最近一気に寒くなったように感じる。ほんの少し前までは寒いとはいえ、多少曇りながらもワイシャツにジャケットで過ごせていたのだが、最近はそろそろコートがいるかもしれないなと思うようになった。


まだ緑色の葉が残る中に赤く紅葉した葉がちらほらと混ざり始め、それが日に日に赤い調子が勝っていっていた桜の木も、ついこの間、燃えるように赤く艶やかな姿になったと思っていたら、今はもうすっかりその艶も失われて、赤く紅葉しながらもまだ水気を含んで艶やかだった葉はすっかりかさかさと乾いた枯れた姿になり、ふとした風に枝から離されて自らの根元に何とも言いようのない秋色の調子の絨毯を敷き詰めている。


桜とはつくづく刹那なものであると改めて思い知らされた数週間だった。春の花の季節も、ちらほらと花芽が開き始めたかと思えば、一日と経たぬうちにその様子を刻々と変えてゆき、あっという間に満開になってしまう。そして、満開になったかと思えば、もうその時にはすでにその花を散らせ始めている。「今度の休みには花見でも...」などと思っていても、その休みの日には、もうその時に花見でもと思わせた姿は留めてはいない。常にその姿を変え続け一瞬一瞬を思い知らされる稀有な存在だ。そういうことだから私は春の花見にしても、いわゆる桜の名所といったところにわざわざ足を運ぶということは非常に稀だ。わざわざそういったところに足を運ばずとも身近に桜の木が植わっているということも勿論あるが、しかし、それよりも美しいと思ったその時、その瞬間に、過ぎ行く時を惜しむかのように咲き誇る花を見るのがどれほど名所と呼ばれる桜を見るよりも美しいと私は信じているからだ。そうした時、私は桜の姿を借りて自分自身やこの世界を通り過ぎてゆく時そのものを目にしているような気がする。そうした美を目に見るのにどんな名所の桜も要りはしない。公園の桜でも、街路樹でも、植え込みに残った枯れかけの桜でも十分なのだ。大部分が枯れてしまい、一枝だけ残った若い枝についた花芽が開くその様が美しいのだ。その移ろいこそが美しいのである。


春の花の季節と同じように、今年の秋も私にその素晴らしい移ろう時の姿を見せてくれた。



私には借金がある。銀行の住宅ローンなどではない。消費者金融、つまりサラ金だ。ほぼ年収と同じくらいの額がある。訳あって昔作ってしまったものだ。もう10年ほどの付き合いになる。

今更だが、もうどうしようもないほどに返せる見込みがない。

そういう訳で、こんどこの借金を整理しようと思っている。といっても、私に全額を払えるお金などある訳はない。

自己破産も視野に入れて、弁護士を介してかなりの荒療治をするつもりだ。今更だが過去の清算だ。

これは冗談ではない。本気でそう考えている。

誰から憎まれようとそんなことは知ったことじゃない。誰のどんな批判も受け付けない。卑怯者にもなってやる。

私は生きることに決めたのだ。

その為には手段は選ばないつもりだ。

きっと成功させて見せる。

私の住んでいるこのたくさんの団地のある町では、夏祭りというものはあっても秋祭りというものはない。ここに住んでもうかれこれ3年になるが、そうしたものを見たことは一度もない。


夏にはこの地区の住民達によって毎年盆踊り大会が行われている。団地の敷地内にある広場に櫓が組まれ、たいてい毎年出店が2つ3つ出ていて、いつも子供達の楽しそうな声でとても賑わっている。中央の櫓では大人達によって盆踊りが行われるのだが、その人数はとても少ないものだ。ざっと見ただけでも30人に届かないくらいだと思う。紅白幕で巻かれた櫓の上には太鼓を叩く人はなく、スピーカーから盆踊りの曲が流されているような状態だ。その流される曲目も地域独自のものではなくて、関東一円に広く知られたごく一般的なものだ。


このイベント自体は有意義なものなのだが、何となくその様子は空虚な印象を与えるものがある。なんと表現したらいいか、どうも上手い言葉が見つからないが、何となく宙ぶらりんで、歴史から断絶されたもののような、不確かで、とりあえずのもののような、そうした空な印象を私に与えるのだ。まぁ、だいたいにおいて、このイベント自体が、子供達に夏祭りの雰囲気を楽しませてあげるためのものであったり、地域のコミュニティー作りの一環として行われているようなものなので、私がそうした印象を持ったとしても何ら不思議なことではないと思う。本来の宗教的意味合いや死生観といったものは、もはや必要ではなくなってしまったことから失われてしまい、表面的な楽しいイベントの部分だけが模倣されて行われているに過ぎないからである。ここは、戦後の焼け野原でさえない、首都の縁に残っていた中世以来の農地の後に急拵えで出来た新興の町なので、土地の歴史や伝統に根ざしたものなどあるはずもないからである。よしんばそうしたものが過去にはあったのだとしても、戦後の人口の流入流出によってもうとうに失われてしまっているに違いない。


