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天よ、我に仕事を与えよ―奥平剛士遺稿 (1978年) |本 | 通販 | Amazon

 

 

 

 

 

日本赤軍 奥平剛士 岡本公三 - YouTube

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の戦争には、歴史、宗教、人種差別などの背景があるが

日本のマスコミはそのような問題に関する知識も関心も欠けていると感じる。

 

 

ユダヤ人の2000年にわたるディアスポラ、ポグロム、ホロコースト

そして建国後の4次にわたるアラブとの戦争の歴史を振り返れば

 

 

ネタニヤフ政権がハマスを殲滅するまで攻撃を止めないという論理が理解できる。

ハマスによる今回の攻撃を「第2のホロコースト」ととらえているからである。

 

 

 

 

舛添要一の話は、ぶっ飛びすぎていて、ちょっと理解不能

川端さんも、支離滅裂な主張と切り捨てている。

 

 

日本人が、「テロリストの娘」という言葉に弱いのは

暴力的な行為は無条件で「悪事」に分類すべきものという理由らしい。

 

 

 

1970年前後の日本の左翼活動は

実質的に窒息死寸前の状態だったようで

 

 

所得水準が向上するにしたがって

「階級闘争」の意義は希薄になったことは、間違いがない。

 

 

日米安保条約改定かなにかをめぐって

国会をとりまいたことがあったようだが

 

 

その動員数は、近くでやっていたプロ野球

巨人戦だっけ、それに劣っていたという文章を読んだ覚えがある。

 

 

それだけ一般庶民が豊かになっていった時代

何も武力闘争までやらかす意味もない。

 

 

 

結果、運動家たちは、組織間の縄張り争いを繰り返し

空論と化した革命の観念を振り回して

自らを隘路に追い詰めていったのだという。

 

 

赤軍派は、武力闘争路線を掲げ、猟銃店を襲ったり

警官の拳銃を奪ったりしたらしい。

 

 

次々とリーダー格が逮捕されて、二流三流の運動家だけが残り

この残党の行き着いた先が、連合赤軍の仲間同士の凄惨なリンチ殺人

 

 

 

重信は、森恒夫らと路線が合わず距離を置き

組織にも行き詰まりを感じて、大学に戻ることも考えていたという。

 

 

今となっては考えにくいが、当時の大学はそんなもの

左翼というだけで、大学に就職できた。

 

 

西部さんなんかは、典型的

実績を積み上げて職を得るというより、左翼の就職先

 

 

他にも、マスメディアが主な就職先だった。

ゲバ棒を振り回していた連中も、大人しく社会に溶け込んだ時代

 

 

資本主義の黄金時代と言われるだけあって

社会も、そんな連中に包摂的だった。

 

 

 

そんな中、赤軍派の中で海外に「国際根拠地」を作る構想が持ち上がり

その計画の一つが、パレスチナ解放闘争に加勢するというもの

 

 

アメリカの支援を受けたイスラエルからの独立運動は

帝国主義や資本主義に対する戦いと見なしたようだ。

 

 

実際に、パレスチナの武装勢力にはアラブ民族主義者と

マルクス主義者が入り混じっていて、PFLPはその代表勢力

 

 

この国際活動部隊のメンバーが、後に「日本赤軍」を名乗り

重信は、中東行きの資金とメンバーを集め始める。

 

 

そこで、奥平と出会う。

奥平は、もともと京都大学工学部の学生で、全共闘にも参加していた。

 

 

「大学の管理教育粉砕」などという矮小な目標をめぐって

派閥抗争を繰り返すのは、エリート学生の暇つぶしにすぎないと感じ

 

 

被差別部落の子どもの教育や、建設現場での土木作業に専心

重信に勧誘されるまで、赤軍派とも無関係だったらしい。

 

 

 

 

君らには花があり

君らには車があり

 

君らには恋人があり

君らにはことばがあり

 

君らには思想があり

君らには愛があるそうな

 

 

よし、さもあればあれ

俺には現実がある

 

俺はそれを酒場の女にみた

ばくちに体をはるたくましい若者にみた

 

つるはしをはねかえすかたい土くれにみた

俺の体からほとばしる汗と血にみた

 

 

現実とは何か

常々希望を持ち  前をみつめて

 

よろいにくるまって進む者にはわからない

雲の上を歩む君らにはわからない

 

墓場にいるお前らにはわからない

それには色もなく光もなく

 

ただにがい  土をかみしめながら

地面をはっていく者にだけわかるのだ

こよい  この青春の一日をどこにうめるのか

 

 

 

 

 

奥平は、生まれた時期が悪かったように思う。

日本で、マルクス主義が猛威を振るったのは、敗戦直後

 

 

日本は、敗戦直後、GHQがやってきて、国家として統治機能が停止状態となり

GHQも当初、共産主義者が暴れまわるのを放置していた。

 

 

戦争で男性が戦場に駆り出され、国内は労働力不足で

朝鮮半島から、働きに来てもらっていた。

 

 

日本人は戦場へ、朝鮮人は日本国内で安全な労働環境

戦場へ駆り出された日本人は、よかれと思っていた節がある。

 

 

それが敗戦とそのショックに打ちひしがれていたところに

共産主義者が在日朝鮮人を焚き付け、武力闘争を開始

 

 

日本国内は、いたるところで暴力が吹き荒れる事態となったが

GHQは、無視を貫き、敗戦ショックの中で二重の混乱状態を引き起こした。

 

 

暴力は止まるどころか、どんどんエスカレートし

警察の手に負えない状態で、警官まで襲われる始末

 

 

この国内の騒擾が収まったのは、結局、最終的な暴力装置

GHQが出てきてからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本国内は、普遍闘争状態となったが、GHQが重い腰を上げ

鎮圧に乗り出し、国内の治安は良化に向かった。

 

 

別に、この頃の共産党や在日朝鮮人を批判したいわけではない。

ただ、不用意に移民を入れると、こんな事態になると知っていた人は多かった。

 

 

そういう人々が、表舞台からいなくなって

敗戦直後のこういう経験も風化し、移民をどんどん入れていることが大問題

 

 

 

朝鮮併合も当時はよかれと思ってやったことだろうし

共産主義者も武力闘争がよかれと思ってやっていた。

 

 

韓国・北朝鮮の人々、在日朝鮮人の人々も、彼らなりの正義があったのだろう。

暴力=悪という図式は、現在、描かれている図式にすぎない。

 

 

この頃なら、奥平も意気揚々と日本共産党に入党し

暴力路線を突っ走ることができたろう。

 

 

そして、日本共産党でそれなりの出世をして

それなりの人生を送ることができたように思う。

 

 

今にして思えば、奥平は活動している時期が悪かった。

ただそれがゆえに、海外に活躍の場を求めたことは正しい選択だったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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