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文学、思考の断片―考えるということ

「偉大なアメリカ作品は、アメリカ大陸が言ってもらいたがっていながら、自らは言えない深遠なことを言いつつ、同時にそれを言い損なうために、作品はどれも、前作品を別のレベルで繰り返すような、いわば状況の繰り返しなのです。だからロレンスはホイットマンやメルヴィルにおいてクライマックスに達する物語を語ることができるわけで、しかもこのクライマックスは、純粋アメリカ文学の可能性の終焉なのか、それとも単に以前にあったことに繰り返しなのか、明確ではありません。メルヴィルのクライマックスは死です。ホイットマンにおいては生です。しかし、この二つは実質的に同時におこるのです。」


ずっと私の中にある疑問、―文学は反復なのか?

それは二重の意味を含む。それは、まず文字通り、上記のように過去(歴史という言葉あえて避けたい)の文学をなぞること、もうひとつは、人びとの実践として世界を再構築させる、社会を反復させることを行うものなのかということである。

文学はある特定のイデオロギーの流布と定着という機能を果たす。それにより、特定の社会構造が再生産される。しかし、単なる反復ではないからこそ、新たな言葉が生れてきたのではないか。ジェイムソンは言う、「文学上の問題となるのは、人は限定された階級の経験の彼方をどうすれば見ることができるかということです。」(今は階級ではなく、階層というほうがいいと思うが)文学は人びとの経験の総体であると同時に、選択可能性の模索であるからではないのか。


「小説は、いかなる形式もあり得ないような形式危機の状況に対する解決策として考え出されたものです。外部世界の<不確定性>にどう対応するか、その形式危機への解決策なのです。個人との関連で、つまり問題をかかえた個人を視野において、その危機を解決しようとする試みなのです。」


私は文学を過信しているのだろうか。ジェイムソンは“新しい”ことを言っているわけではない。これこそまさに反復であるし、それを利用している私の行為自体も反復である。しかし、そうしながらも何かを語ろうとするこの行為は単なる反復と言い切れないと思われるのである。


高橋源一郎は、「『文学』とか『小説』というものは、その長い歴史において、『文学』とは何か、とか、『小説』とは何かという問いに、滅多に晒されたことがない」という。ならば、これを問題化したい。反復を超えて、実践の可能性を模索することがわれわれの課題であると思うのである。



アクタイオーンは、狩りを終え泉で水浴するディアーナを見ようとさまざまに思考を巡らす。

しかし、アクタイオーンが見ようとするのは、「裸のディアーナ、赤面するディアーナ、穢されたディアーナ、身体を洗うディアーナ」であって、それらは「模造」であり、ありのままのディアーナではない。アクタイオーンは自己が欲するがゆえに、ディアーナを見ることが出来ないのである。


「ディアーナとアクタイーオンのあいだには、その神学的不謹慎を開始するダイモンが忍びこみ、そして反省(リフレクシオン)の中に映し出されたディアーナをこのようにして横どりするアクタイオーンはすでに、女神の最も内奥の単一性に損傷を加えているのだ」


いや、“ありのまま”のディアーナなどあるわけはない。ディアーナは、アクタイオーンも含めわれわれが欲し、想像する(まさに、想い・像を与える)ことによって、創造されるものであり、われわれが期待するテオファニーとしてのディアーナなのである。ディアーナの処女性はここにあるのではないか?何ものにも穢されない、思考することすら叶わない、まさに「神」という存在であることが明らかであるもの。この神話には「神」は「神」ゆえに、ある不可能性によってわれわれの中に(!)存在するということを物語っている。このように簡潔に言い捨てられるほどこの問題は単純ではないと思うが、秩序が秩序たる所以がこの神話には描かれていると思われたから、このような言葉が出たのだろう。


