橋姫神社を出発して、すぐに灰色の空から白い綿雪が舞い降りてきた。

 ひらり、ひらりと舞う雪だけを見つめれば、ここがどこなのか忘れてしまいそうになる。

 視線を前に向けると、数歩とあけずに譲と弁慶の背中がある。

 二人は――主に譲が源氏や平家のことについて――いろいろと話していた。

「……ねえ、朔は今いくつなの?」

 無言でいるのがさびしかったのりえは、右隣を歩く朔に声をかけた。

「私? 十八を迎えたわ」

「じゃあ、あたしよりひとつ、お姉さんなんだね。誕生日はいつ?」

「誕生日?」

「うん。自分が生まれた日」

「確か……皐月の十日よ」

「えーと、皐月って五月だよね。いい季節だね」

「のりえは?」

「十月……神無月の六日だよ」

「秋の生まれなのね。秋もいい季節だわ」

「季節の中で一番好きなのは、秋と冬と春」

「あら? どれも一番なの?」

「うん。秋は紅葉がきれいだし、冬は寒いけど雪景色と星空がきれいだし、春はあったかくて桜が咲くし。……けど、夏はどうも苦手。体力がないからいつも暑さでへばっちゃうの」

「分かるわ。私も暑さは苦手なのよ」

「夏の日差しは洗濯物が早く乾いていいけど――」

 突然、手をつないでいた白龍が足を止めた。

「どうしたの? 白龍」

 のりえが立ち止まり、問いかける。

 前を歩いていた二人も止まって、白龍を振り返った。

「――神子、気のよどみが来るよ」

「気のよどみ……? ――!」

 呟いたすぐ後、全身にぞくっとくるものを感じた。

 反射的に剣の柄を握る。

「怨霊、ですね。みなさんは下がっていてください」

 弁慶は背中にあった薙刀を手にし、構えた。

「そんな、弁慶さん一人を戦わせるなんて……」

「いえ、神子をお守りするのが八葉の役目なんですから」



 ――あなたをお守りするのが、俺の役目なんですから――



 弁慶の言葉を耳にした瞬間、のりえの頭の中で別の男の声が響いた。

「――――」

 覚えのない声だが、懐かしいと感じるのはなぜだろう。

 それと同時に、泣きたいくらいの激しい感情が自分の中を駆け巡る。

「俺も八葉の一人です。一緒に戦います」

 譲も背中にかけてあった弓を構えた。

「――だめ!!」

 悲鳴にも似たのりえの声が辺りに響く。

「やめて、ボクなんかを守らないで!」

「せ、先輩……?」

「ボクはもう――」

 言葉が途切れた。

 右足首が何かにつかまれた感覚があった。

「っ――!」


 下を見ると、地面から伸びた骨の手が足首をつかんでいた。

 瞬時に剣を引き抜き、骨の腕を断ち切る。

「朔、白龍、こっちへ!」

 すぐに二人をそこから離れさせる。

 手が伸びていたところの地面がぼこぼこと盛り上がり、鎧を着た怨霊が土の中から這い出てきた。

 他の場所からも次々と出てくる。

「先輩っ!」

 のりえは譲の制止を無視して、駆け出していた。

(三体……)

 敵の数を確認し、まずは手近にいた一体の胴を薙ぎ払い、続けて斜後ろにいた怨霊武者の首を切り落とす。

(あと、一体……)

 最後の一体はのりえのいるところから数メートル離れている。

 剣を逆手に握り直し、それを投げつけようとする前に、横を一本の矢が過ぎていった。

「グガアアァァ……」

 矢は確実に怨霊武者の胸を貫いた。

「――かのものを封ぜよ!」

 白い光に包まれて、怨霊が封印されていく。

「……これが、封印の力……なんと清らかな……」

 初めて見る封印の光に、弁慶は見惚れていた。

 その光越しに見える黒髪の少女は、まるで天から舞い降りた天女のように見える。

「先輩!」

 隣にいた譲が構えていた弓を捨て、のりえの元へと駆け寄った。

 呆然と立ち尽くしていたと思っていた彼女は気を失い、身体が倒れそうになる。

 譲は慌てて手を伸ばして、彼女の身体を抱きとめた。

「先輩、しっかりしてください!」

 顔を覗き込むと、両のまぶたは閉じられて頬には大粒の涙が流れていた。



 

 

 

 


