辺りは相変わらず深い霧に包み込まれて視界は悪かった。
一歩足を動かす度、地面に伏したらどんなに楽だろうかとそればかりが頭の中に浮かぶ。
少し前に飲んだ薬が効いてきて、意識がぼうっとしている。
「神子、だいじょうぶ?」
手をつないでいる白龍がのりえの変化に気づき、声をかけてきた。
「ん……平気だよ」
そう答えたつもりだが、きちんとした言葉にはなっていなかった。
代わりに、ぎゅっと小さな手を握り返す。
「……朔?」
ふいに前を行く朔の足が止まった。
「――怨霊が」
朔と同じ方向を見ると、白い霧の間から大きな黒い影が近づいてきている。
自然に右手が背面にある剣の柄にかかった。
「一体だけなら、なんとかなる」
白龍の手を離し、剣を引き抜いて前に出る。
「グガァァ……ッ!」
何度聞いても気味の悪い声だ。
それでものりえは剣を構え、向かっていく。
相手の攻撃を払いのけ、胴を斬り払う。
封印という力は、相手の力をある程度削がなければできないようで、すぐにすぐ封印できるというわけではないらしい。
「――かのものを封ぜよ!」
のりえですら、いまだに封印をどうやって行っているか分からない。
ただ目の前の敵がいなくなればいい――そう思うだけで封印されていく。
「神子、向こうに! あっちにもいる!」
封印の白い光を茫然と見ていると、後ろから白龍の声が飛んできた。
慌てて辺りを見まわす。
いつの間にか、黒い影が四つになっていた。
「のりえ、囲まれているわ!」
「くっ……」
一体ならまだしも、これ以上数が増えると無理だ。
「朔、白龍! 活路を開くから、走って――」
逃げて、という言葉は続かなかった。
すぐ横からびりびりと伝わる殺気を感じる。
身体が逃げようとするが、俊敏に動けない。
(やられる……!?)
そう思った刹那、
「――先輩!」
聞き慣れた声とともに何かが体当たりしてきた。
「譲くん!?」
服装は違えど、のりえを守るように胸に抱え込んだ相手は幼なじみの有川 譲だった。
「キシャアアァ!」
怨霊である鎧武者の刀がのりえではなく、身を挺した譲の左肩を斬る。
「つぅ……!」
「譲くん! ――っ、この……!」
譲の腕に抱かれたまま、のりえは剣で鎧武者の腹を貫いて封印する。
「譲くん、離れてっ、ここはあたしが……」
「だめです! 俺なら平気です。このぐらい、たいしたことはありません」
「でも!」
「本当に平気ですよ。そんな顔しないでください。先輩が怪我をしてなければいいんです。本当に俺、けっこう頑丈ですから」
「譲くんっ……」
泣きそうな顔で譲の胸に顔をうずめた。
「ごめんねっ、ごめんねっ……でも、会えてうれしいよ……」
「先輩……」
自分の身体が細い腕に抱き締められる感覚に、譲は不謹慎にもきゅんとなってしまった。
「先輩、俺も会えてうれしいです。とにかく、ここを切り抜けましょう。先輩は俺の後ろにいてください」
服越しにでも伝わる体温の高さ。
普段から彼女の体調に気を配っている譲は、身体が限界であることをすぐに悟った。
「だめだよ、譲くんは怪我をしているんだものっ、ここは……」
譲の身体から離れ、剣の柄を握り直す。
「先輩、何を……。悪い冗談はよしてください。俺がやつらをひきつけますから、その間に逃げて」
譲は右肩にかけていた長弓と矢を手にする。
「そんなことできないよ」
「先輩、お願いですから……」
「――神子、八葉の力はあなたの剣と盾。一緒に戦ったほうがいい。絆が、あなたと八葉を強くするから」
そんなやりとりをしていたら、朔と白龍が近くへやってきた。
白龍は譲の顔を見つめた後、のりえを見て言う。
「え、はちよう?」
また分からない単語が出てきた。
もどかしそうに聞き返そうとすると、突然胸元から光る玉が出現した。
それはまっすぐに譲の元へ飛んでいき、右の首筋へと吸い込まれていった。
「……っつ……なんだ? 首が熱い……?」
光が吸い込まれた場所に白い宝玉が浮かぶ。
「それは、あなたの宝玉。八葉の力が宿る。神子を守るための力が」
「宝玉? 八葉……? 神子を守る……?」
「そう。神子を害するものから、守るための力が」
よくは分からないが、とにかく全身に不思議な力がみなぎるのは確かだ。
どうすればこの力が役に立つのか、感覚的に分かる。
