二日前は二年ぶりに本格的な雪が降った。その日の朝はだいたい8時すぎ頃に起きたと思う。前日から、その日は雪がかなり降ると天気予報士がしきりに言っているのを聞いていた。


その日の朝は、まるで業務用の冷蔵庫の中にでもいるかのような冷えかただった。きんと冷え切った部屋の空気に触れるのをこらえながら、掛け布団に包まりつつ枕元のカーテンを少しだけ開けて外を覗き見た。窓の外では弱々しい光の中でぼた雪が音もなくしんしんと降っていた。夜の間からかなり降っていたようで、家々のブロック塀の上には既に2センチ程の雪がこんもりと積もっていた。空を見上げると、水気をたっぷりと含んだ、白く濁った重そうな雪雲が空一面を覆っていた。白いような灰色のような、どちらともつかない憂鬱な色をした押し黙ったような空から音もなく雪が落ちてきていた。それはまるで、その憂鬱な雲からちぎれて地上へ落ちてきた冷たい破片のようだった。しんしんと降ってくるぼた雪は水っぽく、冷たくひえた街路の上に静かに降り積もって、時折通る車がビシャビシャと冷たそうな音をたてて踏み締めながら通り過ぎていった。


寒々しい景色を見たのと休日の朝ということもあり、私はそのままベッドに潜り込んで、もうしばらくの間眠ることにした。これだけ真冬の寒い夜が続いていても、綿の薄い掛け布団の内側に毛布を足しただけの寝具で私は眠っている。十分でないのは分かっているのだが、そんなものでも馴れれば何とか温かく眠れるものなのだ。そうして毛布に包まり、掛け布団に潜り込むようにして休日の遅い朝をしばらく味わうことにした。常から思うことだが、私はこうしている時の、まるでアップルパイのように、火を通した果物にも似た、優しい甘さに似た温かさが大好きだ。エアコンの不快な温風とは全く違う、人肌のような、何とも言えない温かさだ。自分のベッドなので、自分自身の匂いしかしないはずなのだが、気のせいにもせよ、こうした時は不思議とやさしい、甘い匂いがするような感じがするものである。


そうした温かさに身を委ねながら暫くうとうととしていると、遠くのほうから小さな子供達の元気にはしゃぐ声が、眠りに落ちそうになっていた私の耳元に伝わってきた。その声に誘われるようにして、そっとカーテンの隙間から外を覗いてみると、子供たちの姿は見えなかったが、さっきよりも雪の降りかたが強くなっているようだった。道にははやくも車が雪の轍をつくっていて、汚れた雪の間から下の黒々としたアスファルトを覗かせていたが、あまり車が通らない方の道では、かなりの量の雪がそのまま積もっていた。まだ誰も外に出ていない、家庭の駐車スペースになっている玄関先では、未だ誰にも踏み締められていない真っ白な雪の絨毯が敷かれたままになっていた。ベッドに戻ってぼんやりと天井を見つめながら目を閉じて耳を澄ませていると、さっきは遠くのほうで聞こえていた子供達の声が段々と近づいてきて、暫くすると枕元の窓のすぐ向こうで聞こえるほどになった。その声はとても楽しげで、久しぶりに見た雪にずいぶん興奮しているように思われた。遊んでいる姿は見たかったが、カーテンを開けてその子達を驚かせては悪いような気がして、私はそのまま仰向けに寝転んだ状態で、耳を済ませて声だけを聞きながら、その子供達のはしゃぎまわる様子を想像することにした。