「――そんなに泣かないでください。俺は大丈夫ですから」

 ウォレスは困ったように笑いながら、ボクの背中をそっと撫でてくれた。

 大きくてあたたかいその手が触れる度、ボクは余計に泣いてしまう。

 腕に力を込め、しっかりとウォレスの身体にしがみついた。

 強く顔を押しつけると、心臓の鼓動が聞こえる。

「……だって、怖かったんだもんっ……」

 ウォレスが死んじゃうかと思った。

 血がいっぱい出て、呼んでも返事をしてくれなかった。

 ボクはそのとき、何が起こったのか分からなかったけど、ただこのままでいれば、ウォレスが死んじゃうんだと思った。

 ボクが死ぬより、ウォレスが死んじゃうことが、ボクには怖かった。

「ボクのせいでっ、ウォレスがケガするのはいやだよぉ……」

「なに言ってるんですか。あなたをお守りするのが、俺の役目なんですから」

「でもっ、でもぉ……」

 いくら守ってくれるのが役目だとしても、命をかけてまでボクを守らないで。

 ボクのせいで誰かが傷つくのはもういやだ。

 お願いだから、ボクを守らないで。

 お願いだから、ボクのことで危ないことをしないで。

 お願いだから、ボクのためだなんて言わないで。

 お願いだから――――



 

 

 

 


「………………」

 ゆっくりとまぶたを開くと、溜まっていた涙が一気に流れ落ちた。

 それはこめかみを伝い、冷たい感触を残して髪の中に溶け入った。

「うっ……うああぁ……」

 意識が覚醒すると同時に泣きたい衝動に駆られ、声をあげた。

「先輩?」

 譲の声がして、涙で滲む視界に顔が映った。

「あ……ああ……」

 腕を伸ばし、譲の首に抱きつく。

「せ、先輩っ?」

「あれはだれ……? 見たことのない人なのに……ボクはあの人を知っている……」

 嗚咽をあげながら、うわ言のように呟く。

「なつかしくて……あたたかい……あの人は……」

「――譲殿? のりえ、気がついたのね」

 声を聞きつけて、朔が天幕の布をまくし上げ、湯飲みを片手に入ってくる。

「あら……。ごめんなさい、お邪魔だったわね」

 あたたかい茶の入った湯飲みを置いて、朔はすぐに出ていく。

 譲はそんなことではないと呼び止めたかったが、本心では、こんな姿の彼女を他の者の目に触れさせたくはなかった。

「先輩、ここは平等院の源氏の陣の中です。もう戦うなんてことはしなくていいんですよ」

 身体を起こしてやり、胸の中で泣きじゃくるのりえの背中を優しく撫でる。

 それでいっそう彼女の泣き声が強まるので、譲はどうしていいのか分からなくなっていた。

「先輩……」

 兄の将臣はこんなとき、両手で彼女の顔を包んで互いの額を合わせ、まっすぐ自分の目を見させていた。

 涙で濡れる頬を拭いながら、自分を見ろと言う。

 自分は彼女のすぐ目の前にいて、そばにいるからと言い聞かせる。

 何度も何度も囁くように声をかけて、安心を与える。

 すると、のりえは泣き止んで落ち着くのだ。

 だが、譲がそれをやって、はたして彼女は落ち着くだろうか。

 あれは将臣がやっていたから、効果があるものなのか。

 どちらにしろ、今の譲にはこうして抱きつかれている時点で、正常な心を持つことができない。

 額を合わせるなど、もってのほかだった。

「………………」

 譲が心の中でそんな葛藤をしている間に、のりえはすでに泣き止んでいた。

 ぼろぼろと涙を流しつつ、譲から腕を離す。

「ごめん……。なんだか、無性に泣きたくなって……」

「いえ、俺なら平気です。それより、先輩は大丈夫ですか? どこか痛いところとか、気分が悪いとか、ありませんか?」

「うん……大丈夫。心配かけて……ごめんね」

「先輩が無事ならそれでいいんです。……さっき、朔さんがお茶を持ってきてくれたんです。飲んでください。落ち着きますよ」

「うん……ありがとう」

 言われるまま譲から湯飲みを受け取り、茶を口に含む。

 猫舌ののりえにしてみればそれは熱かったが、こくんと飲み下すと、あたたかいものが身体にめぐり、昂っていた気持ちが静まる。

「――失礼します、のりえさんはお気づきになられましたか?」

 弁慶がそっと隙間から中を窺い、のりえが起き上がっているのを見ると中に入ってきた。

「気分はどうですか?」

「……はい、大丈夫です」

「薬湯を持ってきました。飲んでください」

「薬湯……?」

 持っていた湯飲みを脇に置き、弁慶の差し出した椀を受け取ると、見るからに苦そうな濃い緑色の液体が入っていた。

 鼻がつまっていたおかげで匂いは分からないが、色からして草っぽい匂いがしそうである。

 一口飲んで、うっと息につまった。

(にがくて、まずい……)

