私は車の運転免許をとって以来、更新の際はいつも違反者講習を受けている
いわゆるゴールドカードをとったことが一度もない。
でも今まで免許停止処分を受けたことはない。
捕まったのは右折禁止や5~10キロくらいのスピードオーバー。
一時停止。無灯火。シートベルト違反など軽いものばかりだ。
決していつも違反をしているというわけでもない。
基本的には安全運転を心がけているのだが、
どうにも思わぬところで捕まるようでいつも頭にくる。
切符を切りにきた警察官にかなり横柄な態度をとったこともある。
もちろん違反した自分が悪いのは分かっているが、
警察の検挙の仕方には腑に落ちない点が多く、
点数稼ぎのためにやっているのではないかと思うことが多々ある。
警察のいないところでスピード違反などをしている車を見ると非常に憤りを感じる。
「他にも違反してる車はごまんといるじゃねぇかよ!何で俺が・・!」
というわけで警察に、特に交通課に対してはあまりいい感情をもっていない。
違反者講習については職員の手際の悪さもあっていつもイライラしていた。
「仕方ないけど受けてやるか・・」「かったるいよなぁ」「早く終わらせろよ・・」
というような気持ちでしか臨んだためしがない。
言っておくが私はこれでも安全運転を心がけている人間だ。
交通法なんぞ「知ったこっちゃない」などと思ったことは一度もない。
皆、ルールを守って運転するべきだと心から思っているのだ。
違反運転者講習は大体2時間あまりのもので講習用のビデオの上映と講師による説明がある。
私の知る限りだが、大概の講師はレジュメを基に一通りの説明をして終わることが多い。
つまり特に印象にも残らないものなのだが、今回の講師はいつもと違った。
朝早かったのでだるい気分を抱えながら聞いていると、
「居眠りしない!!」
「きちんと聞かないと後日もう一度講習を受けていただくことになりますよ」などと言い、
昔の教師のごとく机を叩きやがった。
教室が狭いので全員の顔が見渡せるのだろう。仕方なく顔を見た。
講師は小学校で毎年交通指導を行っている、という話から始まった。
その際に1人の子供にこう言われたらしい。
「おじさん。車を運転している人ってみんなちゃんとルールを守ってるんかい?」
「いや。もちろんだよ。運転免許を持ってる人はみんな交通ルールを知ってるはずだよ」
「(笑)おじさん。嘘言っちゃいけねぇよ。
僕、毎朝1年生と2年生の子を連れて登校してるんだけどさぁ。
横断歩道で渡ろうと手を挙げて待ってても誰も止まってくれねぇで」
「いや・・・。そんなはずねぇだんべ・・・」
そのことを確かめるため翌日から3日間、その子から言われた道路に行って
その時間帯に調査を行ったという。そうしたら確かに車は簡単には止まってくれず、
止まったのはおよそ100台中3~4台だけだったらしい。
その翌年。講師が同じ小学校に交通指導に行った際には、昨年とは違い「必ず止まるよ」という
断定的な物言いが出来なくなったため「手を挙げて頭をちょっと下げれば、
車は止まってくれるかもしんないよ」と説明をしたという。
続けてもうひとつのエピソードを紹介した。
ある小学生を持つ父親から相談を受けた。その子が突然登校拒否になり、
父親にも詳しいことを話してくれないらしい。その講師がその子と一対一で話をした。
すると「だってうちのお父さん、ルールを守らないんだもん・・・」と事情を話し出した。
ある日父親が子供を助手席に乗せて学校へ送りに行ったとき。
途中に横断歩道があり、その子の同級生数人が道路を渡ろうと待っていた。
子供は「あっ同級生がいる」と口に出して言った。
父親は「あぁ・・。」とつぶやいて、横断歩道で止まることなくそのまま通り過ぎた。
その後学校へ行った子供は「おまえの父ちゃん、交通ルールも知らねぇんかー」
と言われて恥ずかしくていたたまれなくなったという。それが登校拒否の原因だった。