真新しい雪の中を思い切り走りまわる様子や、冷たいのを我慢しながら、おもちゃのように小さな手で雪を丸めてぶつけ合いっこをしている姿などが、聞こえてくるその楽しげな話し声から容易に想像することができた。なかには物知りな子がいて、自分の雪について知っていることを皆に披露したりしているのを、愛らしい可笑しみを感じながら私は楽しく聞いていた。それらの声はふと遠くへ行ったり、またすぐ近くに戻ってきたりと、まるで春の蝶のように自由気ままに、冷たい冬の空気の中を飛び回っていた。私がそうして楽しく子供達の声を聞いていると、遠くのほうでそれぞれの家々から母親達の我が子を呼ぶ声が聞こえてきた。休日の朝ということもあるし、時間もまだ早かったので、おそらくその子達は朝食もまだ摂らずに外へ出て来てしまっていたのだろう。母親達の呼ぶ声に驚くほど素直に従って、跳ね回っていたときと同じように、まるで飛び去るようにそれぞれの家へと帰っていった。



目を覚ました時は、もう12時を少しまわった頃だった。今日は休日だが雪のせいで外出は出来ないなと思い、もう外は見なかった。靴はビシャビシャで足は凍えるほど冷たく、その上ダイヤが乱れて電車が動かないなどということが容易に想像出来たためだ。小腹も空いたので何か食べようと思いキッチンまで行き、コーヒーを入れるためにポットを火にかけたのだが、料理をするにはあまりにもその日のキッチンは冷えていた。私は基本的に料理は好きだ。とくに変わったものや凝ったものを作るというわけではないが、何より自分で作るということが好きなのだ。だから冷凍食品などはまったく利用しない。そのため、こういった物臭心が沸き起こる時に冷凍室を開けても何も入ってはいないのである。さすがにそうした私でも、この状況で料理をするのは億劫だったので、その日はピザを頼むことにした。たかだかピザ一枚にこの雪の中呼びつけるのも可哀想な気もしたが、それはそれとしていつものごとくサイドメニューなしでピザを一枚頼んだ。


30分から40分ほどして玄関のチャイムが鳴った。冷たいキッチンを通り抜けて玄関のドアを開けると、そこには女の子が立っていた。いつも宅配は大学生か、それよりいくらか年上の男の子だったので私は少し驚いた。何よりこの雪の中を運転してきたのだから驚いたとしても不思議ではないだろう。冷たい空気の中、雪で滑る路面を注意深く走ってきたので、彼女は不思議な興奮状態にあり、気分が昂揚して頬は赤く染まっていた。人が困難な、ともすれば危険な状態にあり、それを何とかやりおおせている時に見せる、あの可笑しくもないのに笑ってしまうような不思議な興奮状態である。ハァハァと荒くなった呼吸は冷たい空気に触れて彼女の顔の前で真っ白に変わった。「配達担当の...」と彼女は名乗りだしたが、彼女が配達担当でないのはすぐに分かった。何より彼女の髪型が、外でヘルメットを被ってバイクを走らせている人間とはとても思えないような不向きなものだったからだ。きっと店が急に忙しくなり、通常は電話で注文を受けるのがメインの仕事であるのを、その日は急遽配達にまで駆り出されたのであろうものと思われた。後で知ったことだが、この日はピザの配達が通常よりも増えたとのことをニュースで話していた。どうやら皆考えることは同じらしい。ピザ一枚のために呼びつけたのを可哀想に思いながらも、ピザを受け取って料金を払った。雪道に気をつけてと声をかけようかとも思ったが、それはやめにしておいた。無事にお店まで帰りつけて、一日を終えられたことを願うばかりだ。



その日は、前日から雪が降ると聞いていたので、せっかくの休日を一日潰されると思い、前の晩から気分がくさくさとしていたものだったのだが、いざ一日が終わってみると不思議といい休日だったと思えた。そう思えた理由はとくに見当たらないが、確かに言えることは、その日は家を出ずに正解だったということだろう。

こんな一日もたまにはいいものだ。

今日の空は真っ青に晴れ上がっている。天気予報によれば、今日は随分暖かくなるとのことだ。こうして冬日と春日が日によって行ったり来たりするのは、もう冬が終わりかけていることを表しているように思える。