 見た目通りの味に、椀を持っていた手が口元を離れようとする。

(だめだめ、せっかく弁慶さんが持ってきてくれたんだから……)

 そう思い直して、今度は一気に飲み干す。

「ふふっ、素直な人ですね」

 弁慶が小さく笑みをこぼした。

「……お、おいしかったです……」

 抹茶と思えばなんとかなるかもしれない。

 必死に自分にそう言い聞かせたものの、口の中は悲鳴をあげていた。

 すぐに横にあった茶を流し込む。

「大の男でも、あまりの苦さに呻くものなのですが、それをおいしいとまで言ってしまうとは……。お気に召したのなら、もう一杯、作ってきましょうか」

「あ、い、いえ! その、もういいです!」

 天幕を出ていこうとする弁慶の着物の裾をつかんで引き止める。

 さすがにもう飲みたくない代物だった。

「そうですか? 残念ですね。けれど、のりえさんのためでしたら、いつでも作りますので、おっしゃってくださいね」

「これ……弁慶さんが作ったんですか?」

「ええ。僕はこう見えても薬師なので」

「薬師? 弁慶さんが?」

「意外ですか?」

「あっ、いえ! ごめんなさい、悪い意味ではなくて……」

 気分を悪くしたかと思ったのりえは慌てて首を横に振った。

 のりえたちの世界の弁慶は山のような体格を持ち、筋肉盛り上がる豪腕で鉄の錫杖を振りまわしていた荒法師と言われている。

 しかし、目の前の弁慶はそれらと正反対のイメージ。

 物腰やわらかな、優しい青年である。

「ふふっ。先ほど、のりえさんが飲んだ薬湯は解熱と疲労回復の作用がある薬草を煎じたものです。だるくはありませんか?」

「はい、大丈夫です」

 見事なほど、即答だった。

「……のりえさん、無理をせずに具合が悪いときは言ってくださいね。譲くんからお聞きしましたが、あまり無理ができない身体とか。少しでも不調がありましたら、遠慮せずに言ってください。我慢はだめですよ」

「……はい」

「では、もう一度お聞きします。だるくはありませんか?」

「……少し。でも、平気です。いつものことだし、時間が経てばなくなります」

「先輩、そういう安易な自分判断はやめてください。ここは俺たちのいた世界じゃないんですよ」

「本当に大丈夫だって。無理だったら無理だって、きちんと言うし。あたしだって、しんどいのはいやだもの」

「――神子、神子! だいじょうぶ?」

 幕の外から白龍の声が聞こえた。

 すぐに幕があがり、白龍と朔が入ってくる。

 白龍は簡易寝台の上によじのぼって、のりえに抱きついた。

「白龍……ごめんね、心配かけちゃって。もう大丈夫だよ。朔もごめんね」

「いいのよ、気にしないで」

「あたし、どれくらい眠ってたの? みんなに迷惑かけなかった?」

 のりえの問いに、譲が答える。

「そんなに長い間ではないですよ。二時間ほどです」

「怨霊とか出なかった?」

「はい。あれからは大丈夫でした。それに、すぐに源氏の陣に着いたので」

「そう……それなら、よかった」

 安堵の息をつき、ふと考え込む。

「……でも、これからどうしようか。いつまでもここでお世話になっているわけにもいかないし……」

 案を求めるように譲を見上げると、弁慶がすぐさま首を横に振った。

「いいえ、のりえさん。できれば、このまま僕たちと行動してください」

「え、でも……」

「先輩、俺もそのほうがいいと思います。ここは危険なところだし、右も左も分からない不思議な世界です。俺たちだけではどうしようもない」

「譲くんがそう言うのなら……。――弁慶さん、この宇治川の戦が終結したら、弁慶さんたちはどうするんですか?」

「おそらく、京に向かうことになると思います。京というのは、ここから北にある大きな町なのですが……僕たちは、もともとその町に向かって来たんですよ。平家がこのあたりを去れば、京には入れるでしょうから。いずれにしろ、九郎が戻るのを待ってからですね」

「九郎さん……か。源平合戦……」

 学校で習ったおぼろげな歴史を思い出す。

 確か、兄・頼朝の挙兵とともに京にやってきた義経は、度重なる逆境に立たされながらも平家を滅亡においやり、次第に強大となっていく義経の力を恐れた頼朝が義経追討の命を出す。

