短編小説:深海の魔女④ | Shionの日々詩音

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「ここに客人なんて、何年ぶりだろうねぇ」

その妖しげな女は、私を招き入れると目を細めてそう言った。表情は優しく見せていたけれど、その目が少しも笑っていないことにくらい私は気づいていた。私の緊張が伝わっているのか、女はヒヒッと嫌な笑みを漏らす。
ついさっき見せられた不気味な骨たちに加え、案内された場所は住処と言うにはあまりにも暗すぎた。岩に囲まれたそこは、私たちが住んでいる場所とそう離れていない、同じ海だとは到底思えない。

「ここはあんたら王家の土地じゃあないさ。王様に聞かなかったかね?ここには近づくな、と。ここは、あんたたちのもんじゃあない。私の、私だけの海さ」

女はわざとらしく、あたりに大きく泡を立てながら言葉を発した。

「で、お姫様。こんな場所に、あんたは何をしに来たんだい?」

その問いに、私は答えられなかった。自分でも、なぜここに来たのかなんてわからない。
父への反抗だったのか。もうすぐ嫁がされてしまう自分の身を憂いてのことだったのか。
ここに何かがあるとは思っていなかったし、そもそも人が住んでいるなんて思いもよらなかったのだ。口を閉ざした私を見て、女はまた、不気味な笑みを浮かべた。

「……あんた、歳はいくつだい?」

女の目がぐっと細くなる。気圧されるかのように、口から自然と言葉が出ていた。

「……じゅ、14……」

女の口元が、更に大きく歪んだ。

「ほぉ……ちょうど良いじゃないか。上に、上がれるよ」

女の人差し指が、まっすぐと私たちの頭上を指す。ここは、昏い。光も届かない。上の世界は、何も見えない。
『ちょうど良い』とは、どういうことだろうか。母が昔私に教えてくれのは、私たちは15歳になると上に上がれる、ということだ。それを恐らく知っているから、父も姉たちを15ですぐに嫁がせた。それにはまだ、私は一歳足りない。

「15っていうのはね、地上に出て動くことができる歳ってことだよ。14ならもう充分。水の外に顔を出しても、呼吸ができる歳だ。あんたの父親は、知らないんだろうがねぇ」

女は、喉を鳴らして笑う。私の心を見透かしたかのように喋る。この女は、声に出していない私の声を、聞いている。私の心を、読んでいる。そう、感じた。

「そう怯えないでおくれよ、『リリー』」

もう、たくさんだ。私は、この女に、自分の名前を名乗ってなどいなかった。この女は、恐ろしい。ここにいては、私はどうにかされてしまう。
私は女に背を向け、尾鰭を蹴ってその場を立ち去ろうとした。

「このままずーっと、父親の言いなりに生きていくのかい?」

辺りに大きく響いた女の声に、心の奥底が、射抜かれる。

「このまま嫁がされれば、あんたは一生自由になれない。父親の決めた相手に嫁ぎ、父親の王国のために子を生み続ける。父親が死のうと関係ないさ。あんたは一度ハマったその渦からは抜け出せない。永遠に、王様の娘のまんまさ」

女は鋭い目で、真っ直ぐに私の目を見つめている。

「母親の顔、どんどん忘れてるんじゃあないかい?このまま、ずっとずっとそうやって生きていけば、やがて母親のことが思い出せなくなるよ。お日さまは永遠に遠退く。あんたはどこにも行けない。行き着く先は、ここより昏い」

女は言葉を切る。そして、その視線をふいっと私から背けた。

「それでも良いなら、すぐに立ち去りな。あと一年もしないうちに、『あんたの』一生は終わるよ」

何だかとても胸がざわざわとして、言いようがないくらいに気持ちが悪くなった。
母の顔を忘れ始めていること。私はなんとなく、気づいていた。姉妹の中で、私だけが母の近くにいられたのに。それなのに、最近ではもう、母の顔を、声を、思い出せなくなってきている。このまま、お日さまのこともニンゲンのことも忘れてしまうなら。きっとその時、完全に私の中から母は消えてしまう。
私は、もう一度ゆっくりと、女のそばへと泳いで行った。