私の生家の近くには小さな神社があった。歩いても15分とかからない位の近さだったと思う。小さな神社だったが祠というようなものではなくて、ちゃんとした神殿を持つ神社だった。詳しい数字は忘れてしまったが、たしか創建が西暦の700年代で、もうあと何年かで1300年祭だったと思う。その昔、いつか話した家の裏手にある河が氾濫を繰り返したために、それを鎮めるために水神としての神を勧進して建立したといわれている。


その神社の前にはおよそ150メートル位の参道があって、その参道は中世以来の古い街道と直接つながっていた。参道の入り口の所に大きな鳥居が建っていて、正確に北の方角を向いて真っ直ぐに伸びていた。道幅はだいたい車一台が通れるくらいの幅で、両側には石の灯籠が対になって数メートルおきに置かれていた。神社の手前まで来ると、川幅2メートルに満たないほどの川をまたぐアーチ状の石橋が架かっていた。その橋を渡りきった所に、はじめのものよりも幾分小さな鳥居があった。それは、昔の人の身長の低さをあらためて感じさせるような、ちょうど古い日本家屋の鴨居の低さに不思議な驚きを覚えるのと似た、そうしたほのぼのとしながらも奇妙な、何ともいえぬ違和感を感じさせる鳥居だった。境内は玉砂利などがひかれた厳かなものではなくて、地面が剥き出しのグラウンドのようなものだった。その地域の公園のような使われかたをされていたので、ゲートボール用の矩形が、まるで神様に遠慮しているかのように、目立たぬよう、細いロープによってかたち作られていた。神社の建物自体はもちろん創建当時のものではなく、何度も立て直された末に今のものに落ち着いたのであろうような、ひなびた感じの、きわめてありふれた質素なものだった。その建物の向かいには、以前は田舎芝居でも行われたのであろうことを想像させる、簡素な作りの舞台が残されていたのを覚えている。


この神社自体は扇状地の平野に突き出した岩山に建てられたものだった。きっと今のような大きな堤防のなかった昔は、河が大規模に氾濫すると、この辺り一帯が一面水浸しになって、この小山のような岩山が水浸しになった平野の中にぽつんと、まるで小島か何かのように浮かんでいたのであろうことは容易に想像することが出来る。そうしてこの平野に浮かぶ小島のような岩山は、椎や楠の木などによって遠くからも黒々と見えるほど鬱蒼とした緑に覆われていた。毎年夏になると、けたたましいくらいの鳴き声で蝉が鳴いていたのを今でもよく覚えている。


この神社の向かって右側の方からこの岩山の山頂に登ることが出来た。登るといってもとても低い小山なので大層なことではない。子供の足でもものの数分で上まで行き着くことが出来た。山頂に続く道には、いつの時代のものとも知れない古い石積の階段があった。子供の頃に初めて上まで登った時には、きっとこの上には何かすごいものがあるに違いないと思って期待を胸に膨らませて登ったあげく、意外にも小さな祠以外に何もなかったことに肩すかしを食らったものだ。しかし、考えてみれば、この岩山自体に神が宿っていて、信仰の対象になっているのだから、そんなことは至極当然のことなのだと今でこそ思えるのだが、当時の私には鬱蒼とした木々の中に隠された奥深くには、何か神秘的なものがあるように感じられたのである。そして、そうした感覚を私が抱くようになったのはおそらく祖母の影響だと思う。


祖母は何にしろ、とても信心深い質の人だった。神にしろ仏にしろ、とにかくそうしたものに対して畏怖の念を持っていた人だった。時としてはそれが度をこしてしまうことがあったけれど、とにかく、そうした超自然的なものを畏れ畏む人だった。この神社に対しても、いたずらな気持ちで軽はずみに立ち入ったりなどすると神様の使いに罰を受けるぞと、祖母には子供の頃よく叱られたものだった。今ではなぜ祖母がそう言っていたのかをよく理解することが出来る。もちろん祖母とは違って理性的に理解できるという意味である。信仰の対象は非日常的性格を持つものである。その非日常性ゆえに、神秘性や超自然的力を持つようになると信じられるものなので、そうしたものを“日常”によって失わせないためだったのだろうと思う。こういったことは古い言霊思想と似通ったところがあるのかもしれない。