「皆さんどう思いますか。子供は大人の行動をよく見ているんです。
私はもう情けなくて。運転手一人一人にもう一度講習したくなりましたよ。
それでも皆さんはその時は急いでいたんだ、とかおっしゃるかと思います。
また子供の飛び出しも多いじゃないかと言いたいかも知れません。
ですが、何故子供の飛び出しが多いのか。私はその小学校の子に聞きました。
だって大人がルールを守らねえんだから、僕たちだって守るが馬鹿みてぇじゃん
と言っていたんですよ。皆さんからすれば些細なことでも子供は敏感に感じとるんです。
そういったことを無くすためにもう一度、もう一度交通ルールを読み返してください。
ルールをしっかり守って車を運転していただきたいと強く思います。」
何度も繰り返すが私自身は安全運転を心がけている人間だ。
車でも歩行者でも急ぎの人がいれば優先するように道を譲ったりもする。
逆に譲ってもらえれば手を振りながら、あるいは心の中で「ありがとう」と言いながら
道路を走っている。子供が道路を渡ろうとするのが見えれば止まっている・・はず。
だが本当に急ぎの用があって焦って運転していれば、謝りながらも素通りするかもしれない。
一時停止すべきところで完全には止まらないかもしれない。
うっかりシートベルトを閉め忘れるかもしれない。うっかりスピードを出しすぎるかもしれない。
訂正する。私は安全運転を心がけている「つもり」の人間だった。
だから今、違反運転者講習を受けているのだった。
そして講習は続く。
群馬県は車の所有率が非常に高い事。事故の件数も多い事。
そして全国規模での事故の発生数。死亡者数。飲酒運転がいまだに多い事。
高齢者の運転者による事故も多い事・・・。
「何故事故は起き続けるのか」
皆さんしっかりと交通ルールを守って下さい、と講師は繰り返し訴える。
全くもってその通りだ。そうすれば確かに事故は無くなるのだろう。
だが自動車事故は減る気配がない。
相変わらずニュースでは自動車による事故が紹介されている。
ニュースにならない、報告されていない事故も数多くあるのだろう。
かく言う私もこの講習の後で、更新された免許証を無事に受け取れば安心し、
しばらく経てばこれらのことは忘れていつもの生活に戻るのだろう。
いや、すっかり忘れるわけではなく印象が薄れるのだと思う。100%のものが
40~50%くらいにになって心に残るのだろう。
だがその忘れている、いや薄れている部分から車の事故・違反は起きてしまう。
また何十年も優良運転者だった人間でも将来的に車の事故を起こす可能性はあるのだ。
人間が車を運転している限り、それはずっと続くのだろう。
極論を言えば人間が車を放棄すれば事故は完全に無くなるのではないか?
全くもってその通りだ。それが出来れば確実に自動車事故は無くなるだろう。
それが出来れば苦労しねぇよなぁ・・、などと考えながら2時間に渡る違反者運転講習は終わった。
「すべての人間は認知症なのです」
「アイの物語」山本弘 著より 看護用アンドロイドが人類全体を評して語った言葉。
帰り道、講習の内容を思い返す。
「・・・・だが車には一切乗らないで下さいとは言わなかったよなぁ・・」
当たり前の話だ。車はもはや社会に生活に経済に必要不可欠の存在だ。
私も車がなければ通勤も出来ないしあちこち買い物に行くのも不便になる。
自分が運転しないとなるとタクシーの世話にもならざるをえない。
いやバスの世話にもなるだろう。働き盛りの身としては面倒な話だ。
免許を持たず車を運転しないという人がいたとしても宅配便の世話にはなっているだろう。
コンビニやスーパーは車によって商品を仕入れている。それを我々は毎日買っているのだ。
人によっては救急車の世話にもなっている。どう考えても車は手放すことは出来ない代物だ。
どこでもドアでも開発されない限り、例え事故が起き続けても自動車が存在する生活は続くだろう。
原発の撤廃がなかなか進まないのはこれと全く同じなのではないのか?