「水の、外って何?私は、お日さまが、見られるの?」
「……ああ、見られるとも。あんたはもう、ニンゲンと同じように、水の外で呼吸ができる」

女の笑顔は、相変わらずとても恐ろしかったけれど、何故だかその瞬間、忘れかけていた母の顔を、思い出せたような気がした。

「この海の魔女が、あんたを外の世界に連れていってやるよ」



魔女と別れてからの数日間は、何事もなく過ごした。父は相変わらず篭りきりで会うことはなかったし、使用人たちも特別私に何かを言うこともない。この場所にいる限り、私は少なくとも、誰にも見咎められず、自由だった。

「あんたも聞いたことくらいはあるだろう?私たちのいるここは海の底。上に上がっていけば、そこには別の世界が待ってる」

あの日、魔女は私にそう説明した。

「魚たちは、水の外には出られない。私たちもさ。水の外では呼吸ができないんだよ。でもね、ある程度成長すると、私たちは水の中でも、外でも生きていけるようになるんだ」

水の、外。それは母が言っていた、ニンゲンの世界のことだ。

「私たちは進化の過程で生まれたのさ。水の中でも、外でも生きていける。魚でも、ニンゲンでもない。そのどちらよりも優れた存在なのさ」

魔女は笑いながら、あの不気味な骨のことも教えてくれた。

「あれはね、水に溺れた哀れなニンゲンの末路だよ。私がやったわけじゃあないさ。ニンゲンって奴らはね、水の中じゃ生きていけないんだよ。おかしなもんだねぇ。あいつらは水の外でしか息をすることが出来ないし、こんなところまで沈んできたら、泳ぐことだってできないのさ」

その言葉には、母が語ったようなニンゲンへの羨望は微塵も感じられなかった。

「私たちはその両方で生きていける。ま、地上に上がって動くには、こいつが邪魔だけどねぇ」

魔女は尾鰭を揺らし、気味の悪い笑みを浮かべた。

「あんたはもう、水の外に顔が出せる。そこには、あんたの母親が憧れたお日さまの光も、ニンゲンもいる。一度くらい、上がってみても良いんじゃないかい」

お日さまを、本当に見たかったわけじゃない。かつて一度見た光はとても眩しくて、私はそれが恐ろしくて深い海の底に、私たちのいるべき場所にすぐに逃げ帰ってきたのだ。魔女曰く、それはまだ目が慣れてなかっただけだと言う。

--今の私は、もう上に上がることができる

六人の姉妹の中で、私だけが唯一持つ母との思い出。憧れと、優しさの混じった、母の語る、ニンゲン。石で出来た彫像でも、命の失われた骨でもない。笑って、愛を語り合っているという、ニンゲン。

--どうせ嫁いでしまったら、もう、水の外の世界に行くことなんて永遠にない

私は大きく尾鰭を蹴っていた。辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。

--お母様、ニンゲンはこちらには来れないのだそうよ

でも、私が、あちらの世界に行くことは出来る。お日さまを見ることも、私には出来る。

深い海の底から、少しずつ、少しずつ上へと上がっていく。昔は怖くて、途中で止めてしまった。でも、今はもう何も怖くはない。怖さより、胸がドキドキするような、期待に満ちた喜びだけがある。上がれば上がるほど、見たことのない景色が広がっていった。水の色が変わり、少しずつ、明るい色合いになってゆく。

--ああ、これが、お日さま……

ほんの少しの抵抗があって、私は、とうとう、水の外へ顔を出した。生まれて初めて、いやもしかしたら、一族の中でも初めて、私たちという種族がこの世界に生まれ落ちて初めて、『私』が、水の外の世界に、顔を出した。
それは、今まで、感じたことのない感覚だった。口から、鼻から、暖かなものが流れ込んでくる。肌に何かがまとわりつく。それが、私がこれまで当たり前に生活していた世界-水-なのだ、とわかるのに時間は掛からなかった。身体が、それを、水を弾いている。
目に痛みを感じて、手でそれを遮る。--光。光、光だった。お日さまの、光。眩しくて、痛い。けれど、視線を外して、その光を直接見ないようにしてみる。暖かい。水を上がってから感じる暖かさと明るさの正体は、それだ。柔らかく、私を包み込んでいる。

