私は基本的に朝食はとらない。本当はとった方がいいことは分かっているし、とりたいとは思っているのだが、なかなか朝早く起きることも出来ないので、コーヒー一杯をいれるのがやっとの状態である。しかも、それさえも全てを飲みきらずに家を出ることになるのがほとんどである。


まぁ、本音を言えば、べつにどうしても朝食をとらなければならない程お腹が空いているわけではないし、別段欲しくもないのだが、お昼も食べないことがほとんどの私にとっては、放っておくと夜家に帰って来るまで飲み物しかとらないということにもなりかねないので、無理して食事をとるように意識しているのである。よくあることだが、休みの日などで、気がついたら朝からお茶とコーヒーしか口にした記憶がないのに、もう暗くなっていたということもある。しかし、こう書いてしまうと全く食が細い人間のように思われるかもしれないが、一転して一日に4回、5回と食べるときもあるし、3人分のピザをペロリと平らげた挙げ句、まだお腹が空くというような日もある。我ながら妙な体質だと思う。


そういうことなので朝はコンビニでおむすびを一つ買って、それで朝食を済ませている。私は基本的に歩きながらものを食べるのは嫌いな質だが、そうしなければ遅刻してしまうので、たいていは会社への道のりをおむすびを食べながら急ぐ毎日だ。


しかし、今日はいくらか時間があったので、駅前のベンチに座って食べることにした。コンビニの袋をガサゴソとしておむすびを取り出し、フィルムを剥がしていると、傍に植わっている桜の木から、軽い羽音を立てて足下にスズメが一羽おりてきた。カラスにしろスズメにしろ、鳩もそうだが、こうして都会の生態系に生きる半野生の鳥たちは人間を恐れない。こちらが驚くほど近くまで寄ってくることがしばしばある。この時も私の足から20~30センチの所にちょこんと立って、おむすびを手にした私をつぶらだが賢そうな目をして見つめていた。どうやら餌をねだっているらしい。いつもの私ならそうしたことはしないのだが、この時は妙にこのスズメに餌をあげたくなった。私はおむすびを一口食べてご飯粒をつまむと、それをそのスズメの鼻先の辺りに落としてやった。スズメはそれを急いで拾い上げてピョンピョンと三歩ほど遠ざかると、小さなくちばしを忙しそうに動かしてすぐに平らげてしまった。そうするとまたピョンピョンと私に近づいてきて、またねだるように私を見つめにかかった。その仕草があまりにも可愛らしく、面白いので私は三度、そうやってそのスズメにご飯を分けてやった。


近くで見るとスズメなどはおそろしく小さい。まるでおもちゃのようで、何かこう、すごく簡単な仕掛けで動いているような錯覚すら覚えさせるほどだ。そして、その小ささに加えて、スズメは両足を揃えてピョンピョンとカンガルーの様にジャンプして移動するので、そうしたことが愛らしさを増すことに一役買っているのだろうと思う。


おむすびを食べ終わると、私は相手が理解しないことなど百も承知の上で「いつもこうして餌を貰えると思うなよ。頭のおかしなつまらない人間は多いからな。」と言い残して会社への道を急いだ。


朝から寝不足だったし、風邪もなかなか直らないので体調も良くなかったのだが、不思議と気分が晴れて、何となく足が軽いように思われた。


つまらない話だが、そのスズメの目や仕草がとても愛らしかったので書いてみた。特に意味はない。

ここ一週間ほどずっと風邪に苦しめられている。一時は直ったと思ったのだが、ぶり返したあげく前よりも悪くなっており、鼻水が止まらず、咳が出て、とにかく喉が痛い。どうも今年の風邪は喉にくる傾向があるようだ。日によって肩や背中に痛みや悪寒があってどうにもしようのないような日もある。しかし、風邪くらいで休む訳にもいかないし、何より私はいよいよというふうになるまで高い熱が出ないために、少しばかり具合が悪くても何とか動けてしまうのである。恨めしい体質だが、まったく、真綿で首を絞めるとはこういう事を言うのであろう。


