生きる意味について。昔からふと考えることがあります。若い頃は、「正解」を求めていろいろな書物を読み漁ったこともあります。10代後半、20代の頃は、こういうことを考える時間が多かった気がします。
わたしは今、司法書士という仕事をしていますが、この司法書士になるための試験に受かったのが37歳の頃。生まれ育った秋田でずっと生きていこうと思って、この試験を受けはじめたのが20代の半ばくらい。調べてみると、司法書士は田舎でも「食える仕事」ということだったので、勉強をはじめたのがはじまり。大学は法学部ではなく、法律に関しては未修学者。当時はスクールの費用も高かったので、本屋で六法・法律辞典などを買ってきて勉強をはじめました。
六法の条文なんかは主要科目のものは、覚えてしまうくらい勉強して、やっと合格。これでやっと田舎で、落ち着いて生きていけると思っていたら、様々な事情が重なり、結果として、現在は埼玉県で司法書士事務所をやっているわけです。一応は自分の意思で行動してきたといえ、そうせざるを得ない状況だったことを考えると、なんともやりきれない気持ちになるのです。
秋田で生活している時は、近くに海や自然があり、魚釣りやスキーができて、日帰り温泉もそこかしこにある。それが日常生活を構成する身近なもので、なにも特別なものではなかった。そういう生活が好きで、当たり前だったのに、突然40歳手前で、縁もゆかりもない埼玉県に来た。友人もいない、土地勘もない、海もない、気候も違う、道路は狭くて混んでいる、そんなところにいきなり放り込まれたことの「よくわからないやりきれなさ・理不尽さ」をいまだに引きずっています。
金のためか、仕事のためか、神の御心か、運命・宿命の類か、家族のためか、生まれた意義を果たすためか、なにかなすべき使命でもあるのか・・・なぜ生きるのかを考えると、こうやっていろいろな「観点」から自分を納得させられないものか試みますが、いまだにモヤモヤ感が取れません。
地方から都市部に出てきた人は、こういう感覚持つひとがある程度いるんじゃないですかね。わたしは、生まれ育った街でずっと暮らしていけている人が羨ましいです。小さい頃の思い出やら、学校時代の思い出、人間関係なんかも、ずっと分断されることなく時とともに「調和」され、人生が出来上がっていく。わたしのように、中途半端な歳で故郷を離れると、まるで「切り花」になった感覚に陥ります。「根」がなくて、いつまでたっても「お客さん」みたいな感覚。
20歳くらいの時に読んだ本に「カウンセリング詩」という本があって、今でも気に入って時々読み返す本があります。カウンセラーが書いたもので、短い詩が書かれていて、それを読むとカウンセリングを受けたような効果があると謳った書籍です。時折、読み返しますが、いままであまり目がいかなかった詩(お気に入りの詩ではなかった)の言葉がひっかかるので・・・しばらく「この言葉」を拠り所にして、暮らしてみようと思います。
<天国に行く道>
天国に行く道に迷って老人に尋ねる
一体ここはどこでしょう
老人はこたえる
「無明」
それじゃ右へ行けばどこへ行く
老人はこたえる
「無明」
左へ行けばどこへ行く
「無明」
真っすぐ行けばどこへ行く
「無明」
天国へ行く道はどこにある
老人はこたえる
「自分が決めればそれで済む」
<参考>※無明=無明(むみょう)とは、仏教用語で、無知のこと。とくに仏教の説く法(真理)に暗いことをいう。
この概念は、形而上学的な世界の性質、とりわけ世界が無常および無我であることの教義についての無知を指す 。無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。