この本を知ったのは昨年のことで、ジュンク堂の幻想文学の棚に置かれた本のタイトルに惹かれて手に取った。幻想小説だと思ったのだ。作者は25歳で自死した女性編集者で彼女が死の直前まで書いていたブログ日記を編集したものである。亡くなったのは20年以上前のことである。八本脚の蝶とは東大寺大仏殿の華瓶の蝶の脚が8本あるという謎から付けたタイトルだそうだ。


少し読むと二階堂奥歯という人は、私が本当はやりたかったのに意気地がなくて選ばなかった道に進んだ人であることがわかった。


彼女は第一文学部の哲学科を卒業し国書刊行会で編集の仕事に就く。私もその学部に行きたいと思っていたが、就職や偏差値などの既存の価値観を優先する親や教師や周囲の大人たち全員の反対と説得に負けて、学部は違っても好きな勉強はできると諦めて同じ大学の他の学部に進んだ。


私と同じく奥歯も二面あって本好きの一方でおしゃれが好きな人でブログ前半では化粧品やファッションブランドの話に花が咲く。


私も両方に興味を持ったが就職では奥歯の選ばなかった後者の方へ進んだ。前者のサブカル的な出版社も希望したのだが、当時は日本の景気が良かったせいもあって気分はもっと安定と華やかな方を向いていた。そこで編集者希望は排除した。


当時の世相がちょっと違ったら、あるいは自分がもっと自分軸に拘っていたら、奥歯と同様の進路選択をしたかもしれない。そっちに進んでたらどんなだったろうと改めて思ったりもする。


だからこの本の中で奥歯の勧める本に興味があった。話の中に出てくるが、彼女は1日9冊とか本を読む読書家である。どんな本を紹介してくれるのかと思って手に取った。


彼女が自ら死を選んだ理由や背景の方は私にはどうでも良かった。そういう話を誰かと話すと妙にナイーブな空気になってしまうのが苦手だし、私個人は生と死に違いを認めておらず個人的にはどちらも大きな違いはないと思っている。だからそこに神妙になるような興味はないのだ。


奥歯のブログの前半は楽しげに進むが、だんだんと内省的になり、本からの抜粋が増えていく。この本は彼女の死に至る思考の変化を追うためのもののようだ。ブログは死を宣言して別れの言葉で終わる。そこに加えて彼女の近くにいた友人、恋人や親交のあった作家たちの小文が載る。


芥川龍之介は体調不良、母や友人の狂死、自身の文学の限界などの『ぼんやりした不安』に捉われ耐えきれずに命を絶ったという。太宰は人間関係と自己嫌悪に疲れ、話を終わらせるために。彼らは自分が嫌になって自分から逃げたくなった。一方、三島由紀夫は己の美学と思想を真実のものとするために老いる前に人生を完結させた。自分を守りたかった。「二十歳のエチュード」を書いた原口統三は欺瞞に満ちた社会を拒絶し、これ以上生きる意味を見出せないという確信を持ち、自らの純粋性を20歳で止めたいと考えた。彼の目的はくだらない現世から自分を守ること。では奥歯は?


過去の誰かの苦悩や選択を後世の人が勝手にまとめて一覧表にするのは失礼な話だ。それは私たちが今のような人生を生きてきた理由を見ず知らずの他人にひと言でまとめられるくらい見当はずれでいい加減で不愉快だ。でもこの本はそれを読者に考えてもらい共有するための本のような気がした。


彼女は少女性に固執し大人になりたい気持ちとなりたくない気持ちの狭間にいた。身体と中身は違う存在であることにこだわる。乱歩の「悪魔人形」で洋館の老人に『人形にならないか」と誘われるルミちゃんを例に出し、自分もそんな人形になりたかったと呟く。次第に自分に否定的になり他人に認められない不安や恐怖に支配され、混乱し、わからなくなってくる。


最後の1ヶ月は恐怖の連呼だ。肯定を欲しがる価値観を捨てられない。少女でいたい、人形になりたい。ペットになりたいと叫ぶ。しかし彼女の知性は益々鋭さを増す。大人びた性的肉体と彼女の求める少女性とのズレは広がっていく。その歪みに耐えきれず、自らのイメージを真実化するために人生を「完結」させたのではないか。


未遂をする彼女を最後まで友人や家族が励まし見守っていたようだ。しかしその隙を盗んで彼女は命を絶った。周りが説得できるタイプの話ではないのだ。ある意味、三島由紀夫的な完結型のように思えた。その点に絞っていえば25歳は既に彼女にとって手遅れだったのかもしれない。



苺が萎れてきたので鉢を替えて水をじゃぶじゃぶあげていたら復活してきた。早くも暑くなってきたので花木が元気です。家庭栽培の苺は年々味が薄くなってくる気がします。もはや水っぽくて味があまりない。土の問題なんでしょうね。













この悪夢感のある装丁、アングラ的でいいですねえ。トマス・リゴッティはブラムストーカー賞を4度も受賞している作家で、期待して私も初めて読みました。


9つの短編からなる短編集です。最初の短編「戯れ」。刑務所の精神科医になったドクターが連続殺人鬼の囚人と面会する。彼は殺人だけでなく脱獄の前科もあり、おかしなことを言う。ドクターは囚人の精神科治療の改善を訴えて赴任してきたが、この囚人と話すうちに途轍もない不安に取り憑かれ、帰宅して幼い娘を寝かしつけたあと妻に仕事を辞めることついて話すが…。気が狂いそうになる結末。読んでいて小さな不安が頭の中に生まれ、杞憂だったかとほっと胸を撫で下ろしたところで急に床が抜ける。あの感じです。アンドレ・ド・ロルドの「ロルドの恐怖劇場」の悪夢を思い出します。