私は基本的に反原発の立場をとっている。
地震と津波については間違いなく天災だが、
原発事故に関しては人災であると言わざるをえないと考えている。
車の違反運転者に対するしつこいほどの処罰・注意が
原発に対してもきちんと行われていたかどうか大いに疑問がある。
リスク管理を見誤っていたということになるだろう。
今後、福島はどうなるのか。放射能の影響はどうなるのか。
確実な保障やデータがないまま、不安で不安定な生活が続くのか。
政府や東京電力はどこまで考えているのか。
責めてみても後の祭りになってしまったが言わずにはいられない。
直接的な被害を受けなかった私のような人間でもそう思う。
今、原発をなくそうという動きが盛んだ。
だが震災がなければそんな動きが起こることはなかっただろう。
ほんのわずかな反対意見を無視しながら原発による電力の多大なる恩恵を
貪って来たのは政府や官僚、東京電力だけではなく、一般市民の我々だ。
電力の供給が滞れば生活が成り立たないのは自明だ。
私は原発には基本的に反対だが、今後人間が今の生活のレベルを落としていけるのか、
と思うと無理なのではないかと思う。
もはやパソコンは手放せないだろう。たとえば携帯電話は?DVDは?
冷蔵庫は?IH機器は?電車は?医療機器は?
挙げていけばきりがない。震災後の節電対策で今まで我々がいかに電力を浪費していたかが
如実に分かったが、製品そのものは手放すことは考えなかったはずだ。
今まで科学の恩恵を受けてきた人間にそれを捨てることが可能なのだろうか?
・・もう無理だろう。引き返せない。
映画「3丁目の夕日」などで古き良き時代を懐かしむことはあっても
不自由で不便な時代には誰も戻りたくないだろう。
「科学技術をコントロールすることが不可能なのではなく、
人間の愚かしさをコントロールすることが不可能である、ということだ。
それ故、繰り返し、自ら産みだした「技術」によって人間は自らを滅ぼすのである。」
「恋する原発」高橋源一郎 著より『震災文学論』のなかで語られた言葉
いわゆる原子力ムラに対する批判が強まっているが、全く同じ構造だろう。
そういった人たちは原発に関わりすぎて、それを手放した生活が考えられないのだと思う。
もし車による不慮の事故を一切無くそうと車の撤廃を呼びかけたとして、
それを日本人の圧倒的多数が賛同するだろうか?とてもじゃないが思えない。私も賛成できない。
あまりにも生活に密接に関わりすぎている。
そんな我々が「原発だけ」を非難する資格があるとは思えない。
交通事故と原発事故を比較することを非難するする人もいる。
いつか「事故が起こる確率は車の方が圧倒的に高い。原発の方が安全だ」と
原発推進論者が語ったことについて激しい反論が巻き起こった。
「事の大きさが違うだろ!」「交通事故で何十年も土地に住めなくなるか!?」
「交通事故をメルトダウンと同じレベルで語るな!!」など。
車を運転することのリスクは個人個人が請け負っているものだから。
押し付けられた原発とは違う、という意見もあった。
確かにその通りである。だがちょっと待ってくれと言いたい。
交通事故は「自己責任だから良いんだ」ということになるのか。
だとしたらその人たちは、交通事故で亡くなった人の命も相当「軽い」ものとして
語っていることになるではないか。
違反者に対する罰則が強化されることはあっても、車の撲滅運動が起こったことはなく、
制限速度以上のスピードが出せる車が相変わらず販売され出回っている。
車による被害者も毎年かなりの数に上っているにも関わらずである。
一向に減らない車の事故と原発事故と何の違いがあるのだろうか
「いいかいユリアン。軍隊とは道具だ。それもなくていい道具だ。
そのことを分かった上で、なるべく無害な道具になれるといいね」
「銀河英雄伝説」田中芳樹 著よりヤン・ウェンリーが軍人になりたいと希望する養子に語る言葉。
欲望に際限がない人間が、果たして「無害な道具」になれるのだろうか?
科学文明を駆使して生きている、ということ自体が「死」を促進しているように思えてくる。
さて私たちは、あと何年生き続けられるのだろうか?