんだから。

 たぶん、書いている作家も、たいていは、そう思っているはずですよ。

 「おれは、個人と社会との、あるいは、男と女との『和解しがたい』本質的な関係を書いているのだ」とか、なんとか。

 だけれど、『主体性』と『社会』が、敵対もなにもしてなかったら、どうでしょう。いや、それどころか、『裏取引』をしている関係だったら、どうでしょう。」


私がここに興味を持ったのは、ちょうどいま“近代的主体”とはどのようなものなのかと考えていたからだ。

私は「身の上相談」を研究しているのだけれど、そこでひとつの疑問がわいたのだ。

相談者は、自己の抱える問題を、個別的だったり、特殊だったりするように表現する。

しかし、人びとが特殊性を主張すればするほど、逆に(?)既存の社会に吸収されているように見えるのはどうしてなのか?どのようにして、人びとが自ら積極的に(規範だったり、秩序だったりを)内面化へ向かっているようにみえるのかということ。この内面化する主体について、考えることが、ひとつの柱なような気がしている。

それをぼーっと考えながら、高橋源一郎を読んでいたわけだ。

「何か私の問いって、オーソドックスというか、なんか古い」とちょっと感じたりもした。とても大事なことな気もするし、そうでもないよな気もしてきた、今これを書いていて。

高橋源一郎は、上記のことを、後半になって書いている。なんか、この後半にいうところが気になる。

最後の方になって、主体の話ってどういうことなのだろう。

結局、彼も(私も含めて)、これまでの文学史がたどってきた道を、かなり寄り道しながらではあるけど、歩いているように感じてしまった。でも、この寄り道が重要なことはわかるし、そこでいろいろな落し物も拾っているのであって、そこが今までになかったというか、私の好きなところではあるように思うのだけれど。

主体なんて、人文科学はつきつめると、ほとんどこの問題に集約されるんじゃないのか。(ちょっと、いや、かなり?おそろしい)たくさん、たくさん、学問はあって、たくさん、たくさん、本が(文学が)あるのに、「え?結局ここですか?また同じ店だなぁ、でもいいか」みたいな感じがしてしまっている、今。(何か書き方が高橋源一郎みたくなってきた、笑)

でも、どうしても避けられなかったから、先人たちや私たちはいろんな道具(学問、文学)を使って、どうにかその正体を探ろうとしてきたし、していると思う。だから、やっぱりこの問題について、真剣に考えるのも必要だな、と。

だけど、私はこれをゴールにするんじゃなくて、なにか、他の言い方が出来る様になるといいなと思う。

何度読んでもおもしろい。紀伊国屋で原書さがしたけど、みつからなくて残念。アマゾンで買うかな。

名訳。


「『とにかくね、僕にはね、広いライ麦畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない―誰って僕のほかには。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ―つまり、子供たちは走っているときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃいけないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知っているよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ』」


ホールデンは、自らを「大人」だとしながらも、子どもの世界と同じ地表に身を置こうと欲している。そして、彼は「知っている」、それができないことだと。

彼にとって社会は「インチキ」に溢れたものだ。

彼はそんな世界に閉口するよりはむしろ、積極的に語り続ける。魅力的なことは、彼が語り続けることで、現実と夢(ライ麦畑)の乖離がはっきりとしてくるのではなく、混沌としたまま話がすすんでいくことである。

彼にとってこの回想は意味をなして(機能して)いないように思われる。話はひとつの点から出発し、また同じに点に戻るってくるかのようである。“普通”の小説ならば、語りに意味を与え、その運動によって話を展開させていくだろう。しかし、サリンジャーはそうではない。ただひたすらに、語るのみで、混沌を混沌のままにおくのである。


「海軍さんと僕は、お互いに、お目にかかれてうれしかったと挨拶をかわした。これがいつも僕には参るんだな。会ってうれしくもなんともない人に向かって『お目にかかれてうれしかった』って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。」


ホールデンはたとえ「インチキ」であっても、その世界に身をおいていかねばならないことをわかっている。ただそれが具体的な身体的レベルに現れるような小さな行動でしかできないのである。


