昨日 今日ととてもいい天気だ。
本当は映画を観るつもりだったのだが、チケット購入のカウンターまでのあまりの長蛇の列にうんざりして、今 新宿御苑でこれを書いている。
リラックスするには多少人気が多い気もするが、それでも新宿の街中を徘徊するよりもずっとましだと思う。

今座っているベンチの前には開けた芝生の広場があって、そこで幼い子供たちが楽しそうに遊んでいる。皆、小さな2、3歳の子供たちだ。周りには母親達がいて跳ね回る子供達を眺めている。走り回ったり、鳩を追いかけたり、泣いている子もいるようだ。あっ 転んだ。良かった、すぐに立ち上がったな。泣いてもいないし、まるで転んだことなど知らないかのように走って去っていった。楽しそうにママと叫ぶ声が聞こえる。ベビーカーの中で、汗で額にべったりと前髪を付けて眠っている子供が私の前を通り過ぎて行く。何という名前かは知らないが、聞き覚えのあるスズメの声に混ざってその小鳥がさえずっている。時々、柔らかい 心地よい風が、日に透かされてライトグリーンに輝く緑に覆われた梢を揺らすと、周りに立ち込めた緑の青臭い空気をさらりと吹き払ってゆく。地面から立ち上る心地の良い冷気が土の香りを伴い鼻先まで立ち上ってくる。私はその香りを胸一杯に吸い込む。休憩所には幾らかの食べ物や飲み物もあるのだが、この香り以上のものはきっとあるまい。

私はこの新宿という街があまり好きではない。が、いろいろな理由からここへ来ることが多い。まぁ、東京を構成する重要な街の一つだ、何かと便利でもあり、たいていのものはここで手に入れることが出来るし、およそこの都市で生きるものでこの街を訪れない者は少数派であろう。
先にこの街を徘徊するよりましだと書いたのは、この街の景色が私の心を苦しませるからだ。
寛容というものとは無縁のこの街では、私の眼には誰も彼もが自身を強く見せようと懸命に気を張っているように見える。商売に携わる者にとっては戦場の最前線である訳だから、それも分からない話ではない。しかし、休日 和やかに楽しく過ごしたいはずの友人同士、いや恋人同士でさえ互いに強がり合っているように見えるのだ。


そう見えてしまうのはお前のケチなやっかみ、ひがみ根性からだと言いたいのだろうが、まぁ待ってくれ、そんな事は私だって分かりすぎるほど分かっているのだ。ただ私の日々の生活は先に紹介した通りのものだ、そういった眼差しでしか物事を見れなくなっているのだよ。何せもともと意地の悪い歪んだ性格に不健全な生活がそうしたことにさらに拍車をかけているのだから。まぁ、そういったケチな変人がほざいていると思って大目に見てほしい。何せ相手はキチガイだ、よってたかっていじめても一文の得にもならん。


彼らはまるで相手に隙を見せない。いつも駆け引きや精神戦を繰り広げているように私の目には見えるのだ。それは、この街に集まる人間や又、その目的がそうさせているのだと私は思う。ここに集う人間もきっと普段その生活を置いている世界ではそのようではないと思うのだ。きっと人を思いやることもあるだろうし、誰かの助けになっている人もいると思う。しかし、この街はもう随分と以前に人の営みや生きた生活という側面を失わざるを得なかった街だ。もちろん、今でもこの街で生きた暮らしを営んでいる人たちもきっといるには違いない、しかし、その人達に対してここを訪れる人間の数はあまりにも多い。そんな人たちの生活の匂いなどいとも簡単に吹き飛ばしてしまう程の力で圧倒してしまう。この街は完全によそ行きの街なのだ。皆がこの街にとってはよそ者であり他人なのだ。そうした他人の街は、街全体が商業地であり、テナントビルの様なものだ。そんな街に入り込むと人の心にも少しばかりの変化が起こるのだろう。見栄を張ってみたり、相手より強く、立派に見せようとして頑張ってみたり、知識やセンスをひけらかしてみたり。


そういったものをあちらこちらで目にする為にこの街がひどく私の心を疲れさせるのだろう。あまり目にしたくはない人の一面を目にせざるを得ないために私の心を苦しめるのだと思う。


しかし、私もまた強がって生きる人間の一人なのだという事も私自身よく分かっているつもりだ。

だいたいにおいて、私自身が非寛容な人間であり、怒りっぽく、他人に対して優しさをもって接するということが少ない。そうした私を含め、そうせずに生きたいと誰もが願うが、人の社会も、又、人自身も、自分が裸だとは知らず、あるがままを受け入れて生きていた頃にはけして戻れない。したがって、多少の強がりも許されてしかるべきなのかもしれない。いや、そういった人の弱さを受け入れることこそ寛容さなのかもしれない。


