モミジはもうすっかり枯れて、ほとんどの葉を落としてしまった。まだいくらか枯れた葉をつけてはいるが、風に吹かれる度に、まるで埃が払われるように、いとも簡単に地面へはらはらと落ちてゆく。

最近は空気も随分と冬らしく冷えてきて、手袋をしないと手が悴むほどになった。ついこの間まで黄色やオレンジ色をした、枯れ始めたばかりの部分があちこちに点在しているくらいだった空き地の雑草は、急に冷え込んだ冬の空気にさらされて、ほぼ一面黄色く染まってしまった。木々の紅葉もそうだが、今年のように一気に冬の冷え込みがやってくる時の方が紅葉は色合いが鮮やかになり、そうでない年よりもずっと美しい。まぁ、その代わり体にはたいそうな負担がかかるのだが、遅くまで暖かく、葉が鮮やかに染まる前に枯れて落ちていってしまう時のあの残念な気分を思えば、多少気温の急激な変化が体にこたえて体調を崩すことになっても、そうして美しいものが見られるのなら私はその方がいい。


私は普段の交通手段のほとんどが電車である。仕事の時も休みの日もそれは変わらない。バスもほとんど使わないし、タクシーにいたってはまず利用するということがない。


そういう具合で、普段から交通手段が電車のみの生活をしていると、自然といつも同じ時間に同じ場所を通りがかるということが多くなる。朝などは特にそうだ。遅刻することなく、且つ可能な限り遅くまで家でゆっくりしていようとすると、自然と乗る電車というものは限定されてくる。そういう訳で、毎朝同じ電車に乗ることになり、そして、それに間に合うように家を出るために、毎朝同じ時間に同じ場所を通過することになるのである。


毎朝いつもの道を、いつもの時間に歩きながら道行く人々を眺めていると、色々と面白く思われることがあるものだ。私も含めてだが、一見すると大抵の人間は毎日変わり映えのしない生活を送っているように見える。ことに朝の時間帯はそうした印象が他の時間帯に比べてとりわけ顕著に感じられる。


毎朝同じ時間に自宅のアパートの階段を駆け降りてきて、そのまま駅まで150メートルほどの距離を小走りに駆けて行く女性がいる。3日の内2日は見かける光景だ。見たところ普通のOLさんだと思われる。服装もいたって普通だ。むしろ走るには向かないような女性らしい服装であることがほとんどである。小走りにしても、およそ走るのには不向きな服装で、しかも、早歩きより少しだけ早いくらいの微妙な速度で駅まで一度も止まらずにコツコツと走ってゆく。走ったり急かされたりすることが嫌いで、その為に電車2本分余裕を持って家を出ている私のような人間からすれば、全く理解できないことである。時間にして、その小走りで短縮できる時間はおよそ6分から8分くらいだと思われるので、そのくらいなら10分だけ朝の起床時間を早めればいいのにと、毎朝彼女に小走りで追い越されながら勝手に思ったりするのである。


また、かなり以前からではあるが、幼稚園の年長らしき年頃の男の子を連れた親子をかなりの頻度で見かける。その男の子の機嫌にもよるのだが、たいていその男の子は父親の顔を見ることもなく、歩道の手すりを触ったり、手に持った荷物をもてあそびながら無心に何かを延々としゃべり続けている。機嫌が悪いときは面白くなさそうな顔をして、やはり何かを延々と口にしながら父親の前をどんどん歩いていってしまう。何にしてもその男の子はとにかく歩いている間つねに何かを話しているのだ。そして父親のほうも男の子の話にいくらかは答えているのだが、それが傍で聞いていても面白いくらいに会話が成立していないのである。この親子はそうやって駅から10分足らずの幼稚園への道を毎朝歩いているのである。


