最近「犯人に告ぐ」の話をよく聞く。Jの店で飲んでいたら、それは「犯人に告ぐ4」のことだと教えられた。完結編でかなり面白いと言われる。そういえば20年くらい前の本、いわゆる「犯人に告ぐ1」が家の積ん読の中にあったような…と探したら出てきた。まずは上巻から。


「犯人が自己主張のためにメディアを使って自らを主役に仕立て上げ、その事件を茶の間の見せ物に変えてしまう。これを俗に劇場型犯罪と言う」これに劇場型捜査で対決する大藪春彦賞をとった警察小説だ。


6年前の誘拐事件の捜査でミスを犯し全責任を負わされた神奈川県警の巻島史彦警視。記者会見でも失態を演じて足柄署の特別捜査官に左遷される。特命係のようなポジションだ。そして6年後川崎で起きる連続児童殺害事件。行き詰まる捜査を打開すべくテレビニュースに警察が出演して市民に情報提供を呼びかけながら犯人と対峙する荒技に踏みきることとなった。そしてその大役に巻島が指名された。 


まだ上巻ですからね。この6年前の誘拐事件の様子。メンツを守りミスを部下個人に押し付ける警察組織、警察を挑発し被害者家族との分断を煽り話題作りをするマスコミ、感情抑制できない被害者家族…。胸糞悪い描写である。作者としては読者に後半スカッとさせるためには主役以外は悪者として描く。そして主役を徹底して不条理なほど虐める。なんとも納得いかないのだが、ウケるエンタメ小説の書き方である。


 

 

そして6年が経って巻島が戻ってくる。左遷された足柄署で高い検挙率を誇る。警官らしからぬ長髪、以前とは違う冷静でふてぶてしい印象。組織を、マスコミを、そして犯人をやっつけてくれそうな頼もしい雰囲気になって帰って来た!この巻島を映画ではトヨエツが演じたのか!しかし6年前にミスを背負わせた上司で劇場型捜査を発案し巻島を指名した曽根本部長。そしてその甥で今回の捜査で巻島の直属上司となるキャリア組の植草課長。まだ若いゆえに植草が甘ちゃんで余計なことしそうな匂いぷんぷん。まるで絵に描いたようなキャストだ。


 

 

そして最初のニュース放送が始まる。ここで上巻は終わる。下巻はグルングルン進むんだろうなと思いつつ、下巻を読む前にJの店で「土台穴」の話をしてたらRに勧められた別の本を読もうかな、と。脈絡なく読んでていろいろ忙しい。



東京も雪が降ったのでベランダの窓を開けて外を見てたら猫が外に出た。もちろんうちの猫にとって雪初体験である。



歩いてみたが何だかよくわからないという様子だ。






今日は節分ということで明日から立春。これから暖かくなるのでしょうか。今日は太巻きを南南東を向いて食べました。東京では子供の頃には恵方巻の習慣はなく、社会人になって大阪勤務になったときに初めて聞いて、からかわれているのかと思ったものでした。セブンイレブン?だったかがテレビCMとともに全国展開を始めて今では全国区になりましたが、なにも東京でわざわざしなくてもと思ったものです。でも結婚した妻が大阪の人なので当たり前のように太巻を食べてます。豆まきの方は撒かずに食べるのみとしました。深川不動堂で買ってきた豆は「この豆は国産大豆で高価だから撒かずに食べてくださいね」と言われたのでその通りにしました。




さて、今回はロシアの文豪アンドレイ・プラトーノフの「土台穴」を読んでみました。20世紀のドストエフスキーといわれるロシアの巨匠プラトーノフの代表作です。こんな話です。


青年ヴォーシェフが機械工場を解雇される。解雇の理由は体力のなさと思考癖が目立ち、作業の流れを著しく乱すから、という。彼は永遠に快適な生活を約束する共同住宅の建設現場に職を見つける。そこは貧しい食事と過酷な労働環境に苛まれながら理想の住宅を作るための土台となる穴を掘る仕事なのだ。そこでヴォーシェフはチークリンら労働者や技師たちとともに穴を掘り続ける。そこに孤児の少女ナースチャが現れる。ナースチャの母親に甘い想い出のあるチークリンが彼女の面倒をみる。そして彼女を娘のように大事に思っていく。しかし過酷な環境下では、責苦、告発、闘争、殺人まで起こっていた。


この本が書かれたのは1930年。スターリン主義が始まったばかりのソビエト。土台穴という環境はまさにそのスターリン的共産主義社会のことである。穴は理想の住宅のために必要なもの。しかし理想の住宅は自分たちが生きている間に完成はしない。ヴォーシェフはナースチャに言う。

「どんなに一生懸命働いたって最後まで働ききって、すべてのことが分かったときには、もうへとへとになって死んでしまうんですからね。ナースチャ、大きくならなくたっていいんです。どうせ悲しい思いをするだけなんですから!」




