マイケル・リンドが語る「新しい階級闘争」では
米国において、ゲーテッドコミュニティを人々が襲うかもしれないとまで述べている
超富裕層か、富裕層が築き上げたこの疑似的共同体も
新しい監獄の一種かもしれない。
日本では、ほとんどないが、似たようなものとして
高僧階建ての集合住宅、タワーマンションがそれに該当するのだろう。
超富裕層向けの集合住宅の住人もそうなのだろうが
そこまでいかなくとも、現代の集合住宅そのものが監獄に似ている。
建物が取り壊されて、何が建つのだろうと
案内図みたいなものを観察すると、比較的広いと集合住宅が多い。
工事が始まって、その前にいくと
もうここに何があったのか、なかなか思い出せない。
立派な集合住宅がそびえたってしまうと
もっと分からなくなって、はてなと考え込む。
そして立派な入口を見て、他者を強烈に排除していることに気づく。
その玄関で、住人を見かけることがほぼない。
立派な玄関口で、広々としており
くつろぐためかソファーなども、置かれている。
警備員の人が常駐するほどでもないから
まったく人気がないので、とても空虚である。
空虚だから、その集合住宅の人びとも寄り付かない。
そこに住む人々も、なんらかの交流を望んではいない。
車を使用する人、自転車を使用する人
おそらくほとんどの人が、そこを利用することはない。
別の侵入口から、それぞれの住宅区域に向かうのだろう。
その閉じ方に、強烈な寂しさを見てしまう。
強烈に閉じていること、それが加速していることに
寂しさの加速と日本の家族の孤立を感じてしまう。
外部と接することは、たいへん面倒くさく
また心理的負荷も、確かに大きくかかる。
この場合、外部とは距離的に近い外部のことである。
簡単に言ってしまえば、ご近所様とのお付き合いになる。
心理的に負荷がかからない外部は
ネットのような、いつでも遮断でき、生活世界がないものと言えよう。
われわれにとって、その距離的に近い外部は
非常に重要な存在である。
内部があって外部があるのではなく
外部があって、はじめて内部になる。
外部なしに、内部などあり得ず
内部は、外形的に形成され、構築されるのである。
外部との遮断、もしくは強烈に閉じているということは
内部も、常に崩壊の可能性を秘めている。
つまり構造的に、いつでも脱構築されうる危険性があり
強烈に閉じるということは、すぐにでも解体の危機にある。
ここに、現代の日本の家族が抱えている深刻な病を見てしまうのは
過去に形成してきた日本式家屋への憧憬を、完全に捨て去ったであろうこと
外部、もっと言えば、他者を強烈に排除する構造の中に
ほぼ完璧に潜むことで、生まれてしまうであろう歪
うっとおしく、煩わく、面倒くさい他者との関わりの欠如は
われわれに大きな精神的な変容を、自ら強制的にもたらしている。