この他にもたくさん滑稽に思えるような人間を目にすることはあるが、立場を変えて、人の目から見れば私もまた同じ滑稽な人間の一人なのであろう。


延々と小走りで走る彼女も、家を早く出ることができない理由があるのかもしれない。深い事情から単なるものぐさまで、どんな理由があったとしても私はそれを知らない。

全く会話の成立していないように見える親子も、私が思うよりもずっとお互いを理解しているのかもしれない。


皆、それぞれに事情や理由、ルール、習慣があって、皆がお互いのそれを知らずに生きている。

そうしたことを知らないから、一見すると滑稽に見えることもある。しかし、それは同時に、その人間が確かにこの世界に生きて、毎日を生活している中から生まれてきた人間臭さ、人の匂い、それぞれの人生なのだと私は思う。


ある決まった時間に、まるで定点観測のように見慣れた光景を眺めていると、私の部屋から駅までの短い地理的範囲の中にも多くの人生があるものだと思う。

なぜだか知らないが、今日はいつも以上に寒気を感じる。とくに冷たい北風が強く吹いているといったことでもないのだが、空が曇っているせいか、気温がいつもよりも上がらないのかもしれない。雨を降らせるような雲ではないのだが、一面白く曇っていて、所々に青黒くさえ見えるような薄い灰色をした雲が低く垂れ込めている。光が弱いせいで、日中だというのに、なんだか黄色っぽい弱々しい光が、窓から見える外の大気の中に満ちている。窓も壁もきんと冷えていて、それらからいくらか離れていたとしても、肌にひんやりとした冷気が伝わってくるのがはっきりと分かる。


毎朝眺めていた紅葉の紅い色に最近は枯れ色が目立つようになってきた。枝先の方や、全体の上の方から、赤黒く、茶色く色が変わってきていて、まだ赤々としていた頃は水気もあった葉が、今ではすっかり乾燥してしまっていて、これから先、強い北風になぶられたりすれば簡単に吹き飛ばされてしまうような様子だ。何にもせよ、物事の終わりを目にするというのは心に苦しいものだ。



最近、不思議と祖母のことをよく思い出す。



私の祖母はとてもよく働く人だった。働くといっても昔の人なので家事のことなのだが、とにかく朝から晩までいつも家の中なり外なりを忙しく歩き回って働いていたのを今でもよく覚えている。料理、洗濯、掃除、季節ごとに家の中のしつらえを替えたり、庭の花壇や少しばかりの畑などに育てている野菜の手入れなどをしたりしていた。夏の炎天下の中でも、今日のような冬の寒い中でも関係なしに、雨の日か北風が強く吹き付けるような日以外はほぼ毎日のように外へ出て、そうした花や野菜の世話をしていた。そうしたことが出来ない日などは、家の中で自分の着る着物の仕立てをしたり、季節ごとに布団を冬用や夏用に仕立て直したり、障子の紙を貼り直したりなど、とにかく常に何かをしているような人だった。私が学校から帰った時に、祖母が何もせずただぼぅっと座ってテレビなどを見ていることなど極めて稀だった。そうしたことがあった時でも、それは夕飯の支度の前の中休みの時で、たいていは10分から15分ほど休むとすぐに食事の支度にかかってしまったものだった。


祖母は明治生まれの人だったので、とにかく頑固な人だった。よく明治生まれの男は頑固だといわれるものだが、どうやらそれは男だけにはとどまらないものらしい。一見するとそれほど頑固そうには見えないのだが、こうしては駄目だよ、こうしておいてねと人がどれほど言おうとも、結局は自分のやり方で最後までやりきってしまうような人だった。