「あなたの力を朔に。朔は神子の力を借りて、その力を放って」
鎧武者たちはこちらを囲んで寄ってきている。
戸惑っている時間はなかった。
「力を合わせましょう」
譲は自分の内なる力を朔に渡し、朔はのりえから受ける清らかなる力を使って、術を発動させる。
「いざ、ほとばしれ――奔水衝!」
鎧武者の足元から巨大な水柱が出現し、大きな体を押し流す。
「神子、封印を」
白龍にうながされて、のりえはまとめて封印をする。
きらきらと光る封印の力が周囲に散って、幻想的な光景が広がる。
「倒せたのか……? なんだったんだ、今のは。魔法……ってはずもないよな」
己に宿る力に呆然とする譲。
「――譲くん、そんなことより座って。肩の怪我、とにかく手当てしなきゃ」
その場に譲を座らせ、持っていたバッグの中から救急セットを取り出す。
元の世界では、何時なんどき何が起こるか分からない。
バッグの中には薬の他に絆創膏や包帯、ガーゼ、消毒液などの応急処置セットが入っている。
着ていた服を脱がせ、まずは傷の具合を診る。
「……痛そう……」
血の苦手なのりえは思わず顔をそらしてしまう。
「のりえ、ちょっといいかしら。私、少しなら癒しの術を使えるの」
「癒しの術?」
「ええ。これでも尼僧だから」
言って朔は譲の傷口に手をかざし、
「……黒龍、私に力を貸して」
祈りを捧げ、淡い光が傷口を包み込む。
「……ごめんなさい、今は不調で完全に癒すことはできないけれど、止血だけはなんとか」
「いえ……大丈夫です。だいぶ楽になりました」
今まで激しい痛みがあったが、それがすうっと和らいでいく。
「けれど、無理はしないで。激しく動かすとまた傷が開いてしまうから」
「すみません。ええっと……」
「あ、そっか。まだ紹介してなかったよね。譲くん、この人は梶原 朔。ここに来て助けてもらったの。――朔、この人はあたしの幼なじみの有川 譲くん」
肩口の血をガーゼで拭き取り、消毒液をかけながら二人を紹介する。
「それで、この子は白龍だよ」
「朔さんに白龍か。二人は怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫よ」
「……よし、この包帯の端を止めればOKっと」
「すみません、先輩。ありがとうございます」
「なに言ってるの。謝ってお礼を言うのはあたしのほうだよ。譲くんはあたしをかばって怪我をしちゃったんだから」
「俺はいいんです。先輩が無事ならそれで。俺のことよりも、先輩のことが心配です。発熱してますよね? 薬は飲んだんですか?」
「少し前に。……今はちょっと、薬が効いてきてだるいけど。…………」
「せ、先輩っ?」
譲が服を着終わると、のりえが背中に抱きついてきた。
「……会えて、本当によかった……」
広い背中に耳をつけて譲の心臓の鼓動を確認する。
心なしか鼓動が速いような気がするが、ちゃんと脈を打ってあたたかい。
朔が二人の様子を見て、白龍の視線をそらせた。
「俺も……先輩に会えてよかったです」
胸の前で組まれている彼女の手に触れる直前で、のりえが離れていく。
「譲くん、とりあえずここから離れよう。またあんなのが出てきたら、大変だから」
「あ、はい……」
妙な物足りなさを残しながらも、四人は再び下流に向かって歩き出す。
「けれど、さっきのは本当になんだったんだ? 身体の中から不思議な力があふれてくる感じがしたけど……」
「有川 譲、あれは、あなたの、宝玉を宿す八葉の力だよ」
「もしかして……これか?」
右首筋にある白い宝玉に触れる。
「白い石がついてるね。痛くないの?」
「いえ、痛みはありません。何かついているのが妙な感覚ですが、このぐらいは別に。他に驚くことが多すぎますから。だいたい、ここはどこなんでしょう? 俺たちは学校にいたはずなのに」
「あたしもよく分からないけど、ここは宇治川らしいよ」
「宇治川!? 京都の、ですか?」
譲の問いかけに白龍が首を傾げる。
「きょうと? 譲、ここは京だよ。時空の狭間に落ちて、狭間から抜けて来た。ここは、時だけでなく、場所だけでなく、神子の時空とちがう、京」
「ちょっ……ちょっと待ってくれ。時空ってなんだ? 京都でもないのか?」
「うん」