自分たちは理想というイデオロギーのために骨身を削って働き続ける。プラトーノフは共産主義を肯定も否定もしない。ただこの共産主義の将来への失望と不安を抱いている。世界は連続する。そこにあるのは理想の未来のために現在の自分の人生を犠牲にする失望だ。つまりこの話は絶対唯一のユートピアが強いる全体的犠牲の物語なのだ。


「昔は自分の家族のことが心配だったが、今はすべての人間を守らなければならんのだ。そんな負担のためにおれたちは苦しめられているんだ」ここでは家族も個人も否定される。優先されるのは全体だ。そして「活動家は…」「階級としての富農を…」「官僚は…」と個人の名前ではなく階級や所属でのみ語られるシーンと個人名のシーンが書き分けられている。全体主義の中では個人は名前すら否定されるのだ。


「俺は何様でもないさ。俺たちには党があってな、それが何様なのさ!」チークリンは身分を聞かれてそう答える。個人ではなく所属を言って、その立場で人も殺すのだ。


ナースチャは病気になっても医者にも見せられず命を落とす。理想の未来を味わうはずの若い世代もそれを見ることもできずに死んでいく。それがこの社会主義の破滅を意味するのかどうかはわからないと作者は書くが、スターリン主義という歪んだ社会主義への失望をプラトーノフは感じていたんでしょうね。

 

 

どんな政治体制も完成されたものではなく、限界もあるものだから、その良し悪しという話ではなく、それぞれの時代においてその人の幸福とは何かということなんでしょう。
















 探偵小説が不思議なのは、話の中で探偵対犯人が知恵くらべするはずなのだが、加えていつからか作家対読者が知恵比べすることになってしまっていること。この、いわゆる読者への挑戦状を初めてやったのはコニントンという作家で1926年のことらしい。ちょうど100年前。有名になったのはエラリー・クイーンの「ローマ帽子の謎」(1929年)で、その後国名シリーズで継続して行なわれた。

 探偵が推理するために必要な要素はすべて読者にも開示しなくてはいけないし、読後に納得するためにはそこがフェアでないといけない。


しかし、小説内の探偵や犯人にはそんなことは関係のないことなのだ。この関係が話を余計に煩雑にしてる。


それはさておき、ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサーレスの合作「ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件」を手に取った。ボルヘスやカサーレスのようなミステリーとは畑違いの作家とはいえ、裏表紙の内容紹介に『ポー、МPシール、バロネス・オルツィの伝統を継承しつつ新しく蘇らせた』『奇想と逆説のチェスタトン風探偵小説』といった言葉が躍ると読みたくなるもの。そもそもボルヘスが推理小説好き、なかでもチェスタトン好きなのは知られている。


ボルヘスもカサーレスも『推理小説ともいえる』小説は他にも書いているが、推理小説を期待して読むと違う気がするものだ。他ジャンルで成功した作家の推理小説としてA.A.ミルン「赤い館の秘密」、AEWメイスン「矢の家」、ジェイムズ・ヒルトン「学校の殺人」あたりが懐かしの創元推理文庫から思い浮かぶ。日本では坂口安吾とか福永武彦(加田伶太郎)なんかが面白かったような記憶がある。でも、多くの作家の作品はミステリとしては納得いかない。


前置きが長いが、この短編集、刑務所273号独房に収監されているイシドロ・パロディのもとに様々な人が相談にやってくる。事件の相談など整理されていない話を長々と話すと、イシドロ・パロディが聞いた話から謎を解き明かす。安楽椅子探偵のスタイルをとっている。


だいたい南米の作家は関係のない余計な話をだらだらと書きたがる印象がある。ここでも相談者はだらだらと関係ないことまで話すのだ。しかしこちらはイシドロ・パロディのような集中力が続かない。読んでいて疲れるし、正直途中でめげてくる。


例えば、ボリビアからアルゼンチンをノンストップで走る急行列車の中でロシア皇女ゆかりのダイヤが盗まれ、2人の男が殺された。容疑をかけられた俳優がパロディのもとにやってくる。果たして事件の真相は…?という「ゴリアドキンの夜」。この話に出てくる国際強盗団のボスがブラウン神父だったりする(笑)


あるいは秘密の湖から盗まれた護符の宝石を取り戻すべく中国は雲南から送り込まれた魔術師タイ・アンはどうやって護符の宝石を取り戻すのか!?という「タイ・アンの長期にわたる探索」

など、ここだけ読むと面白そうな6つの短編。


 

 

しかし前述したような読者への挑戦状的な書き方ではない。それを期待する小説ではない。では話の筋を愉しむものなのか。それにしては余計な話がグダグダ続く。申し訳ないが、私には正直最後まで何が面白いのかわからなかったのであります。