毎年8月は谷中の全生庵という禅寺で『幽霊画展』が開かれる。三遊亭圓朝が生前所有していた幽霊画を寺に寄贈したそうで、その中から毎年30点くらいを8月に展示してくれるのだ。ということで早速お出かけしてきた。



光源寺の駒込大観音


家から歩いたのですが、35度の酷暑の中、へばりそうになる。途中で行き倒れないように駒込の大観音に立ち寄って手を合わせる。


臨済宗の禅寺、全生庵



本堂右奥の墓地の真ん中にある谷中大観音


団子坂を下って千駄木駅を越して三崎坂を上ると、左手に全生庵がある。まずは全生庵には谷中の大観音がある。長崎の平和の像を作った北村西望作の金色の観音菩薩像だ。こちらにも手を合わせる。


圓朝の命日は8月11日


そして幽霊画を拝見させていただきますと三遊亭圓朝の墓前に手を合わせる。圓朝といえば「怪談牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」などの名作怪談落語の作者だ。累ヶ淵は以前ブログにも書いた。


さてさて寺の本堂にまわって幽霊画展に進む。涼しい館内には意外と人が多い。入場料500円を払って中に入る。


本堂入って2階に上る


壁面にずらりと掛け軸がかかり、良い雰囲気ですが写真撮影禁止ということで残念です。


やはり西洋絵画の影響をストレートに受ける前の江戸期の絵が素晴らしい。月岡芳年の「宿場女郎図」。痩せ衰えた女の浮き出た骨の一本一本、ほつれた髪の一本一本のリアルさはさすが。萩原芳洲「幽霊図」は梅図かずお「赤んぼ少女」のたまみの元絵ではないか、と思ってしまった。薄墨による隈取りを行い、浮かび上がらせる立体的な陰影法が秀逸。菊池容斎「蚊帳の前に坐る幽霊」は幽霊を蚊帳の後ろに描くも、蚊帳の切れ目から顔半分が覗いている。蚊帳越しに透けて見える表情は幽界を表し、直接見える現実世界の表情との対比が見事。


暗闇とぼんやりした灯りの対比、細かく描く髪や顔のリアルさと幽霊の足元などのぼかし方、この世とあの世の境目、恨めしげな表情、この辺りがうっとりする。


さらに河鍋暁斎や歌川広重がいかに漫画に影響を与えているかもよくわかる。


鏑木清方「茶を献ずるお菊さん」


鰭崎英朋「蚊帳の前の幽霊」


萩原芳洲や菊池容斎の絵はがきがなかったのが残念。美人画的な絵はがきばかりだったので、鏑木清方「茶を献ずるお菊さん」と鰭崎英朋「蚊帳の前の幽霊」を購入。



すると住職が「この幽霊めしは忍者めしの限定商品で全国の幽霊企画会場でしか販売しないんですよ。今月発売だけど、うちが一番バッターだから今はここでしか買えませんよ」と勧めるから買ってしまう。【現代幽霊たちの小腹満たし】なのだそうだ。


これで帰りは行き倒れにならないように小腹満たしながら帰ります。











1970年初頭の私には不安と恐怖で眠れない夜が続いていました。1923年の関東大震災から50年が近づき、東京の大地震50年周期説がまことしやかに語られていた当時は、いよいよ大地震が来るぞ!東京は火の海だ!もう終わりだ!と1970年頃からテレビが毎日特集しており、幼い私は怖くてたまらなかったのです。


さらに東京では新左翼の爆破事件から企業連続爆破事件まで20件近くの爆破事件が続き、人の集まる場所へ行くのが怖かったです。あの頃はピース缶は爆発物にしか見えず、丸の内の三菱重工爆破の時は血だらけの人がテレビカメラに写っていて恐怖は最高潮にありました。更に小松左京が『日本沈没』を書き、これが予言の書のように取り上げられて小学生だった私は、どうぞ最後は痛くない死に方でありますようにと神様に祈りながら毎日怯えていたものです。


しがみつくのは嬉しいがそろそろ暑い


その主役のひとり、あの時の爆弾犯と聞けば、個人的な怨みも含めて読んでみたくなり手に取りました。ただこの話は犯人の娘で元女優、脚本家の梶原阿貴の半生の自伝であります。こんな話です。


自宅には隠れるように暮らしている男がいる。靴も持っていない、名前すらない。友達を家に招いてはいけない。男の存在を他人に話してはいけない。さらにその男は自分の父親なのだ。何もしないで隠れている父と小学生の自分を母がひとりで働き養っている。日ごろの会話からこの男に秘密があることはわかっていたが、ある日父が新宿クリスマスツリー爆破事件の犯人で指名手配犯であることを母から知らされる...