「だけど、国内なんだよな。宇治川っていうくらいだし……」
「京の宇治川だよ。譲の世界の、川とはちがう」
「は……はは……なんだよ、それ……。ここは、俺たちのいた……家や学校がある世界じゃないっていうのか?」
「うん」
「譲くん……」
譲の動揺に心配したのりえが彼の腕に触れる。
「先輩……――すみません。不安にさせるようなことを言ってしまって……。大丈夫です。たとえどんな世界だって、あなたは俺が守りますから。だから、どうか心配しないでください」
「……うん。ありがとう、譲くん」
「俺たちがいた世界じゃないってことはうすうす気づいていたんです。鎧を着た怨霊に、電信柱もない空。車も電車の音も聞こえない……」
どうしてこんな異世界に来てしまったのか分からない。
だが、ここで大切な人を守れるのは自分一人しかいない。
なんとしても彼女だけは守らねば。
この世界にいたとき、そばに弓が落ちていたのはせめてもの救いだ。
怨霊などという不気味な存在に戦うことに恐怖がないと言えば嘘になるが、恐れていてはのりえを守れない。
弓なら中学の頃より修練している弓道で多少の心得はある。
身近に武器があるということが何よりも安堵できるものだとは、元の世界にいては思いもしないものだった。
「ねえ譲くん……将臣くんは一緒じゃなかったの?」
「いえ……。俺ひとりでした」
「そう……」
「……大丈夫ですよ。兄さんはどんな状況でもうまく切り抜けられる人です。そのうちひょっこり現れます」
今にも泣きそうな表情でうつむくのりえの肩を、譲は優しく抱いてなぐさめた。
「――ようやく、源氏の人たちと合流できそうね」
河原を離れ、森の中を進んで十分ほど経った頃、朔が安堵のため息をついた。
数十メートル先にかすんで見える建物が目指していた橋姫神社なのだろうか。
耳をすませば、人のざわめきや馬の鳴き声が聞こえてくる。
「ほんと? よかった……ごめん、ちょっと休んでもいい?」
言うが早いか、のりえはそばにあった大岩の上の雪を払いのけ、そこに身体を寄りかからせた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと疲れただけだから」
芯まで冷えきる寒さに、一歩踏み出す度、雪に足をとられて思うように進まない身体。
いつまた怨霊に襲われるかもしれない状況は、緊張の糸を張りっぱなしだった。
両手で、感覚を失った足をさする。
すると、白龍も小さな手でさすってきた。
「ありがとう、白龍。白龍の手はあったかいね」
「神子のためなら、なんでもするよ」
「……ねえ、のりえは胸を患っているの?」
少し聞きにくそうに朔が訊いてきた。
宇治川で言っていたあの言葉。
『――もともと寿命が短いこの命。むやみに逃げて死ぬよりも、確実にあなたたち二人を逃がしたほうが懸命の使い方になるでしょう』
そして見慣れぬ白い薬のようなものを飲んでいた。
別の世界から一緒に来た譲はしきりに彼女の容態を気にしている。
もしやと思って問いかけてみるが、
「ん? ああ……うん。ちょっとね」
話したくないことなのか、のりえは苦笑いをして曖昧にうなずくだけ。
朔はそれを敏感に感じ取ってそれ以上、突っ込んで聞くことはしなかった。
「――そこの者! 何をしている!」
突然、横から男の大きな声が響いた。
誰もがびくりと反応して、声のした方向を見る。
一人の若い男がこちらに向かって歩いてきた。
長い髪は後ろで高く縛り、白地に青で染め抜いた笹竜胆の紋の装束を着込んで、腰には太刀を佩いている。
男と一瞬目が合うと、のりえの胸元から光る玉が出てきて、男の左腕へと吸い込まれていった。
(あれ……この光、譲くんのときと……)
「九郎殿……」
光る玉に気を取られている間に、男は朔の前で止まる。
「景時の妹御か。霧の中で迷ったのか。……その者たちは」
「あ、えっとノリエ=アルファータです」
「有川 譲です」
男の視線が自分たちに向けられ、のりえと譲は反射的に名乗ってしまった。
「おまえ……」
男がのりえの目を見て、わずかに瞠目した。
しかしすぐにむすっとした表情になり、