「出来事は予感の中ではまだ表現可能であったものを吸収してしまうのだ。わたしが見ていたこと、それが何であったのかわたしには言い表せない。なにも、言い表せないようなことはまして理解できるはずはないというのではないし、また理解できないことは見ることができないといのでもない。アクタイオーンは、伝説の中では、彼の見るところのものを言い表わしえないゆえにこそ見るのである。もし言い表すことができたら、彼は見ることをやめるであろう。」


アクタイオーンは、ディアーナの水浴を見ることで鹿に変えられ、犬どもに引き裂かれてしまう。彼はついぞ自分の目にしたことを語ることは出来ないのだ。しかし、ここで重要であるのは、実際に消滅し言葉を発することが出来ないという不可能性(死)ではなく、語りえないという不可能性のことである。


「われわれは生成しつつあるものを表現するための言語をもっていない」


ニーチェも斯く言う如く、言葉は出来事を遡及的にあらわすのみである。しかし、われわれにはこの言語、そういう実践しかない。しかし、だからこそ語ることが重要になってくるのではないか。


ディアーナは言う。


「もしお前にできるなら、してみるがよい!さあ行って言え、お前にそれができるのなら、してみるがよい!」


われわれはこの挑戦をうけなくてはならない。それについて思考=試行するのだ。


では、次回。

この中で、三島は理想の小説について以下のように述べている。少し長いが引用する。


 小説の進行は汽車のダイヤのように正確に決定され、読者に与えるおどろきは、一時五分の汽車が一秒のちがいもなく到着することのおどろき、ただ正確さの与えるおどろきであって、それ以外のものでは一切読者をおどろかせぬという決心で構築された小説。未見なもの・思いがけぬもの・突然の生起が、待ちこがれていたものに出会った場合のような自然な感情でえがかれ、未来と過去が小説内部の各瞬間において、磁石のように親しく接吻する小説。作中人物の死に当っては、その棺の大きさと身長とがぴったり合って一分の隙もない小説。作品そのものが一つの大きな感動的な偶然であるために、作品の内部では注意深く偶然性が排除され、どのような偶然の出会いも偶然の動作もなされず、一度たりとも骰子の振られない小説。すべてが星座のように動く小説。貸借対照表のような潔癖な均衡が、終始一貫漲っている小説。


もし、このような小説が書かれたとして、私はそのような小説を好きになるだろうか。

そのような小説を「小説」と呼べるのか。

「小説」とは、作者や読者から離れて、自走する力のあるもののことをいうのではないのだろうか。

計算されつくし、三島のいうところの、「レールの上を走るように規制されている」言葉たちは、そのように使用されることによって、もっと偉大な機能や可能性を失っているのではないかと思われる。

言葉とは、ときに人の意思(意図)や使途によって変化し、継ぎ目の部分や遊びの部分から芽を出す。

それを大切に育てたり、そのままほったらかしにして思うがままに成長されたり、そういうところから次なる言葉が紡ぎだされる。言葉に対する態度は真摯でなければならない。三島もストイックではあるが、方向性に違和を感じてしまう。

クロソフスキーは言う、「<ディアーナの水浴>は外にある、いいかえれば、アクタイオーンはそれを発見するためには、これこれの場所にそれを位置づける必要は少しもなく、われとわが精神から外に出なければならないのである。そのときアクタイオーンの見るものはあらゆる言葉の誕生の彼方に起る、つまり彼は水浴しているディアーナを見、しかも自分が見ているものを言うことができないのだ。たとえ彼が彼女の不意を襲おうという意図を抱いてさまよっていようとも、その彷徨は言葉がそれ以前の状態へさかのぼろうとする溯行のようなものである。」と。言葉とは何ものかを描こうとしてすべりおち、次にうつるときには消え去っていく。言葉はその時点の事象をとらえているように見えるが、それにはこのような不安定さをともなっている。しかし、この不安定性ゆえに、言葉は語られてきたのであり、数々の「小説」が書かれているのではないのだろうか。

三島は、この不安定性を拒否しているように思われる。そこが、私の感じている違和なのだと思う。


次回は、三島の『文章読本』か、今回登場した『ディアーナの水浴』の予定。