気晴らしとは恐るべきもの | ~「クロスロード」~栄光への架け橋( ^-^)ノ~

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司法書士フラワー総合事務所代表司法書士(埼玉県所沢市)。司法書士・行政書士・整体師・心理カウンセラー資格を保有。ブログ内容はジャンルを問わず、徒然なるままに書いています。どこかの誰かのお役に少しでも立てれば幸いです(^^♪

 

 

(参考書籍:「悩みぬく意味」諸富祥彦著 幻冬舎新書)

 

 現代社会では、手軽に楽しめるものがたくさんあります。スマホひとつあれば、動画でも音楽でも好きなだけ楽しめる。街を歩けば魅力的な商品や食べ物などがいくらでも並んでいます。

 

 気を紛らわそうと思えば、その方法はいくらでもあるわけです。けれども、そうしたもののすべては単なる「気晴らし」であり、「退屈しのぎ」でしかないことに、ひとはうっすらと気づいているはずです。

 

 パスカルは気晴らしについて次のように言っています。(「パンセ」より)

・人間生活のみじめさから、すべてこのようなことは生じた。すなわち、人々はみじめさを見たので、気晴らしを求めたのだ。もし我々の状態が真に幸福であったら、自分を幸福にするために、自分の状態を考えることから気を紛らわす必要はなかっただろう。

 

気晴らしによって喜ばせてもらえるのも幸福ではないのか?いや、そうではない。気晴らしはよそから、外からやってくる。だから、依存的である。ゆえに、それは避けがたい悩みを引き起こす無数の出来事によって乱されがちなのだ。

 

 こうして、パスカルは、「気晴らし」は私たちの生活に不可欠なものであること、そしてその効用は、「自分自身を見ない」ようにすること、そして「深く考えないようにする」ことにあると指摘しています。

 

 パスカルが生きた時代から400年ほど経ちました。今の社会はどうなっていますか?ネット、テレビ、X、line、音楽、動画などなど、「気晴らし」の手段が溢れています。下手をすると、気晴らしだけで何年も生きている人、いるんじゃないでしょうかね?

 

 では、「気晴らし」をして、それで満ち足りてしまう人と、「気晴らし」では気が休まらない人とではどこが違うのでしょうか。気晴らしで満足してしまう人と、気晴らしは所詮気晴らしに過ぎないのだと気づき、自分の空虚さに目を向けて、深く悩み始める人とでは、どこに違いがあるのでしょうか?「悩みぬく意味」の著者の諸富祥彦先生は、こうおっしゃっています。

「自分自身について「鈍」でいられる人と、自分自身についての「鋭敏さ」を持ち合わせている人の違いである。」と。

 

 この「鈍」。どうも、自分の内面の「理由のないむなしさ」に目を向けようとしない、それと向き合おうとしない精神的な在り方を、諸富先生はこう表現しているようです。もし立ち止まって、自分の心がむなしいこと、自分が退屈であることを認めてしまうと、たちまちにして「底なし」の泥沼に引きずりこまれていってしまう。それを恐れて現代人は、絶えず自分を忙しくすることで感覚を麻痺させてしまおうとするのです。

 

 では、どうすればいいのか?出発地点は、少し立ち止まって、自分の内側をみつめることです。ひとりの静かな時間を持つことです。自分の内側にある理由のないむなしさを見つめること。そうしてはじめて、漠然とした空虚感が「生きる意味を求める問い」となっていくのです。(次回へ続く)

 

 

 ユーチューブ、ティックトック・・・・四六時中、スマホを操作して、好奇心を満たす「素材」を際限なく探しまくっている人の様(さま)は、「気晴らしの海」に呑まれて、文明の利器に弄ばれてしまっている人、そういうことになりそうである。「鈍」そのものである。