「こんな戦場を出歩いていたのか? ――朔殿、霧が出ているし、女人の足での強行軍はつらいかもしれない。だが、隊から離れられては迷惑だ。命を落としてもおかしくない。子どもの遊びではないんだ。軽はずみな行動は差し控えてもらいたい」
朔に向かって一気にまくし立てる。
「……申し訳ありません」
「あのっ、ちょっと待ってください。理由も聞かずに怒らないで」
一方的な言い方に、見かねたのりえが口を挟む。
「なんだと?」
「朔は離れたくて離れたわけじゃなくて、動けなかったらしいんです。それをあなたが気づかずに置いていってしまったんでしょう。あなたの事情で、こんな物騒なところに連れて来たなら、それ相応の気を遣ってあげるのが当然のことだと思いますけど」
「せ、先輩……」
譲が心配そうにのりえの肩に手をかけた。
向かい合っている男の顔が見る見る間に険しくなっていく。
「だが、具合が悪いなら、動けなくなる前に申し出るべきだ」
「そうしたくても、できないことだってあるんです」
身体の具合なんて、いつどうなるか分からないもの。
調子がいいと思っていても、その数分後には立つこともできなくなってしまうことがある。
のりえには朔の陥った状況が他人事ではなく、その苦しみも分からない相手に一方的に責められるのは我慢ならなかった。
「のりえ……ありがとう。いいのよ。私もきちんと言わなかったのが悪いのだし……」
「だめだよ。こういうことはきちんと言わなくちゃ」
「……おまえ、いい度胸をしているな。初対面の人間にそんなことを言われる筋合いはない」
「筋合いとか、そんなの関係ないでしょ。あたしは事実を言ったまでです。理由を言わせてもらえないまま、人を怒るだなんて、そんな理不尽なことはありえない」
「ここは戦場だ。いざとなれば、他人にかまっていることなどできなくなる! それに――――」
「――九郎、そのへんにしてはいかがですか。無事に見つかったんだから、もういいでしょう」
のりえの反論に我慢できなくなった男はさらに声を荒げ、何か言おうとしたが、そこへ別の男の声が割って入った。
視線を向けると、黒い外套を頭からかぶった物腰やわらかそうな若い男がやってくる。
「すみません、朔殿。本当は、心配していただけなんですよ。無事で本当によかった。君に何かあったら、僕たち、景時に合わせる顔がありません」
「いえ、私のほうこそ、申し訳ありませんでした」
朔は深々と頭を下げる。
「あ……」
再びのりえの胸元から光る玉が飛び出し、現れた男の右手甲に吸い込まれていく。
「っ……」
男が何かを感じたのか、右手を見た。
(もしかして、この二人も〝八葉〟だったりするのかな……?)
二人をじぃっと疑って見ていて、ふいに軽いめまいを覚えた。
両脚の力が急速に抜けていき、後ろに倒れそうになる。
「先輩、大丈夫ですか?」
気づいた譲がすぐに彼女の身体を支えた。
「あ……うん、ごめん……ちょっとめまいがして……」
「顔色が悪いですね……。ゆっくりと休める場所があればいいんですけど……」
「平気だよ、これくらい」
「――大丈夫ですか?」
先ほどの男の声が近くで聞こえた。
「あ、はい……大丈夫です」
男はのりえの顔を見て、微笑んだ。
「ずいぶんと可愛らしいお嬢さんですね。ここでお会いしたのもきっと何かのご縁ですから、お名前を聞いてもいいですか?」
「弁慶、こんなところで女人をたぶらかすな」
「たぶらかすだなんて人聞きの悪いことは言わないでください。僕はただ、可愛い人の呼び名が知りたいだけなんですよ」
「あの……ノリエ=アルファータです。のりえって呼んでください。こっちは有川 譲くんで、この子は白龍」
「のりえさんですね。僕は武蔵坊弁慶といいます。こちらの仏頂面なほうが……」
「名なら自分で名乗る。九郎だ。源九郎義経」
「――なん……だって? 源 義経!?」
男の名前を聞いた途端、譲が驚愕した。
源 義経といえば、日本史で一度は必ず勉強する鎌倉幕府に登場する超有名な人物。
鎌倉幕府を作り上げた源 頼朝の弟で幼名は牛若丸。
京の五条大橋で弁慶と決闘した話は誰もが知っている逸話である。
「兄上を……鎌倉殿を呼び捨てるな。おまえたちはいったい何者だ? 返答如何によっては捕縛するぞ」
「何者って言われて、なんと答えたら納得してくれるんですか?」
「なっ……! おまえ、喧嘩を売っているのか!」