いずれにもせよ、まぁ、私がこの街で心を疲れさせてしまうというのは、私の心が小雀よろしく臆病で、敏感すぎて、ちょっとしたことに過度な反応をしてしまうせいなのだろう。秤に肉をのせて、端数を簡単に切り捨てて、おまけにしとくよとニッコリと笑えるような肉屋の親父の心があればこんなことを考えることもないのだろう。そのような心を持ちたいものだとつくづく思う。
そういうことにしておこう。


今日は随分話してしまった。おしゃべりが過ぎた。きっと天気とこの緑のせいだ。
もう閉園の時間が近い、ここで終わりにしよう。


今日は空が白い。多少蒸し暑くもあるな。

そう、私が育った土地もこういう空の日が多い土地だった。
いつも空は白く曇っていて、抜けるような青空を見た記憶があまりない。少なくとも私の記憶に残っている郷里の空は白い空だ。こういう空の日はまるで時間が止まったかのように感じる。又、自分の住む世界の上に蓋か布巾でも被せられているかのような 言いようのない重苦しさや息苦しさを感じながら私は育った。
 その土地は低地で 平たい耕作地が広がるような土地だった。前後に山があって、後ろの山には比較的近く、前の山には遠かった。その裏手の山には歩いて20分程で行くことが出来た。その手前に大きな川が流れていて、過去によく氾濫を繰り返したのだろう、かなり上流のほうから高い堤防でぐるりととり囲まれていた。その堤防を頼りなげな 細い舗装路が這うように上ってゆく。田舎の舗装路の典型で盛った土を打ち固めて その上を薄いアスファルトで覆っただけのものだ。その程度のものだからあちこちが、その当時でさえへこんだりひび割れたりしていた。そんな道に申し訳程度のガードレールが備え付けられていてその色褪せた白い色が全体の様子をより一層みすぼらしく見せていた。その辺り一帯には人家もほとんど無く、夏の暑い盛りには堤防を一面雑草が覆い尽くして濃い草いきれが立ち込め、冬は黄色みを帯びた薄いベージュ色になった枯れた雑草の上を冷たい乾いた風が音を立てて吹きすぎていたのを覚えている。
その坂道を上りきると いつも灰色がかった色をした水の流れる川に出た。
 この橋、いやこの川は私にとってあることを連想させるものになっている。そのことは後に語ることもあるだろうからここでは触れずにおきたい。
 そこは海から比較的近いところにあって、満潮時や大潮の日などは ここからは上流になるが、この川の一番下流の水量調整用の堰まで海から潮が逆流していた。潮が引くと川縁にはべっとりと干潟の泥が残されていて、橋の下は一面灰色の景色しか見えなかった。そのほか見えるものといったら川縁の鬱蒼とした背の高い萱とセイタカアワダチソウくらいだった。その茂みの中で時折獣じみた鳴き声をたてる鳥などがいたがなんという鳥なのかは知らない。

今こうして思い起こしてみると、私の記憶にはこの土地の白い空と灰色の川辺の景色がとても強く印象に残っているようだ。何にもせよ私の周囲には彩りといったものが無かった。


白い空と青黒い土、そして灰色の川。

家の前方に見えていた山というのは、なんの特徴もない田舎の山で、低く 趣も気品もない稜線がうねうねと西から南までうねっていた。三つくらいの稜線が重なっていただろうか、濃いターコイズグリーンから淡いターコイズブルーまでの段階的なグラデーションを見せていて、私はいつもその山をぼんやりと眺めていた記憶がある。
昔、今よりもずっと目が良かった頃は、夕焼けのオレンジ色に染まった空を背景に山の稜線を縁取っている木々がはっきりと見えて、伸ばした枝や太い幹など、細かな部分までよく見えた。
私はその度に あの木はどれ位の大きさだろうか、あの木の下には何があるだろうか、あの場所に立ったらどんな景色が見えるだろうかなどとよく想像したものだった。そうした空想に身をまかせているとき、幼い私の体は宙に浮き自由にその小さな世界を飛び回っていた。
家族で旅行へ出掛けるなどということがない家庭で育った私にとって目に見える周囲の世界が実存する世界の全てだった。私の家では外出が厳しく制限されていたので子供だけで遠くまで出かけるということは絶対に出来なかった。そんな行動に走ろうものなら後で何をされるかわかったものではなかったからだ。