この普段は静かな神社が賑やかになる日があった。それは秋に行われる例祭で、ある神事を行い五穀豊穣を願うというものだった。そのある神事というものはここでは述べない。詳細を述べてしまうと場所が特定されてしまう恐れがあるためだ。ここでは単に秋の例祭とだけ述べておくことにする。その神事には威儀を正した晴れやかな行列や様々な神事があり、たくさんの屋台の出店も出た。私が生まれて初めて本物の馬を見たのは、祖母に連れられて行って見た白い神馬だったと思う。お祭りや人混みが大嫌いな父親とは違い、祖母はこうしたお祭りごとなどがとても好きな人だったので、私がうんと小さかった頃はそうして何度か連れて行ってもらったことがあった。祖母といっしょにお祭りの行列を見たり、祖母から貰ったお小遣いで出店でお菓子を買ったりした。もう今ではその頃の記憶はうっすらと断片的にしか思い出せないが、とてもワクワクした不思議な熱っぽい空気に包まれていたことだけははっきりと思い出せる。その出店でいつも買って貰ったものにアイス最中があった。今思えば全くたいしたものではない。コーンの最中にバニラアイスをはさんだありふれたものなのだが、当時まだほんの小さな子供だった私には、祖母が買ってくれたそのアイス最中はとても大層なもののように思えて、弟と二人で食べたその味はとても甘く、まだほんのり暑さの残る秋の日には丁度よく冷たかった。はさんだコーンの最中の間から、溶けたアイスが垂れてきて手がべたべたになったのをよく覚えている。何でもないものがとてもおいしかった。


月日が流れて、私が祖母とお祭りに行かなくなってからも、祖母はそのお祭りに行っていた。もっとも、そのお祭りは神社の暦で行われる日が前もって決まっており、イベント化してその日を日曜にずらすなどということもせず、あくまで神事として行われていたし、その上、お昼過ぎ夕方前に行われるので、学校のある私達ではそもそもが行けるはずなどなかったのである。そういう訳なので私が帰ってくる頃には、お祭りを見終わった祖母が帰って来ている途中か、もしくはもう既に帰っているかといったような具合だった。東の方から補助車を押しながら帰ってくる、腰の曲がった祖母の姿は、何とも言葉にならないものだった。今でもそれを上手く言い表す言葉を私は見つけることが出来ない。それは不思議な、人のかたちをした何者かであった。


そうしてお祭りから帰っていた祖母が、いつもではなかったが、あのアイス最中を買っていてくれたことが度々あった。当時、馬鹿で生意気の盛りだった中学生の私は、祖母の買っておいたから食べなさいと言う言葉のままに、たいして有り難いとも思わずにそれを食べた。今にして思えば、祖母にとって私はどれほど大きくなろうと、生意気な口を訊くようになろうと、何度自分をクソババアと罵ろうと、何も変わらず、昔と同じほんの小さな子供だったのだろうと思う。当時の私はそんなことは全く思いもしなかったのだ。薄情にそのアイス最中を平らげている時でも、そのことを何とも思わなかったのである。つくづく愚かさとは恐ろしいものであると思う。いったい、私はどういう人間だったのであろうか。


私はこの街で生きることは出きるだろう。しかし、この街で死ぬことはどうしても出来ない。歴史から絶たれて、宙ぶらりんのまま、根無し草のようになることなど到底出来ないし、そうなりたくもない。この徹頭徹尾、現世利益的な街で生を終えるなどということは想像さえしたくないものだ。


ここは生きる者の街だ。

ここに人の死に場所はない。

少なくとも私の死に場所は。

今日はしとしとと雨が降っている。台風の影響で明日の日曜まで降るのだそうだ。この後雨足は強くなるのだそうだが、このまま風が強くならずに、しっとりとした雨が続くようなら二日ほど降り続いたとしても構わない。


日に日に歩道の上に落ちている落ち葉の量が増えてきている。自然とは不思議なもので、まるで誰かがきっちりと計ってそう配置したかのように、赤や黄色の葉が全体にまんべんなく、着物の模様のように美しく歩道の上に広がっている。そうした色とりどりの落ち葉を静かな雨がしっとりと濡らして、土曜日の静かな朝の空気に、湿り気を帯びつつもふわりとしたふくよかな香りを放っていた。