 兄に追われた義経は家来の弁慶たちとともに北へ、藤原氏が治めていた奥州平泉に逃げ延びた。

 そこで藤原氏の保護を受けるが、当主の秀衡の死後、息子の泰衡が頼朝の力を恐れて義経を裏切り、追い詰められた義経はどこかの堂の中で自害したという。

「……譲くん、あたしたち、タイムスリップしたわけじゃないよね……?」

 宇治川では、白龍は譲たちの世界とは違う世界の京だと言った。

 もしもそれが嘘で、タイムスリップしたとなれば、このままではあそこで会った九郎はやがて悲しい結末を迎えてしまうだろう。

 そして弁慶の言うとおり、自分たちが源氏とともに行動していれば、いつかは……。

 後ろ向きな考えばかりが頭に浮かぶ。

 のりえの考えていることが分かった譲は安心させるように肩に手を置いた。

「たいむ……すりっぷ……?」

 聞き慣れない言葉に、弁慶が反応した。

「それはのりえさんたちがいた世界の言葉ですか?」

「あ……はい。時間を越えるっていう意味です」

「それを〝たいむすりっぷ〟と言うのですか。珍しい言葉ですね。――そうだ、九郎が戻るまで、お話を聞かせてもらえませんか? のりえさんたちはどんな世界から来たのか、興味があるんです」

「あたしたちの世界……えっと、機械や科学が発達した文明世界で……」

「きかい? かがく?」

「確かバッグの中に携帯が入ってたはず」

 脇に置いてあったショルダーバッグをたぐりよせ、中からシルバーの携帯を取り出した。

「これ、携帯電話って言って、遠くの人と話せる機械なんです」

 開いて画面を見てみるが、電波はなく、圏外になっていた。

「遠くの人と……? どれくらいの距離まで話せるのですか?」

「電波さえあればどこでも。海の向こうの人とも話せたりするものなんです」

「こんな小さなものが……すごいですね。ここに描かれている絵は誰が描いたものなんですか? うり二つですね」

 弁慶が指したのは待受画面。

 そこにはのりえと譲と将臣のスリーショットが写っていた。

「いえ、これ、写真です。絵じゃないんですよ」

 論より証拠。

 のりえは試しに弁慶を撮って見せた。

「まあ、すごい! 弁慶殿が写っているわ」

 興味津々に朔が覗き込む。

「……これはまだ一部ですけど、あたしたちの世界にはそういうものがたくさんあって……。でも、ここはあたしたちの世界の昔――どのくらい前だったかな?」

「そうですね……八百年ほど前ですね」

「そのくらいの時代に似ているんです。だから、本当に異世界なのかって疑問だったけど……」

 少なくとも怨霊などという存在は歴史にはなかった。

「怨霊とかがあたしたちの世界にいたとは思えないから……」

「そうなんですか。僕たちの世界と似て、まったく異なる世界。異なる世界に来るつらさは僕には分からないかもしれませんが……八葉がそろえば、君を助ける力になれるのでしょうね。八葉の言葉の通り、この宝玉を身に受けた者は八人いるはずなんです」

「八人も?」

「うん、地の青龍、地の朱雀、天の白虎……あとは五人、いるよ」

 これには白龍が答えた。

「天……地? なんだって?」

「譲が乾の卦、天の白虎。弁慶が坤の卦、地の朱雀。九郎が震の卦、地の青龍」

「九郎も八葉の一人なんですか? ……これは……都合がいいかもしれない……」

「青龍、朱雀、白虎、玄武って、四神だよね? 伝説とかに出てくる……」

「のりえの世界にも四神という存在があるの?」

「実際にいたかどうか分からないけど、平安時代に、都である平安京を邪悪なものから守るものとして、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神をそれぞれ四方に配置したんだって」

「こちらの世界でも同じですよ。京の都を作った際に防備・繁栄のために龍神を喚んで、その配下である四神を四方に置いたんです」

「四神には天地。万物に陰陽があるのと同じ。力は二つに分かれ、安定するよ」

「四神が二人ずつに加護を与えているのね。だから、八人……二人一組で天、地と呼ばれている」

「もしかして、この世界では龍神とか神子とか、有名な話なんですか?」

「いえ、神子や八葉のことを知る者は限られています。この子も、伝承を伝える家の子供かもしれませんね。僕も昔、龍神について調べたことがあるんです。だから聞いたことがあるんですよ。八葉には、それぞれに特徴があるそうです。だから、卦を見れば役割も分かる。それで八葉を探すことができればいいんですが……」

「神子と八葉は引き合う。きっと、会えるよ」

 白龍が笑ってそう言ったとき、外が騒がしくなった。

「ああ、どうやら九郎が戻ってきたみたいですね。これなら、陽のあるうちに京に入れそうです」