「九郎、女性相手に声を荒げないでください」
「しかし弁慶! こいつは……!」
「九郎」
弁慶と名乗った男は笑顔を崩さぬまま、九郎を見た。
笑顔の下にある、裏の感情がひしひしと伝わってくる。
「…………」
「……信じられないかもしれませんが、あたしたちはここではない世界から……どうしてかは分かりませんが、来てしまったんです」
黙り込んでしまった九郎を見てしばし。
のりえは軽く息を吐きながら、自分たちの身に起こったことを簡単に説明した。
「違う世界? それを信じろと言うのか?」
「九郎、そう突っかからないでください。……ずっと、この石の意味を考えていたんですが――」
弁慶は右手に宿った宝玉を見る。
「のりえさん、君は龍神の神子ではありませんか? 朔殿が黒龍の神子ならば、君は白龍の神子なのでは?」
「え……」
「白龍の神子は、伝説によれば、こことは違う別の世界からやってくる者だと伝えられています。のりえさんが別の世界からやってきて、君と出会ってからこの石が現れた……。伝承の神子の特徴と一致します」
「……その、龍神の神子とか、白龍の神子とか、あたしにはよく分かりません。朔と白龍は、あたしのことを神子だって言いますけど、あたしにはそれがさっぱり……」
「のりえ、何を言っているの。――九郎殿、弁慶殿、この子は白龍の神子です。ここに至るまでに、怨霊を封じる力も発現しています。白龍の神子以外の誰が封印をなしえましょうか」
否定的なのりえとは反対に朔が強く肯定する。
「京を守るという、龍神の神子の話か。ただのおとぎ話じゃないのか。……だいたい、今はそれどころじゃない。悪いが、この話は後回しだ。この宇治川を制することが、京を手に入れられるかどうかの分かれ目になる」
「宇治川……九郎義経……――木曽義仲との戦か」
譲が自分の知っている記憶の中の歴史を思い出す。
「木曽とは、ほぼ決着はついたんだがな。平家が怨霊を使ってちょっかいを出してきているんだ。木曽が去る機会を狙って、京を取り返そうという魂胆だろう。いずれにしろ、ここは安全じゃない。おまえたちはもっと後方に下がっていろ」
「彼女たちだけで戻らせるのは危険ですから、僕が同行しましょう。平等院まで戻れば、大丈夫でしょうから」
「ああ……そうだな。悪いが、頼んだ」
「いいえ、可愛い神子二人と一緒なんて、役得ですよ」
そう言って弁慶はにっこりと微笑む。
「景時に殺されるぞ?」
「ふふっ、奴も妹思いですからね。……心しましょう」
「では、のりえとやら。詳しい話はまたあとで聞かせてもらおう」
「……はい」
九郎がきびすを返し、もと来た道を戻っていく。
その背中を見送ってから、弁慶が改めてのりえに向き直った。
「のりえさん、九郎のこと、悪く思わないでくださいね。彼は言い方が悪いだけで、本当は誰よりも朔殿のことを案じていたんです」
「いえ……。あたしのほうこそ、カッとなって言い過ぎたところもありました。すみません」
「のりえさんが謝るようなことはないんですよ。九郎ももう少し、言い方に気を遣ったほうがいいんですから」
あとで相手を傷つけたかもしれないと落ち込むくらいなら、傷つけない言い回しを身につけたほうがいい。
もっとも、そんな不器用なところが九郎らしいといえば、それまでなのだが。
「では、のりえさん……いや、神子殿とお呼びしたほうがいいのかな」
「えっ?」
「僕は八葉なんでしょう? この身に宿った宝玉が偽りでないなら。……僕が選ばれるとは思っていなかったけど……。――八葉は神子に仕えるものだと聞いています。それなら、君のことも神子殿とお呼びしたほうがいいかと思って」
「いいえ、普通に呼んでください。神子という実感はまったくないので」
「よかった。ありがとう、のりえさん。……そうだ、よければこれ、使ってください。寒いでしょう?」
まとっていた外套を外し、それをのりえの肩にかけてやる。
今まで弁慶が羽織っていたおかげで、かけられたそれはあたたかいぬくもりがあった。
「え、でも、弁慶さんが……」
「僕はいいんですよ。寒さには慣れていますから」
「……すみません。ありがとうございます」
「いいえ。では、まいりましょうか。源氏の陣が平等院にあるんです。そこまで行けば、安全ですから」