「道化師の最後の祭り」など多くはラヴクラフト的コズミックホラーです。明らかにその影響で書かれています。街の雰囲気、様子のおかしい人々、グロテスクなクリーチャー、終わらない悪夢、いいですねえ。


この作家、不安障害やパニック障害で苦しんでるそうで、病気が良い意味でも悪い意味でも小説世界に影響を与えているようです。ホラーというよりも文学的な匂いも感じさせ、広いジャンルで評価されています。ただ翻訳が少し読みづらい。白石朗や宮脇孝雄の訳した話は頭の中に入りやすいですが、若島正の訳はイメージが湧きにくい。また別の本も読んでみたい作家です。


話変わって、友人がヨーロッパに行ったのでスーパーでベタなエコバッグを買って来てもらった。エコバッグをいつも持ち歩いていて使用頻度が意外と高いのだ。買って来てもらったのはイタリアのミラノ中央駅の構内にあるSAPORI&DINTORNI CONADというスーパーのバッグだ。面白いことに収納時のバッグが球状だ。



広げるとくしゃくしゃに丸めたバッグが出てくる。



なんと!几帳面に折り畳んで収納する日本のエコバッグと違いおおらかなイタリアらしい。


確かに丸いので鞄の中で少し嵩張る。しかし鞄の中で見つけやすいし、使用後収納しやすい。これ、意外と便利。






「オリジナルが出てこられないからその代役を務めるのが陶板なんだ」話中でプロジェクトに参加する美術教授は言う。

いくつかの書評を読んでこの本が気になった。本物と模倣品との関係をどう考えるのか、ということが気になったのだ。


こんな話だ。

モデルとなったのは大塚製薬が徳島の鳴門に作った大塚国際美術館。小説では鴻塚製薬の鴻塚国際美術館となる。2000年以上色が変化しない陶板技術を発見し、世界中の1500もの名画を陶板で再現し展示する美術館を設立すべく尽力した人々の物語だ。


自分には偽物を見分ける眼力はないけれど美術品であれ建造物であれブランド品であれ、専門家に模倣品(偽物)と言われると急に見下してしまう。テレビの「なんでも鑑定団」を観ていてもそうだ。鑑定士たちを鵜呑みにして印象が変わってしまう。彼らの番組内での鑑定間違いが話題になったこともあったと聞くが、そもそも鑑定というのはその人の見立てであり絶対ではない。骨董屋によって見立ては違う。そこも含めて愉しむのが骨董だと聞いた。目的が売買ではなく鑑賞であれば精巧な偽物で十分だ。



中国洛陽の龍門石窟はこんな感じのところです



以前のブログにも書いたが、中国の西安(昔の長安)に行った時、大雁塔から広がる圧巻の街並みを見下ろして感慨に浸っていると、横にいたガイドが本物は戦火で焼けたのでこれはレプリカですよと言った。龍門石窟の仏像群もそうだ。凄い!と感動していたときも一部本物ですけど破損が酷いのでほとんど再現して作ったものですよ、と教えられた。言われると急に安っぽく見えてくる。このとき思ったのだ。もちろん街に本物も偽物もない。


例えば足利義満が建立した金閣寺は75年前に燃えた。今は再築されているがこれは偽物なのか?以前とは違うか?価値がないものなのか?ということになる。現実には歴史的建造物ではないというだけで、金閣寺に変わりはない。圧倒される金の佇まいにも文句はない。確かに燃える前の金閣寺は国宝だったが今は違う。違いはそういった肩書きくらいのものだ。偽物というレッテル自体が間違っている。


しかし美術品にしたってオリジナルでなくとも陶板であれカレンダーの印刷であれ感動したら鑑賞者にとってはどちらでも構わないことだ。いや、もう偽物で十分なのだ。むしろ本物って何だろう。


この話の中でも社長は言う。本物に拘っていたら各国の美術館に本物の絵を見に行ける人なんて沢山はいない、徳島で世界中の名画を子供たちが鑑賞できたらそれが次のステップに進むきっかけになる、と。それが美術品の複製の存在意義なのだ。


この本はアート小説という位置づけである。ビジネス小説ではない。そういえば昔はビジネス小説ってよくありましたよね。今もあるのでしょうか。バブルの頃はどこの会社も事業がうまく行ったからか多かったです。私の勤めていた会社もお抱えのような作家がいて何冊か本を出してました。もはやあれは宣伝事業の一部のようでしたね。内容はストーリー優先で、アイデアと信念、反対勢力や規制の壁、それに対抗する熱意、熱いチームワーク、成功をつかむというお決まりのパターンで、事実とは違う。かつてNHKの「プロジェクトX」のやらせ問題もありましたが、内容は一緒ですね。事実なのか小説なのか、本物なのか偽物なのか。ここの線引きははっきりさせておかないとコンプライアンス上いけないのでしょう。


この話では製薬会社の社員たちよりも絵を選考する立場でプロジェクトに参加する大学教授たちに重きが置かれる。熱い情熱丸出しの描き方はしていない。この本はアート小説である。ビジネス小説でもドキュメンタリーでもない。それを期待してはいけない。そして本物か偽物かは関係ない、実話か創作かは関係ない。これをきっかけに陶板アートに興味を持ってもらい、ぜひ美術館に足を運んでもらいたいというのがこの本の意味なのですね。