顔を埋め始めた


家に隠れる爆弾犯の父がいる池袋での小学生時代、父の自首後の中学高校時代、俳優時代と父の出所そして家族解散、脚本家を目指す著者と父との再会の4つの章からなる。


著者は私より年下だが、彼女が育った70-80年代の池袋の風景は、隣町で育った私にも馴染みのあるもので、出てくる街の描写に自分の記憶を重ねながら懐かしく読みました。記憶違いか創作かなと思える描写もありますけれどもね。




どんどん埋まっていく


著者としても娘としても爆弾犯の父とは距離を保って書いている。そりゃそうで、親子だからって変に父親に寄り添うように描いたら読者からクレームが来る。だから父は何もせず会話も少なく卑屈な男として描かれる。梶原譲ニはなぜ爆弾犯となったのか。そして今どう思っているのか。


「ゲリラ闘争とは民衆に支持、共感され、勇気、希望が生まれる豊かなものでなくてはならない。拍手喝采されるものでなくてはならない。しかし我々はそうすることができなかった」梶原は敗者であり何もなし得ず、逃げ隠れするだけのつまらない男だ。


あとがきで、親が犯罪者あるいは逃亡者のせいで苦しい思いをしている子供を励ます言葉を書いている。それはその通りだ。この本の目的がそうであれば私たちは文句を言えない。とはいえ死者こそ出なかったが梶原が起こした新宿の爆破事件で手足を失った被害者たちもいる。そうした被害者を差し置いて単純なハッピーエンドは描けないだろう。ただ著者も父親に文句を言いながらも父親の友人たちに助けられて俳優の仕事をし、それが脚本家の仕事に繋がっていく。そしてラストでは著者は一線を引きつつも彼女の母や祖母は彼を許して受け入れたようであり、家族の最後の幸せを再構築したかのような終わり方をする。そうした描写の端々に親子ならではの愛情らしきものが感じられる。


罪を犯した人が刑に服した後は社会としては許せても、被害者の中には許せない人たちもいる。それは仕方のないことだし、罪を犯した人はそれも含めて一生償っていくことになるのだろう。しかしその子供たちが一緒に償う必要はない。


本を売るためにはおそらく、爆弾犯の父親という存在を面白いネタとして利用すべきであって、同情や共感を求めようとすると反感を買う。この本はそこのギリギリの線を描いている。その意味で面白い作品になっているのでしょうね。





そもそもホームズとクトゥルーという無敵のもの同士の対決をどう描くのか。本音を言えば、ラヴクラフトのファンとしてはクトゥルーの方の肩を持ちたい。書き手がワトソンなのだから必然ホームズが解決する視点で描かれるが、手のうちようがないクトゥルーの恐怖が台無しではないのか⁈と、設定に文句を言いながらも読んでしまうのは何故だろう。ホームズがクトゥルーの神々と戦う〈クトゥルー・ケースブック〉は3部作で完結したのだが、補完するような最新作を図書館で見つけてそそくさと借りてきてしまった。

作家ラヴグローヴが新たに入手したワトソン博士の手稿にはハイゲイト墓地に始まるホームズと神々のもうひとつの事件が記録されていた。ハイゲイト墓地から3つの死体が消えた。ホームズは死体が真菌類の胞子によってクリーチャー化したことを暴くが、それは恐るべき陰謀の幕開けにすぎなかった!

この話、正典として描かれた事件の登場人物も多く現れ、ワトソンが書かなかった事件の真相やその後が語られる。例えば「ボヘミアの醜聞」でお馴染みのアイリーン・アドラー、「ブラック・ピーター」のピーター・ケアリ、「隠居絵具師」のジョサイア・アンバリー。
ホームズが唯一恋した?女性とまで言われるアイリーン・アドラーが変装の名人になった理由がわかる。なんと恐るべき!彼女の身に何があったのか?そしてグリーンランド沖を航海中のピーター・ケアリ船長の船で起きたこと。北極海から彼らが持ち帰ろうとしたものが太古の神々を目覚めさせたのか。さらには神々を崇める宗教団体を統べるアンバリーの超常的な脱走劇とホームズ暗殺計画。正典と食い違わないように描かれた彼らのもうひとつの顔がわくわくして楽しいのです。

クトゥルーからは、黒き豊穣の女神シュブ・ニグラスが出てきます。いいですねー。

上巻はここまで。手先のような人間との対決は解決するも、真菌類の胞子やシュブ・ニグラスをはじめクトゥルーにどう対処するのか。さあ、これから下巻。



さて、うちの黒猫オンちゃんは2歳のオスです。


先日YouTubeで「黒猫ジジのご飯屋さん」が流れてきました。最初は興味なさそうだったが女の子の白猫リリーが出てきたら、いきなり身体を起こしまして。


さらにラストでは身を乗り出して齧り付いてました。リリーちゃんに見惚れていたのでしょうか。