あまりに暑いので散歩の途中で髙田馬場の芳林堂書店に涼みに入ったら、宮部みゆきが薦める山積みの本を見つけた。児童書というよりもミステリーのようで、確かに面白そう!

舞台は19世紀の英国。翼のある人類の化石を見つけた博物学者で牧師のサンダリーだが化石は捏造だとの噂が流れ、一家はヴェイン島へ移住する。しかし噂は島にまで届き、ある夜サンダリーは不審死を遂げる。その死は自殺と疑われ、自殺ご法度のキリスト教社会で牧師でもあったサンダリーの埋葬許可も下りない。一家は島民たちから村八分され居場所を失う。そんな中、殺人を疑った娘のフェイスは父の死の真相を調べ始める。遺された父の日記から、嘘を養分に育ち真実を見せる実をつける「嘘の木」のことを知る…。こんな木が出てきてファンタジーか?と思わせるが、違う、ミステリーだ。
前半は退屈だ。サンダリー家の環境や登場人物の人となりの説明なのだろうが、淡々と話は進む。特に事件は動かないし、不思議なことも起こらない。しかし後半から話が動き出す!

実在した嘘の木が見せるヴィジョンとは何なのか。この木は何ものなのか。島民の中に殺人犯人がいるのか。それとも自殺なのか事故なのか。

娘のフェイスの視点で話は進むのだが、まだまだ女性が古い観念に縛られていた時代に、フェイスは強い意志と行動力で真実を突き止めていく。いや、時代に反発するのはフェイスだけではない。登場するそれぞれの女性たちが抗い、逞しく自分らしさを追い求めている。フェイスのラストの活躍はアクションたっぷりの活劇だ。


冒頭写真の帯にある宮部みゆき推薦の弁「終盤の母娘の会話に涙した」というのは、全てが終わった後、それまでお互いを理解できなかった母と娘が心を開いて話すシーン。父親と息子が理解し合う話はよくあるが、母娘はそうそうない。同様にフェイスは他の登場人物とも腹を割った話をしてその壁をなくす。気持ちの良い爽やかなところだ。

フランシス・ハーディングの本は創元推理文庫から色々出てるんですね。知らなかった。他の本も読んでみよう。

さて、週末に千葉の鋸山を登ってきました。昭和の初めまで石切場だった山で、山頂まで車でもロープウェイでも行けるのですが、敢えて歩いて登りました。
 

小学校に上る前に、兄たちが登りに行ってきて私は留守番だったのですが、いつか行きたいと思ってたら半世紀が過ぎてしまいました。そしておっさんになって行ってみたら意外とキツい。









 

 

 


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江戸時代に魅力を感じている。もちろん物質的な話ではない。精神的な話だ。開国以来、日本が傾倒した欧米思想に侵される前の「考え方」に興味があるのだ。現代の視点で見たら驚くようなことも多い。しかし、それでも19世紀なかばに日本を訪れた多くの外国人が抱いた「日本人は確かに満足しており幸福である」という印象。それは渡辺京二の「逝きし世の面影」を読むとよくわかる。イザベラ・バードの「日本紀行」を読んでもわかる。どちらも以前ブログに書いたので、よろしければどうぞ。




 日本人は、ヨーロッパの人々より遥かに自由であり独立的であり、いきいきとして満足している。幸せそうだ。この国に奴隷制度はない。専制主義は名目だけで実際には存在しない。そして日本人は善良で人懐こく無邪気で礼儀正しい、と。今とは違う明治以前の日本人に対してベタ褒めなのである。



また日本人は死を恐れなかった。現世からあの世に移ることに大きな差を感じていなかった。だから死を恐れないし肉親が死んでも平気な顔をしていた。そして小泉八雲が「虫の演奏家」で書いたように「先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園をだめにしてしまった」のだ。


 

 



現代人の視点は、もはや当時の外国人の視点に近い。もちろん当時の日本人のマイナスな部分も沢山あるだろうが、何より第三者から見て幸せそうに見えた当時の日本人の頭の中に興味がある。


前置きが長くなりましたが、だからこそ、こんな本を手に取りました。


 

 



エッセイストの岸本葉子が東京を散策しながら四季折々の江戸の風俗や文化に思いを馳せる。さらには長屋のおかみさんになったかのように起床から就寝までの江戸での生活を追っていく後半のエッセイ「お江戸の一日」が面白い。


