『いや、気遣いはいらないっスよ…』
「月光条例」の天道の気持ちが、なんとなくわかるような気がするほど
老婦人は何度も丁重に礼を述べている。オレにしてみれば
寿司にワサビをつけて喰うぐらい…の当たり前だ。
学校を出て、車通勤でないのをイイことに…缶ビールを買って
一気に喰らうと電車を特急に乗り換えた。
まぁ、これは日課のようなもの…ちょっと違ったのは、満員電車に
大荷物の「老婦人」が立っており、すぐ傍の席が空いたことに
気付いていなかったことだった。
オレはその席を、他の乗客に取られないように空席の前に立ち、
老夫人の肩を軽く叩いて……「空いてますよ、どうぞ。」と、自分が
疲れていることを棚に上げ、席を譲った…ただそれだけだ。
えらく、それが…喜ばれたらしいようだ……。
オレは特急列車の壁にもたれると、ずっとルアーフィッシングの本を
読みふけり、大きな駅で老婦人の隣が空いたのでそっと座った。
老婦人は丁重な礼を何度も述べてくれる。
恐縮さを感じつつも、オレは先に書いたとおり、『いや気遣いは
いらないっスよ』と礼の数だけ返している。
本当に当たり前のこと……だよね?気分は悪くないけど。
オレが降りる一駅前で、老婦人は乗り換えすると言った。
釣りの雑誌を余所にオレは、『大荷物ですから、気をつけて下さいね』
と、返事を返した。
老婦人は、駅に降りると、閉まる扉の向こうにいるオレに向かって
深々と、勿体ないくらいの御辞儀をして下さった。
オレも老婦人の礼に応えるようにアタマを下げる。
そして、今頃思うのだ……
『いい一日だったなぁ…』 と。