しかし、こうした天気が続くと体調を崩しやすくなるものなので、よくよく注意して自分の体を見ている必要があるだろう。




つい先日携帯を変えたのだが、どうにも文字が打ちづらくて困っている。選んだ携帯は、全体としては気に入ってはいる。しかし、文字入力の際のレスポンスの若干の遅さと、何より、学習中の文字変換がつくづく疎ましい。目茶苦茶な変換が表示されるせいで記述中の文章が全然進まず、直感的に文章が書けないので、まったく、本当に困ってしまう。こうした奇妙な変換を楽しむ人々も世間にはいるそうだが、私からすれば全く欝陶しい以外の何物でもない。先読みで変換候補が下の方に表示されるのは以前のものと変わらないし、その候補の数も増えているのだが、全く使わないであろうくらいに馬鹿げた変換が上位に表示されて、日頃頻繁に使うであろう変換がその次に表示されるのはどうにも納得がいかない。まぁ、こうしたこともこれから先、多くの文章を書いていけば少しずつ改善されてゆくものだとは思うのだが、総じて今回の携帯は外観のデザインは一流だが、インターフェイスの面ではそれに見合ったものとは言い難いもののようだ。


それでも二年間は使い続けるわけだから不平ばかり言っていても仕方があるまい。早く操作になれて自分の使いやすいようにカスタマイズし、以前のものと変わらぬように使えるようになるべきであろう。また、そうなるにもそれほど時間のかかるものでもあるまい。






私は物心ついた頃から大人になった現在まで、一度として誰かにとっての一番の存在になれたことがない。その時々で親しく付き合った人間もいたのだが、どんな場合であれ、いつも私は相手にとっての一番の存在に成り得たことがないし、そうした実感を持てたことがない。それは肉親も含め、すべての関係において言えることだ。




思えば私は昔から薄情な子だと皆からよく言われたものだったが、はたしてそうだったのかもしれないと今更になって思う。何より、自分自身思い当たるところがあるのだから否定のしようがない。そういったふうだから、私は日頃から誰に対しても腹を割って話をするという事がない。どんなに仲良くなったとしても、相手に対する猜疑心を振り払えないし、その関係における損得の勘定をいつもたててしまう。


「待て待て、考えてもみろ、今は味方だが、場合によったら先々立場が変わって敵になるかもしれないぞ。そうなった時に弱みを握られていては危ういことだ。そうした時のためにも、今すべてを話してしまうなど不注意極まりない行為だ。気をつけろ、もっと注意しろ、気をつけろ。」


といった具合に、私の心が私に囁くのだ。それ故に私は相手に自分の腹を開いて全てを晒して見せるといったことが絶対に出来ない。




分かっている。よく分かっているのだ、私も。私がそういうふうにして誰をも愛さないが為に、誰をも信じないが為に、私自身誰からも愛されないし信じてもらえないのだということを。そう、ちゃんと分かっている、理解している。神が自分から身を隠したのではなく、自分が神から身を隠しているのだということを。それはよく分かっている。しかし、私はそれでも神を見ないだろう。なぜなら、私が神を見て、神が私を見たとき、神が私を愛されない時のことを思うだけで恐ろしいからだ。そして何より、そうなった時の痛みを私自身が知っているからだ。抱き止めてもらえると信じて飛び込んだのに、受け止めてもらえずに地上に打ち付けられた時の痛みをこの体が今でも覚えているからだ。その痛みが私の心の中で恐怖や憎悪となって、心の隅にどす黒い滲みを作っているのだ。愛に対して強い憧れを抱きながらも、同時にそれに対する憎悪で気も狂わんばかりになる。それは例えるなら、もし私の目に神が見えるとして、その神を愛するのと同時に、同じようにこれ異常ないほどの残忍な方法で神を殺してしまいかねないといったようなものだ。