私はその灰色の土地に生えた植物のようにその青黒い土に縛り付けられていた。


 今日はとてもいい天気だった。こういう光が細くて少しだけ肌寒い日は何かこう気持ちがしゃんとして、何かを始めるのにはちょうどいいように思われる。

 私はここでは、何か政治的であったり、誰かや何事かを批評したりすることはしないよう努めたいと思う。 何故なら、そういう自身の思想を云々するのは およそ独裁者による圧制が行われているということでなければ匿名でなくて、きちんと名前を出して行われるべき事だと私は考えるからだ。

そう、私はここでは徹頭徹尾、自分自身に関することを書いていきたい。

それでは 自己紹介がてら私のことについて少しだけ話してみたいと思う。

 私は東京の北のへりに住んでいる。この街に移り住んで丁度2年程なるが、それ以前は長く関西に住んでいた、といっても私自身関西人というわけではない。私が生まれたのはもっと西の外れのさびしい土地だ。まぁ、私がもし関西人だったなら、もっと人なつっこい、好感触な人間になっていたことだと思う。いや、こういうとあまりにも関西人に対してステレオタイプなイメージを抱き過ぎているかのようだな。 まぁ、ようするに私がいいたいのは今とは違った人間になっていただろう位のことだ。
 冒頭でも述べたことだが、私は陰気で性格の歪んだ、ほとんど笑うということを知らない男だ。日々会社と自宅を原生哺乳類よろしく単純に往復する生活を送っている。そうした私を周囲の人々は奇妙な目で見ていることだと思う。毎日同じ電車で出勤し、同じルートで会社に向かう。昼時になれば同じ店に行き同じメニューを頼む。同じ時間に仕事が終わり、同じ電車で帰宅する。途中でどこかによることもほとんどない。帰ってからも食べなれた自分の味付けの料理を食べて、1~2時間ほどイーゼルに向かい、本を読み、日中に書き溜めたこのブログ用の文章の添削をし、ほぼ同じ時間に眠る。こういった生活をもう5年ほども続けている。

 しかし、そのかわりといっては何だがこと仕事に関しては誰からも後ろ指を指されないような誠実な姿勢で臨んでいるつもりだ。
仕事は特殊といえば特殊な仕事をしている。造幣局で金型を彫っているというほど特殊ではないが、まぁ電気関係で手仕事と言っておこう。世間一般にサラリーマンといってイメージされるようなスーツにネクタイという人種ではないということだ。
ビルの一室で一日中、蛍光灯の下、専用の部屋で黙々と自分の仕事に没頭する。会社にいる間、誰かと話すことはほとんど無い。話すことといえば、いわゆる“報告・連絡・相談”というやつで、仕事に関係する事だ。故に、数少ない日常の会話においてもその事務的な口調や、文章的な言い回し、表現などが自然に出てしまう。そういったことが私の持っている“キモチワルイ”という印象 雰囲気をより一層濃くしてゆく一因になっているようだ。


 そもそもが 私は会話が極端に苦手だ。苦手を克服する云々というレベルの問題ではなく、これは一種 先天性の病気のようなものだ。思うに これは私の子供時代の成長が健全でなかったせいだろうと思う。

そう、私がまだ小学校の3、4年生くらいのころだっただろうか、 当時もう今の私の原型は出来始めていた。私の父親は私のことを完全に失敗作と見なしていた。そうして、そのような私を嘆くと同時に、何よりも自分を情けなく思い、自分自身を恥じていた。それは当時子供だった私にもすぐにわかった。彼にしてみると私は明らかに期待したような男の子では無かったようだった。彼が男の子に期待したのは、多少馬鹿でも、やんちゃで明るく、たくさんの友達に囲まれている野球少年のような子供が欲しかったらしい。 間違ってもいつも物思いにふけっていて、ぼんやりと空ばかり見ていて一人で絵などを描いているような子供ではさらになかったのだ。 そうした私を彼は一時期本気で自閉症の子だと断定し病院に入れたがっていた。 「お前は自閉症だ」と酔って赤く充血した目をぎらつかせてさも残念そうに私に言ったときのあの酒臭いにおいと自分を恥ずかしく思うようなさまを今でもはっきりと覚えている。 


しかし、最近はふと思うようになった。もし彼が言った通り、私が本当に自閉症で、まぁ軽度にもせよ 本当にそうで、にもかかわらず健常者と同じ世界に無理に生きているのだとしたら、生きていきにくいというのもまんざら納得のいかない話しではない。

もしあのとき、本当に病院なり施設なりに入れられていたとしたら別の人生があっただろうか。