江戸時代に魅力を感じている。もちろん物質的な話ではない。精神的な話だ。開国以来、日本が傾倒した欧米思想に侵される前の「考え方」に興味があるのだ。現代の視点で見たら驚くようなことも多い。しかし、それでも19世紀なかばに日本を訪れた多くの外国人が抱いた「日本人は確かに満足しており幸福である」という印象。それは渡辺京二の「逝きし世の面影」を読むとよくわかる。イザベラ・バードの「日本紀行」を読んでもわかる。どちらも以前ブログに書いたので、よろしければどうぞ。




 日本人は、ヨーロッパの人々より遥かに自由であり独立的であり、いきいきとして満足している。幸せそうだ。この国に奴隷制度はない。専制主義は名目だけで実際には存在しない。そして日本人は善良で人懐こく無邪気で礼儀正しい、と。今とは違う明治以前の日本人に対してベタ褒めなのである。



また日本人は死を恐れなかった。現世からあの世に移ることに大きな差を感じていなかった。だから死を恐れないし肉親が死んでも平気な顔をしていた。そして小泉八雲が「虫の演奏家」で書いたように「先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園をだめにしてしまった」のだ。


 

 



現代人の視点は、もはや当時の外国人の視点に近い。もちろん当時の日本人のマイナスな部分も沢山あるだろうが、何より第三者から見て幸せそうに見えた当時の日本人の頭の中に興味がある。


前置きが長くなりましたが、だからこそ、こんな本を手に取りました。


 

 



エッセイストの岸本葉子が東京を散策しながら四季折々の江戸の風俗や文化に思いを馳せる。さらには長屋のおかみさんになったかのように起床から就寝までの江戸での生活を追っていく後半のエッセイ「お江戸の一日」が面白い。


朝4時頃起きる。ご飯の支度を始めるとあさり、蜆、納豆、豆腐などを売りに来る。私の子供の頃の東京も豆腐屋さんが自転車で売りに来てましたが、スーパーの豆腐よりも明らかに美味しい、とよく母に買いに行かされました。こういうのって何が豊かな暮らしなのかわかんなくなりますね。


この本に書いてあったのですが、17世紀に水道が引かれていた町は世界でロンドンと江戸だけだったそうです。凄いですよね。誇らしい話です。




それでふと思い出したのですが、5年前に中国の田舎の小学校にボランティアで浄水器をプレゼントしに行ったときのことです。寧夏回族自治区の山の中の村で、外国人の入村は禁止されたエリアだったのですが、特別に行政の許可をもらい、かつ大人しくするように(黙ってたら中国人と見分けつかないので)という条件で行きました。



ここは水道が引かれておらず、上水道はあるけれどその水は飲めない、そして厳密に言えば下水道は無い。




食堂に集まった子供たちの純粋な笑顔があどけなくてほのぼのとしていたのですが、教室を覗いてびっくり。黒板でなくて液晶板なのです。タッチパネルで授業が進むのです。水道はなくてもWi-Fiと液晶パネルはあるのです。そういう順番なのか?確かに中国の行政にしてみれば、そっちのが取り組みやすいということなのでしょうが。そう、中国は携帯電話が普及する前にスマートフォンが登場したので、スマホの使用率が最初から高く、3Gを飛ばしていきなり4Gだったので当時日本より速度も速かったのです。




自分が歩んできた順番が正しい進歩の順番というわけでもないのです。そう思いながらも、液晶パネルで勉強するこの子達に浄水器を寄附することに、なんとなく違和感が拭えなかったのでした。