そうした頑固さも手伝ってか、祖母は自分で作れるものは何でも自分の手で作っていた。梅干しや漬け物などといったものはそうするのが当たり前のように自分で作っていた。よく子供の頃、そうして漬け物を作るのを手伝わされたことがあったのだが、そもそも子供の頃から漬け物が苦手だった私は、その手伝いがとにかく嫌だったのをよく覚えている。大人になった今でも漬物は大の苦手で、デパートの食料品売り場などに漂っているあの匂いを嗅いだだけでも気持ちが悪くなるほどなのだ。何より、あの例えようもない酸っぱいような独特の匂いがどうにも受け付けない。匂いに過敏であるということもあるのだが、おそらく一生漬物を口にすることはないだろうと思う。直径1メートルほどの樽が一杯になるほどに大量に作るのだから、私がどれほど辛かったかは容易に想像がつくと思う。それでも、手伝うには手伝った。何せ祖母では水分をたっぷり含んだ野菜を積み下ろすことは大変な作業であるし、大体、最後の漬物石を載せる工程が祖母では到底出来ない作業だからだ。それに、手伝ってあげないと可哀想だというような感覚もいくらか手伝っていたこともある。


そうしたものの他に、野菜や花は勿論のこと、小海老を干してだし用の干し海老や、干し柿などの乾物、芥子などの調味料も自分で配合して作っていた。梅酒を作るのも手伝った記憶がある。糠床などは当然のごとく自分で作ったものを持っていた。細かいものを挙げだすときりがないし、今すぐには出てこないものもある。しかし、それらの内、大半のものは買えば売っているようなものだったのだが、祖母は頑なに自分で作るという姿勢を崩さなかった。仕方なく買って済ますようになったのは体が弱った、亡くなる数年前くらいだったと思う。とにかく、お墓に供える菊まで自分で栽培するという徹底ぶりだった。


そうした祖母の作ってくれた料理は、昔の人の味付けなのでとにかく醤油味がきつかった。何のかも茶色かったといってもいい。きちんとだしはとるのだが、味付けの基本が醤油の量であるため、塩気が足りないとそのつど醤油を加えてしまうのである。なんとも昔の田舎風の味付け方法なのだが、祖母は誰からどんな文句をつけられても味付けを変えたことはなかった。いつも強烈な醤油味なのである。その料理を出された孫の世代の私は味覚が現代人のものなので、とにかくその醤油っ気が堪らなかったのだが、不思議と味の印象は今でも強烈に残っている。何でも醤油っ気が強く、とにかく油を使わないのだ。


そういった料理とは別に、祖母はよくお饅頭やどら焼きなどを作ってくれた。残念ながら、どら焼きのほうは膨らし粉として使う重曹の匂いが強烈過ぎて家族には不評だったのだが、お饅頭のほうは祖母の十八番として皆に認知されていた。


このお饅頭はいわゆる田舎饅頭で、粉もふるいを通さず、素材の分量も目分量なので、和菓子屋の洗練されたものとは比較の対象にもならないようなものなのだが、しかし、そうした洗練された売り物のものにはない、独特の魅力を持っていた。何より、このお饅頭においては祖母は全ての材料を素材の状態から加工していた。こじんまりとした少量生産の和菓子屋でも最近はあんを小豆の状態からではなく、出来合いの砂糖抜きのあんを使い、それに砂糖を加えてあんこをつくっている所も多いというのに、祖母は小豆を水で戻す状態から作っていた。

生地は長年の経験からの勘で目分量で粉と水を合わせ、膨らし粉を入れて生地を休ませ休ませ発酵させていった。頑固者なのでキッチンペーパーなどあっても使わない。頑なに固く絞ったさらしを被せて生地を休ませていた。

あんこが出来上がると、その出来上がったあんこをピンポン玉より一回り小さいくらいに一つずつ丸める。私がずっと小さな頃は、老人らしい独り言をつぶやきながらあんこを丸める祖母を不思議な印象を持って眺めていたものだった。そうして大きな皿一杯にあんこの玉を作り終わると、ここでもまた丸めたあんこをなじませるために小一時間ほど休ませる。

そうやってあんこと生地が二つとも出来上がると、祖母はそれを黙々と生地に包んで丸め始める。傍で見ているといとも簡単に生地にあんこが包まれてゆくため、自分でも一二度やってみたことがあるのだが、見るのとやるのとでは大違いで、まったく形にならなかったのを覚えている。