「この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ。誰も位置を動かさないんだよ。かりに十万回行ったとしても、エスキモーはやっぱし二匹の魚を釣ったままになってるし、鳥はやっぱし南に向かって飛んでるし、鹿も同じように、きれいな角とほっそりしたきれいな脚をして、あの水たまりの水を飲んでるはずだ。それから胸をはだけたインディアンの女も、相変わらず、あの同じ毛布を織りつづけてるだろう。何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちだけさ。」


ホールデンは、社会を適切な言葉で語っている。けれども彼は、そのうちにもそとにも、どこにもいないかのようであるからのように思われる。社会の言葉を借りているが、その内部にいるものではない。外部にいて、どこか達観しているかのように語っているわけでもない。

彼は外の世界を嫌いながらも、常に誰かにコンタクトしようとする。しかし、誰も自分を知らないところへ行って、「唖でつんぼ」のふりをして過そうとも考える。それでも、同じように「唖でつんぼ」だけれどきれいな女の子と結婚して子どもを生み、その子に読み書きを教える…ということまで想像する。

彼が拒否しながらもつながっていたいと思うものはいったいなんなのか。それは、ひとことで言うならば“社会”であると思う。しかしながら、そのひとことでは片付けられない何かがある。それを表現しようとするならば、ホールデン以上にたくさんの言葉を用いて表現する必要があるだろう。

ホールデンが拒否しながらもつながりたいと思うもの…。そして、サリンジャーがホールデンの言葉にのせて語りかけているもの。それは、私たちにどういった反応をさせ、そしてその感触を私たちにどう表現させるのか。

(実は大学のころからずっと考えている)

これはライフワークになりそうなくらい重要な問題だと思っている。


バルトは本書において、「言語」「エクリチュール」「文体」の3つの用語を使いわけているが、「エクリチュール」の定義については、さまざまに変化している。バルト自身、「考えを変えることなど、呼吸するのと同じくらい当たり前」であると述べている。“零度のエクリチュール”が実現されるとき、言語はユートピアとなると締めくくられている。しかし、“零度のエクリチュール”とはマルクス主義における“革命”のようなもの―だからこそ、ユートピアという言葉が用いられているのだろう―であり、それは実現不可能であって、その不可能性ゆえに語られうるものになっているように思われる。


「言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会とのあいだの関係であり、社会的目的によって変化した文学言語である。」


エクリチュールとはそれを目的として書かれるというものではなく、その実践によって“結果的に”獲得されるものであるということがわかる。


高橋源一郎(また!)も同じようなことを述べている。


「わたしは、『文学』とか『小説』というものを、いまは、なにか特別に素晴らしいもの、あるいは、芸術とか人間とか豊かさに結びつく何か、ではなく、一つの機械、あるいは、ひとつの概念、もしくは、ひとつの機能として考えるべきだと思っているのです。」


“零度のエクリチュール”は社会構造の変革への希望であるが、それが実現されるとき、「社会の完全に均質な状態」が実現されるが、そもそもそれが実現されてしまうと、その時点から新たなエクリチュールは生れないということになってしまう。社会とは文学の知らぬところで変化し続けているのだから、エクリチュールに終わりはないのだけれど。


「もしエクリチュールがほんとうに中性的になったとしたら、そして言語活動がやっかいで手に負えない行為ではなくなり、純粋な方程式に達して、人間の空隙にたいして代数ほどの厚みももたなくなったとしたら、そのときに『文学』は克服されることになる。」


文学とは克服されうるのか?つまり、“零度のエクリチュール”は可能かという問いである。

答えはYesである。ただし、エクリチュールはそのうちに言説や文体に吸収されていくため、その瞬間においては実現したかのように見えてはいるが、その中性性は絶えず変化しているのであり、普遍の“零度”ではない。

つまり、われわれには、“零度”を念頭におき、試行錯誤し続けるという間断なき思考が課されているのである。


では、次回。