人は人から嫌われるのは好かないものである。何と言っても嫌われるより好かれる方がいいに決まっている。と、普通はそう考えるものだ。私も以前はそう考えていたし、現実の自分がそうなれないのをとても腹立たしく思ったりしたものである。しかし、今の私はむしろわざと人に嫌われるようにして生きている。


私もこの街に越してくる前までは、それなりに人との関わりのある人間だった。思えば友達付き合いのようなことをしていたこともある。もっとも、本当に相手は友達だったか、またそう思っていてくれたかは今では分からないが。何にせよ、人並みをいくらか下るくらいでも人間関係のある人間だった。しかし、今の私にはそうした人間関係はない。職場の人間以外には知り合いはいないし、いわんや友達など一人もいない。まぁ、今となっては友達の作り方も分からないし、だいたい友達というものがいったいどういうものかももうよく分からない。


始めはどのみち好かれないという考えから、嫌われるのを厭わない姿勢を持ったのが始まりだった。そうして自分が正しいと思ったことや、正しいと思われていても人がやらないことを進んで実践し、間違っていると思ったことは誰はばかることなく口にした。客観的にみて皆が正しいと思っているようなことなので、誰も反論など出来なかった。しかし、そうしたことを続けていると結果は火を見るより明らかで、私は仕事に関すること以外では、周囲の人間に煙たがられる存在になっていった。私もこうした結果になることは分かりすぎるほど分かっていたが、しかし、そもそもがどうせ好かれないというところを出発点としているので、たいして苦にもならなかった。それよりも、私を嫌われ者で構わないと思わせたのはそういった正義感ではさらになく、全く別のものだった。それは無関心がもたらす、別れに対する感情の鈍化だった。


思うに、人は年を重ねれば重ねるほど、別れの辛さが心にこたえるようになる。人と別れることのみならず、人と気持ちが離れてしまったり、変わってしまったりすることでも心に負担がかかるようになる。ずっと年若いころにはひとつの別れがあったとしても、新たに現れる出会いの機会によってそれらが相殺されていたわけだが、年を経るほどにそうした新たな出会いというものは少なくなり、得るものよりも失うものの方が多くなる。そうしたことに対して多くの人々は年相応に処世知というものを身につけて、自身の心を傷つけずに、出会ったり別れたりを上手に出来るようになるのであるが、残念なことに私はそうしたことにとても不器用であるため、当時どうしても心を痛めずに別れるということが出来ないでいた。そうした時に、この嫌われ者という奇妙な役回りは私にとってとても重宝な、都合のいい道具として役立つものと新たに発見されたのである。


始めから嫌われていれば、誰がいつ居なくなっても何とも思わずに済んだ。また、嫌われていると思えば誰の顔色も窺わなくて済んだ。自分が正しいと思う側に立っていれば何も恐れるものはなかった。嫌われ者になりきればなりきるほど私の心からは恐怖というものが無くなっていった。


しかし、同時にそれと共に新たに生まれてきたものもあった。何より私は人に心に対して無感覚になっていった。分かりやすくいえば思いやりの欠如だ。相手の心を理屈で推し量るようになった。今ではもう相手に共感するということがかなり困難になってきている。それと、いつも何が正しくて、どちらが安全かにいつも目を配っていなければならなくなった。まるで振れ続ける秤にこちらへいくら、こちらへこれだけと常に分銅を乗せ変えているかのようにだ。常にバランスをとって自分の安全を計らねばならない難儀な仕事を背負い込むことになってしまった。



正直なところ、この無感覚な嫌われ者の役回りも本当はやめにしたいのだ。自分自身がそうしたいと知りすぎるほど知っているくせに、しかし、別離への恐怖が私をこの嫌われ者の殻の中へ押し戻すのだ。


私は恐ろしい。あのしっかりと貼りついたものが引き剥がされてゆく時の、まるで生皮を剥がすような痛みが恐ろしい。そうした恐怖から、私はそれらがあまりしっかりと心に貼りつかないように、すぐに楽々と剥がせるように前もって処置を施しているのだと思う。


私は臆病者か?卑怯者か?君たちは私を非難するのか?

非難したければするがいい。しかし、わたしにどうしようがあろう?私は誰を信じたらいい?今まで誰も私を信じなかったし、信じられる人間を持たなかった私に、いったい何を頼れというのか。いったい何を信じろというのか。いつも、いつも裏切られるのではないかと、見捨てられるのではないかと、そうやって私の心からはどうしても薄汚い猜疑心が消えやらないのだ。この薄汚い猜疑心を追い払うためには嫌われ者の仮面がどうしても必要なのだよ。こいつがないと追い払えないんだ。