何時もの事とはいえ、土曜日の出勤は何ともいえない気だるさがあるものだ。
朝の通勤路にも人通りは少なく、車の往来もこころなしか少ないように感じられる。普段より周囲の世界が静かで、遅い朝をゆっくりと過ごしているだろう様子が家々の窓から冷たく冷えた空気を伝って届いてくるようだ。
我ながら不思議なことだなと思うのが、年に一度か二度、全く無気力になってしまう時がある。鬱状態というのとは少し違っていて、仕事にも普通に出掛けることが出来るし、その仕事自体も毎日きちんとやり切ることが出来て、家の事も全く問題なくちゃんとやれるのだが、何となく張り合いが無いというか、魂と肉体を繋いでいる何かが外れているような感じなのだ。まるで頭から下が自分の意思とは無関係に勝手に動いているようで、まるで誰かに体を操作されて動いているような、そういった感じだ。11月はまるでひと月の間そのような状態だった。いや、今もそういった状態が続いていると言えるだろう。
そうした時は、ひと月の間でも、ただの一冊の本も読まない。そもそも本を読もう、読みたいといった気が全く起きないのだ。それだけではない、こうして何か文章を書くことさえ、そうした気が起きないのだ。頭の中がぼんやりと白く曇って、どんなものの輪郭もまるでぼやけて見える。どれもこれもはっきりとは見えずに、その白く曇った中に滲んで消えていってしまう。
以前、私は短気で怒りっぽい人間だと話した。しばらく自分を内省してみて思い至ったことなのだが、思えば私はそうした怒りや焦燥感などによって感覚を鋭敏にさせることにより、人間らしい感受性や情緒などを保持していられるのかもしれない。常に苛々して社会のちょっとしたことにも不満や疑念を持ち、自分の未来について不安や焦燥感などを抱いて、まるで鷲に狙われる鼠の様に、ちょこまかと動き回って、逃げては餌にありつき、また走って隠れては餌にありつくといった具合に、常に何かに追われたり、必要に迫られたりしながらではないと生きているという実感を持つことや緊張感を保つことなどが出来ないのかもしれない。
随分奇妙な話だとは思うが、ここのところ何か不意に落ち着いてしまって周囲の世界の輪郭がぼんやりと見えるようになってしまっていたようだ。
しかし、そろそろそうした状態も終わりに近づいているようだ。なんとなくだが、生皮を剥がされたように鋭敏な私の皮膚に、しばらく遠ざかっていた周囲の世界がまたぞろ接近してきて皮膚に触れだしているのが判るのだ。
私の人生の再起動プランはまだ始まったばかりだ。今回の長年の債務の整理もそのひとつに過ぎない。
それでも、今年一年でかなりのものを変えることが出来た。長年の持病のようだった体質の改善や、今までの人生で染み付いてしまった悪い習慣や癖などをきちんと目標どおりに改善することが出来た。
来年に向けて二つほどの大小のプランがあるが、それはまたその機会に話すことにしよう。