そうして準備の整ったお饅頭をいよいよ蒸してゆくのだが、ここからが頑固者の祖母の真骨頂なのである。決してガスでは蒸さないのだ。昔はお米を炊いたのであろう大きなお釜を持ち出してきて、その上に、これまた年季の入った井の字型をした蒸し箱を乗せ、簾をひいた上に先程と同じく木綿のさらしを敷いて作ったお饅頭を並べてゆく。そしていよいよ1時間以上かけて薪の直火で炊いてゆくのである。ガスでやればいいのにと誰もが思うことなのだが、そんなことを言ったところで祖母が聞くわけがないことは誰もが知っていた。とにかくこのやり方を通すのである。そんなこんなで火の番をしながら1時間以上も蒸し上げてやっと完成させていた。なんと作業開始から出来上がりまで二日がかりである。


こうして作ってくれたお饅頭を昔は何のありがたみも感じずに食べていたものだったが、今思えば何という贅沢だったのだろうと思う。ただ、あまりにも当たり前のようにそばにあったので、その貴重さが当時の私には分からなかった。今、コンビニにせよ和菓子屋にせよ、そうしたところで買って食べる和菓子のあんこの不自然なくらいの甘さや口当たりの良さなどを感じると、一昔前にあった問題の和菓子のあんこが表示されてる原材料で出来ていないことなどは残念ながらすぐに分かってしまうものだ。

今話したものの他に、春にはヨモギの新芽を摘んでヨモギ饅頭を作ってくれたり、秋にはサツマイモを使って芋饅頭を作ってくれたりしてくれた。ヨモギを擂鉢でつぶず作業などよく手伝ったものだ。



私はグルメではないが、自分で料理を作るのが不思議と好きだ。高価な食材も使わないし、奇をてらった創作料理を作るわけでもない。ただ自分の手で料理を作るのが好きなのである。

おそらく多分、そうしたことは祖母の影響だと思われる。

私の知らない間に食育なるものが自然となされていたようだ。

今更ながら本当に有難いことをしてもらっていたものだと思う。

生きている間には何百回“クソババァ”と言ったかしれないくらいだが、今更ながら本当にありがとうと言いたい。


もう季節はすっかり冬に移ってしまったようだ。ついこの間まで、黄色く色付いた葉をはらはらと落としていた木々も、もう既に葉を落とし終えてしまって、今ではもう大抵の木が裸になり寂しくなった枝を、きんと冷えた冬の澄んだ青い空に突き出して、冷たい風に吹かれている。


まぁ、もうすっかり冬だなどと、大体がもう12月であるし、そろそろクリスマスだという季節にそんな事当たり前と言えば当たり前なのだが、そうした暦やイベントなどよりも、自然の風物の移ろい行く姿を見る方が、巡り行く四季をよりはっきりと感じ取ることが出来るように私には思われるのだ。そうした、既に葉を落とし終えてしまった木々からは少し遅れて、それらと同じ所に植わっている紅葉がちょうど今頃真っ赤に染まっていて、毎朝私の目を楽しませてくれている。思えば、紅葉が色付くにはいくらか時期が遅いような気もするが、残念ながらそれだけ私達の住む世界が随分と暖かくなってしまったということなのだろう。


私がうんと小さい頃は、年が明ける前、11月も後半になると、今では想像も難しいくらいに冬らしく冷え込んでいた。外に出してあったバケツに水が残っていたりすると、翌朝にはそのバケツの水面にうっすらと氷が張っていたものだった。これは前にも話したと思うが、私は北国の生まれではない。むしろ今住んでいる所よりもずっと平均気温では暖かい所で育った。にも拘わらずそうして水が自然に凍ってしまうくらいの冷え込みがその頃はあったのである。勿論、北陸や東北地方、北海道などといった寒冷地というわけではないので、その氷もほんの2~3ミリ位の薄いものだったのだが、それでも朝の、まるで夕方のような黄色っぽい光を受けて、早くも溶け始めているその氷を、そっと拾い上げて朝日に透かしてみた時のキラキラとした美しさ、指がジンジンと悴むほどの冷たさは今でもはっきりと覚えている。持っている指の体温や弱々しい冬の朝日に照らされて溶け出した氷の水が、手首から腕を伝って肘まで入り込むと恐ろしく冷たく、その冷たさはまだ眠い目を一気に覚ましてしまうのに十分なものだった。