朝4時頃起きる。ご飯の支度を始めるとあさり、蜆、納豆、豆腐などを売りに来る。私の子供の頃の東京も豆腐屋さんが自転車で売りに来てましたが、スーパーの豆腐よりも明らかに美味しい、とよく母に買いに行かされました。こういうのって何が豊かな暮らしなのかわかんなくなりますね。


この本に書いてあったのですが、17世紀に水道が引かれていた町は世界でロンドンと江戸だけだったそうです。凄いですよね。誇らしい話です。




それでふと思い出したのですが、5年前に中国の田舎の小学校にボランティアで浄水器をプレゼントしに行ったときのことです。寧夏回族自治区の山の中の村で、外国人の入村は禁止されたエリアだったのですが、特別に行政の許可をもらい、かつ大人しくするように(黙ってたら中国人と見分けつかないので)という条件で行きました。



ここは水道が引かれておらず、上水道はあるけれどその水は飲めない、そして厳密に言えば下水道は無い。




食堂に集まった子供たちの純粋な笑顔があどけなくてほのぼのとしていたのですが、教室を覗いてびっくり。黒板でなくて液晶板なのです。タッチパネルで授業が進むのです。水道はなくてもWi-Fiと液晶パネルはあるのです。そういう順番なのか?確かに中国の行政にしてみれば、そっちのが取り組みやすいということなのでしょうが。そう、中国は携帯電話が普及する前にスマートフォンが登場したので、スマホの使用率が最初から高く、3Gを飛ばしていきなり4Gだったので当時日本より速度も速かったのです。




自分が歩んできた順番が正しい進歩の順番というわけでもないのです。そう思いながらも、液晶パネルで勉強するこの子達に浄水器を寄附することに、なんとなく違和感が拭えなかったのでした。


東京も豪雨凄いですね。雷がすぐ近くで鳴り響き、練馬に落ちたとか。河川氾濫の警報も出てるし。停電してるところもあるようですが、ここはじっと大人しくしてます。

また馴染みのBARの友人Jに勧められた本を勧められたままに読んでみました。文化風俗的に住んでみたいのは江戸時代の江戸だと話してたら勧められたのだ。いや、もちろんウォシュレットやクーラーのない生活は困るので今の方が良いのだが、魅力的という意味で江戸時代なのだ。この本はエバレット・ブラウンとエンゾ早川の対談で、日本人の身体感覚と伝統的文化について語るというもの。


足、手、背、尻、腹、口、頭、それぞれをテーマにかつての日本人の思想や習慣と身体の使い方が説明され、なぜ現代人が腰痛や肩こりに悩むのか。なぜ漠然と不安を感じるのか等が語られる。

現代日本人が意味もわからずに正しいと思い込んでることが多いことは気にはなっていた。もちろんこれが正解というわけではなくひとつの意見なんだけど。 

背筋をピンと伸ばした姿勢が正しいという思い込みは、以前整体師にも言われたことがあるが、たしかに軍隊教育の名残なのでしょうね。身体的には負担をかけている。

腹筋のシックスパッドがスポーツをするには不適切だという話も面白い。アスリートとしては見た目はカッコいいクリスチアーノ・ロナウドよりも猫背で少しポチャポチャしたメッシの体型の方が適しているようだ。



個人的に欲しいと思ったのは踵のない草履、足半。昔の人はこれを履いてたと。着物を格好良く着るなら足半くらい履けないといけない。踵がつけないからつま先で歩く。そうだよね。学生の頃は運動してたから1日中走ってたし、飛んだり跳ねたりするからつま先で歩くクセがついていたが、いつの間にか踵から着地する後ろ重心になってしまった。そりゃ、身体は歪むわけだ。

 





楽天でも売ってるじゃないの!足半の草履。

日本人の!というよりも人間としての正しい身体の使い方の勉強になります。それを昔の日本人はわかってた。明治以降、変化してきちゃったということのようです。



伝統的という言葉も、どのくらい前の習慣なら伝統的というのか。感覚的には江戸時代からあるものを伝統的と言うと思ってましたが、100年前とざっくり言う人もいる。今から100年前って大正13年なんですよね。あと2年もすると100年前が昭和に突入してしまう。恐ろしいですね。自分が子供の頃は稀とはいえ泉重千代さんのような江戸時代生まれの人がいたことが不思議ですね。



泉重千代さんは1865年(慶応元年)生で1986年に120歳で亡くなりましたね。ギネスブックにも載ってた有名な方でした。