いや、わざわざ自分の言葉で例えるまでもなかったようだ。考えてみれば、同じように神を愛し供物を捧げたのにもかかわらず、それを受け入れてもらえず、その結果たった一人の弟を嫉妬と憎悪に駆られて殺してしまったカインの例えと同じなのだ。私もカインと同じように地上を独りで彷徨っているのだろうと思う。


いい人間は皆、惜しまれながら早く死んでゆく。私もそういった人間を知っている。


私のような人間は、苦しみながら地上を這い回り、長々と生かされるのだろう。




私がこうしたものを書こうと思ったのも、今話したことに関係している。


人は皆誰しも自分自身の物語を誰かに物語るものだ。しかし、私の場合それを物語る相手はいない。誰も聞くものはいないし、私自身が誰にも物語ることが出来ないだろうと思う。それでも、そうした欲求が私を圧倒するので、その捌け口を私はこれに求めたのである。私が今まで物語ったもの、これから物語るであろうものを、誰かに、何処かに吐き出せる場所が欲しかったのだ。私は自分自身が語るものに対して、誰からも答えや評価を求めはしない。ただ聞いて欲しかったのだ。そのような動機から、私はここで取り留めのない日常や過去の記憶などを、不特定多数の聴衆に向かって拙い文章で吐き出しているのだ。その行為に対して何の意味も私は見出してはいない。聞かせたいのではない、ただ私が語りたいだけなのだから。




ようするに、肌にできた白い吹き出物を潰して、中の黄色みを帯びた汚らしい白い膿を搾り出しているのだ。そのままでは触れるだけでずきずきと痛むために、薄い皮膚を破いてそれを外へ押し出しているのだ。


つまりそういうことだ。






私がここで書き連ねるつまらないことには何の意味もない。


ちょうど、風の強い日に建物の間を通り過ぎる風が起こす音のようなものだ。


虚しい風の音だ。

ここ最近とてつもなく寒かったせいか、会社の行き帰りや仕事中も、ほとんど何かを考えるということが無かったように思う。どうやらこういった極端な寒さは人の思考を停止させてしまうようだ。少なくとも私の場合はそうであったと思われる。


外のきんと冷えた空気のせいで、こめかみにきりきりとした痛みを覚えながら家に帰ると、そのままお風呂へ直行するという日がここのところ続いていた。私はいわゆる一般成人男性より、血圧・体温共に正常値より低いため、こうした極端な寒さは夏よりも冬のほうがいいという私の意思とは関係なく体にこたえるようだ。ここまで寒くなくても、冬場は低下した体温を活動できる状態まで戻すために朝のシャワーを欠かすことが出来ないのだが、最近の寒さにあってはシャワーでは到底用に立たず、毎日湯船をはって体を温めている。その上、寝る前に体が冷え切って眠れないときなどには、さらにもう一度湯船に浸かって体を温め直すのだから、我ながら多いときには1日に3回もお風呂に入るような生活をしているわけだ。まぁ、男のくせにと笑いたければ笑い給え。実際に当の本人がなんて馬鹿らしいと思いながらそうしているのだから。


こんな寒さの中でも、植物たちは春を迎える準備を粛々と進めているようで、毎日眺める大きな桜の木の枝先にある芽が、少しだけだがはっきりと大きくなっているのが分かる。それは桜の木ばかりではなく、モミジや椎の木なども遠くからその枝先を眺めると、背景の空が澄んでいるせいで、ほんの少しのその変化がとてもよく分かる。少し前までは冬の空に消え入りそうに弱々しかった木々の枝先が、冬の青い空を背景にして、逆光で黒く見える力強い芽をまるで冬に抗うかのように力強い輪郭を冬の空に描いている。まだ花を咲かせるのはずいぶん先だが、銀木犀の花の蕾も少しづつ大きくなっているようだ。


まだまだ寒いと思ってても夏のときと同じ、気がつけば暖かくなっているものだ。

うかうかと暮らしていてはいけない。