今日は祝日らしい。世間は三連休なのだそうだ。しかし、私の職場に祝日など全く関係がないので、休みで人気の少ない通勤路を職場まで通い、今日も普段と変わらず働いている。台風の影響からか雨が降っており、地味な白い雲から地味な小さな雨が、ポツポツと途切れ途切れに降っている。


祝日はおろか、土曜日も出勤することが多い私は、こうした世間一般が休みの日に、どこかに遊びに出掛けるのであろう人々と電車で行き会うことがよくある。それはもう種々雑多な人達で、観光ツアーの外国人から小さな子供を連れた家族連れ、4、5人位の中高生の集団やカップル、果てはお爺さんお婆さんまで、本当に幅広い。それもそのはず、この街は一国の首都であると同時に観光の対象にもなっているし、その上、すぐ目と鼻の先に世界的に有名な鼠のテーマパークまであるのだからなおさらだ。そうした人達を見ていると、時々、私のような人間でも考えることがある。いや、考え込んでしまうといったほうが当たっているかもしれない。


妙な話だが、ずいぶん前から、私は遊ぶという行為がよく分からなくなっている。いや、正確に言えば、頭では理解出来るのだが、感覚的にこれがそうであるといったふうにはっきりと捉えることが出来ないのである。先に述べた人達のように、例えばどこかへ出掛けて、なにがしかをして楽しむという行為が、連続した目的の遂行とどこが違うのかが私にはよく分からないのだ。


私を例にとれば、例えば私がある所に行くとしよう、私にとってこれは、そこに何らかの目的の物なり、事なりがあるための移動にすぎないのだ。次に、目的地に着いて、そのことを行ったとする。これはもうそのまま目的を遂行したという事に過ぎないし、もしこのまま帰る、つまり最初の地点に戻るとすれば、私がおこなったことといえば、単にある目的なりイベントを遂行したというだけに過ぎないのだ。この目的の遂行と遊ぶというものの間にはどれほどの違いがあるのだろうかということなのだ。そうしたことを考え込んでしまうのだ。


それでも、私なりに導き出した答えがあることにはあるのだ。それはつまり、遊ぶとは何よりも“楽しいということを楽しむ”ということだと私は思うのである。これは決して言葉遊びなどではない。一般に“遊ぶ”と言われているようなメニューを、どれだけ大枚をはたいて楽々と行えたとしても、それは決して遊ぶということではないと私は思うのである。それは先に述べたように単なるイベントの遂行にほかならないからだ。その一連の行為の中で、楽しいということを楽しめていない状態ではやはりそうなのだ。


私はこの“楽しいということを楽しむ”ということは意識外のものであろうと私は思っている。つまり、どれだけそれが愉快だと思う状況であったとしても、そこに意識が働いている状態ではやはり“楽しいということを楽しむ”にはなれないのだ。


意識は心に寄り添っている。しかし、人が楽しいと思うとき、意識は人の心を瞬間的に離れている。勿論それはすぐに戻るのであるが、その一瞬間、人の心はその心自体に積み重なり、生成されたものによって“快”を得ているのだと思うのである。そして、そうして意識と心が離れたり戻ったりする運動、それらによって得られる“快”の量や密度等を包括したものを“遊ぶ”というのではないかと、“楽しい”というものなのではないかと、私はそういった答えに思い至ったのである。


こうしてみると、心に対して意識がより強く影響力を及ぼしているような場合、そうした人間は、先に述べた“快”を感じることが、そうでない人間よりも困難であり、よって本当の意味において“遊ぶ”ということが出来ないのではないかと思うのである。鮮明すぎる意識がどうあっても心を離れることがなく、心にその自由な活動を許さないからである。



私はこの他にも、友人の定義とはだとか、神の不完全性だとかいったような下らないことを無限回帰よろしく延々と考えていることがある。思えばこうした行為自体が極めて不健康で非人間的な事であると思う、それはよく分かっている。しかし、つい考えこんでしまうのだよ、そうでもしなければただの一日とて、とてつもなく長いのでね。