「お母さま……これが、これがお日さまなのね……!」

一度は恐れて、逃げ帰った。母の言葉を、母の憧れを、疑った日もあった。けれど、初めて感じたこのお日さまの光。そして、水の外の暖かさ。これが、ニンゲンの世界なのだ。私たちの知らなかった、母の憧れた世界なのだ。

私は気分が良くなって、辺りを泳ぎ回った。まるで幼い頃。母がまだそばにいてくれた時のように、はしゃいで、ざぶんざぶんと音を立てて物凄いスピードで泳いだ。泳ぐ時も、水から顔を上げたまま、お日さまの光を感じるのは忘れなかった。

「ああ、なんて気持ちいいの。こんな世界があるなんて」

たっぷりと泳ぎ疲れて、近くの岩肌に身を寄せると、お日さまの光が変化しているのに気付いた。さっきまでの黄色く明るい色から、橙色の、より鮮やかな色へと変わっている。同じお日さまであるはずなのに、そこから受ける印象はまったく違っていた。この橙色のお日さまも、とても美しくて、暖かい。けれど、どこかもの哀しいような、胸がきゅっと締め付けられるような感覚を与えてくれた。

お日さまに見惚れながら、私はハッと気づく。はしゃいでいて時間の感覚がなくなっていたけれど、きっともう海の底を出てからたっぷりと時間が経っている。さすがに使用人たちも私の不在に気づく頃だ。父の耳にも入ってしまうかもしれない。

きっと、これを最後にもう二度とこの光を感じることはないだろう。私は嫁ぎ、王家の娘として、生を終える。

--お母さま、お日さまは、とっても、綺麗でしたよ……

消えた母の分まで、その光をこの目に、胸に焼き付けた。もう充分だ。私は、母との約束を果たした。姉たちの、父の知らない世界を見た。それで、充分だ。

水の中へ潜ろうとした時、風に乗って、微かに声がした。楽しそうな声。それは、色とりどりの、沢山の歌声だった。心が浮き立つような、楽しげで、騒がしい歌声。それは、ニンゲンの声だ。水の中とは違う響き。空気を震わせる楽しそうな歌声。遠くに光が見えた。それはお日さまの光とは違った。ニンゲンたちの発している光なのだろう。

--ニンゲンはね、砂の上を走り回ったり、お日さまの光を浴びながら、お互いに「好きよ」って言ったりして、とても楽しく暮らしてらっしゃるの

きっと、あの光の中で、この明るい歌を唄いながら、ニンゲンは愛を語っているのだろう。これが、母の見たかった、見せたかった世界なのだ。

もう、海の底に戻らなくてはならない。そうして、この光とは、もう二度と会うことも叶わないだろう。せめて最後に、この光にほんの少しだけ混ざってみよう。あの光にほんの少しのだけ、私の色を混ぜてみよう。

ニンゲンたちのリズムに合わせて、出来るだけ楽しい気持ちで歌を歌う。水の中とは、響き方がまったく違う。なんて気持ちが良いのだろう。どこまでも、どこまでも歌が響いていくように感じた。きっとニンゲンたちにも届く。私の姿を見せることは叶わなくとも、一緒に踊ることは叶わなくとも、歌声は重ねられる。お別れに、きっと相応しい。

目を閉じて夢中で歌っていた私は、お日さまの光がすっかり隠れてしまったことに気付いていなかった。そして、水の中にいるのが当たり前だった私は、天から強く水が降ってきていることにも、なかなか気づけなかった。気づいた時には、ニンゲンたちの唄はまったく聞こえなくなっていた。世界の模様が、一変していた。


to be continued...


Shion