その当時、私の生家の前の道はまだ舗装されていない砂利道だった。夏はギラギラとした太陽に照らされて、道の土からは完全に水分が奪われ、車が通ったりすると埃っぽい乾いた土煙を上げていた。逆に梅雨の時期などは、轍の深く掘れている所にたくさんの水溜りができて、濁った赤茶色の水をいつも湛えていたものだった。その砂利道が冬になると、冷え込んだ日の朝などに道の至る所、水気を含んでいる部分や路肩などにたくさんの霜柱をつくっていた。小学生の学校へ向かう時間は早いので、たいていの場合その日一番にその霜柱の立った道に足を踏み入れるのは私達だった。「シャリッ」という氷の軽い音の後に「ググッ」という氷の押し潰される音がつながって、歩くたびに「シャググッ」という独特の音がした。その音が子供心にとても面白く思えて、当時の私達は集団で登校していたのだが、皆が我さきにその霜柱を踏んで歩いた。思い切り高く伸びたものを勢いよく踏みしめてみたり、まるで地面が浮き上がったような広い面を持ち上げているものを横からまじまじと眺めてみたりした。透明ではなく、白っぽい緩やかなカーブを描いて上へと立ち上がっている幾つもの氷の筋が、横から触れた私の指の体温でゆっくりと溶けたのをよく覚えている。


そうした霜柱と同じく、枯れ草や落ち葉などに、まるでクリスマスのデコレーションのように白い霜がたくさん付いていた。枯葉の一面いっぱいに付いているものや、その縁の近くから綺麗なグラデーションを描いて付いているものもあった。枯れ草にはまるで白いガラスの毛が生えたような綺麗なものがあった。


家を出たすぐの所に小さな川があったのだが、水深2メートル弱、幅4メートル弱の川の表面が小石を投げても割れないくらいの氷が張っていたことも度々あった。勿論、そんな日はとびきり冷えた日の朝にあるくらいのものだったのだが、それでも毎年冬の間には何度か凍っていたものだった。今では全く信じられないような話だ。冬になるとプランクトンの数が減り、川の透明度が上がるので、凍った氷を通して川底がよく見えた。


凍った川に小石を投げ込むと、厚い部分なら氷は割れず、その当たった部分に白い傷を付けるだけだったが、強く投げ込んだり氷が薄い部分だったりすると、まるで映画で見た銃の弾痕にそっくりの傷跡をつけて貫通した。それがまた子供には楽しいらしく、夢中になって小石を投げたものだった。そうこうしていると段々とやる事が大胆になり、今度は大きい石を探し出してきて投げ込むようになるのである。投げ込むのが大きな石となると氷は小石の時とは違い簡単に割れた。その割れ方が派手なので、今度はそれが面白くなり皆がどんどん大きな石を探し出してきては川へ投げ込むようになるのである。今考えればなんと馬鹿な子供であろうかと思うが、その当時は不思議とそうしたことが面白かったのである。まぁ、当然の帰結として、そうしたことは近くの大人の目にとまるもので、しまいには怒られることになるのである。そしてがみがみと言う大人を尻目に急いで、まるで逃げるようにして学校へ行っていた。


とにかく、あの当時は今よりもずっと寒かったように思う。よくもまぁ、あの寒い中、歩いて5~6キロの道程を歩いたものだと思う。あの頃は子供の足なので随分と学校が遠くに感じたものだった。


子供と大人の違いはあれど、随分と体が鈍ってしまったものだと思う。

このくらいの寒さなど何でもないはずだ。