どうやら熱に浮かされて下らないことを長々と話してしまったようだ。今まで話したことは、あくまで私のつまらない頭の中で考え出されたことで、何らの学術的根拠や裏付けがあるわけではない。あくまで私個人の考えた仮説だ。その上、遊ぶという行為には様々な性質をもった形態が複数あり、今ここで述べたような“遊び”はその中のひとつでしかない。何より、この考えにしたってまだまだ不完全なものなのだ。


いや、こうした弁解じみたことを話すのはやめよう。そんなこと必要ない。
こんなことはみんな下らないことだ。

何もかも下らないことだ。

三日前からどうも体の調子が悪い。それでも今日はいくらかはましになっているようだ。まぁ、恐らく、もう早速風邪をひいてしまったのだろうと思う。まったく、我ながら、こうした有り難くないことにかけては無駄に流行を先取りする、この体が恨めしい。もっぱら風邪が鼻からくる私は、とにかく尋常じゃない量のさらさらとした水のような鼻水が、壊れた蛇口よろしく止めどもなく出てくるので仕事にも差し支えるし、そちらの方に水分が奪われるせいか、とにかく目が乾いてどうにもしようがない。まぁ、熱が出てうんうん唸りながら寝込むことになるような、風邪が熱からくるタイプの人よりかはいくらか楽だろうとは思うのだけれども。


私は先日書いた日誌の、あの小学校の話で、書いている当時どうしても自分の感じたままのことを的確に言い表せなかったような感じがして、その後ずいぶん長い間考えを整理しようと努めていた。そうして、いくらか思い至ることがあったので、追って書いてみたいと思う。


今にして思えば、私はあの時、神の視点に立っているような感じがしていたのだろうと思う。寂しい山頂で、その小学校の校庭を見つめながら、まるで箱庭の中に造った自分の小さな創造物の、ささやかな営みを眺めているかのような、そんな感覚だった。おそらく、神が存在しているのだとすれば、こうした風に我々の営みを眺めていることだろうといった、そういった感じだった。


創世記の一節で、ソドムとゴモラのふたつの街を滅ぼしに行く神に(天使でもかまわない)、アブラハムが何度も問いかけるという箇所がある。アブラハムはこれこれの場合でも滅ぼされますか、このような場合でもそうされますかと何度も神に問いかけて、最後に、たとえその街に10人しか正しい人がいなくてもこれを滅ぼすことをしないという神の答えを聞く。その後、結局このふたつの街は滅ぼされてしまうのだが、私はきっと例の山頂で、あの小さな小学校の校庭を見つめているその時に、神がアブラハムに言ったその“10人”を見ていたのだと思う。


国の内を見ても、外を見渡してみても、また、地球全体を捉えてみても、何とも言いようのない閉塞感が漂っていて、国が潤っていてもそうでなくても、不安や空虚さを感じずにはいられないような時代だ。拝金主義やセレブ崇拝が蔓延っていて、いやがおうにも嫌世的になってしまいがちだ。その上、私のような陰気で人好きのしないへそ曲がりではその傾向はとくに顕著になる。ちょっとしたことで腹を立て、気落ちして思い悩み塞ぎ込むような私だ、きっとその時も、そのようなやり場のない怒りや不安を抱えていたのだろうと思う。そうしたどうしようもない人間でも、やはり人を信じたいと願う心がどこかにあるのだろう。そうした時に、そうしてもいいのだ、人は元来それに足る存在なのだという、その“10人”を見せられて、それで、それがそうした部分に触れて、その時私の心と体を震わせたのだろうと思う。



まったく、いくらか考えがまとまったと思ったのでこうして追記してみたのだが、言葉というものは難しいものだ。自分が感じたこと、思ったことを書ききれたとは到底思えない。言葉を操るというのは、なかなかどうして易しいことではない。まぁ、言い表せないことなら、それはそれでそのままにしておこう。それにはきっと何か理由があるに違いない。いや、ただの下手くそな文章のせいか。それならそれでもいい。そうしておこう。


それはそうと、今夜の月はとても綺麗だ。