転職千夜一夜物語 第64夜
昼飯はまたしても近所の中華食堂だ。
注文を聞かれると、先日の鶏肉と青梗菜の炒め物が気に入ったので迷わず定食を注文した。
本棚からスポーツ新聞と、もう何週も前の少年マガジンを抜き出してテーブルに戻る。
スポーツ新聞の一面とちょっとエッチな三面に目を通した。熟読してみたいのだが周りを気にしているので大きな見出しをサッと読むと折りたたみマガジンを読み始めた。
『あの頃、マンガ本読んだなぁ』
もう四年程前の高校生の頃を思い出した。
三年生になると私は
『今日は高崎でチューバのレッスンだから』
と授業を早退して高崎に電車で向かった。
駅から先生の自宅までソフトケースに入ったチューバを肩に担ぎ徒歩で向かった。
初めての日は、郊外にある先生宅がどれ程の距離か予測付かないのでタクシーで行ったのだが、歩けない距離ではないのを確認すると、タクシーを使うのは贅沢の極み、と判断し尚且つ自分を省みて徒歩にする事にしたのだ。
1時間程のレッスンを終えるとまた徒歩で駅に戻る。電車で自宅の最寄り駅まで1時間程あるの為、駅の売店で少年ジャンプを買っていた。ドクタースランプが大好きだったからだ。
定食が到着するとマガジンを本棚に戻し、食べ始めた。
数人の学生が店に入って来る。
男女混合チームの入店だ。
何気なく視線を彼らに向けると、その中の男子学生が高校時代のブラスバンドの後輩のトロンボーンの長井だった。
銀縁の眼鏡に細面の好青年の長井は爽やかな男子学生の見本の様だ。
「あっ阿部さんじゃないですか、お久しぶりです、どうしたんですか?こんなところで?」
※登場する人物を仮名で表記する事にします
一年後輩の長井は当時から成績は優秀で、現役で教育学部の音楽科に進んだ事は噂に聞いていた。
「いや~、音大落ちたもんだか、まだ浪人してるのさ、ココ受けるつもりで近くに引っ越して来たんだ、すぐそばだよ」
「元気そうですね、まだチューバ吹いているんでしょ?阿部さん、うちの大学のブラスに遊びに来て下さいよ、先輩の服部さんもいますよ」
服部さんは私の一年先輩で、彼も現役合格であるから四年生だ。
『たまには思う存分大きな音で吹いてみるか』
そんな思いに駆られる。
「遊びに行ってみるかな、何処らへんに行けばいいのかな?」
長井は店の女将さんにメモとペンを借りると部室の場所を地図にした。
流石に頭が良い人の字らしく『正門』や『入り口』、『部室』の角ばった表記の字がとても綺麗だった。
「何時くらいがいいのかな?」
「午後3時過ぎなら誰が居ますよ、服部さん部長だから話ししておきます、阿部さん来るって。誰でもその旨、言ってもらえれば大丈夫です、あっそうだ、阿部さん電話番号教えて下さい」
「電話無いんだよ、それにバイトしてるから時間が限られてる、近いうちに顔出すよ、服部さんによろしく伝えてくれよ」
「わかりました、待ってますよ、なんか楽しみですよ」
屈託の無い笑顔は高校時代と変わらない。
『こいつは、良い先生になりそうだな、スケベさが全く無い』
店を後にして帰宅すると、しばらくぶりにチューバのマウスピースを取り出した。
ひんやり冷たいマウスピースを手で温めロングトーンのバズィングをしてみる。
ブラスバンドの合奏が脳裏に蘇る。
が、ふと現実に引き戻される。
「洗濯途中だった」
高校時代の後輩、現役合格、大学では先輩、浪人生、夜のバイト、独り暮らし、洗濯。
頭の中で様々なシチュエーションがぐるぐるしてきた。
マウスピースをソフトケースに戻すと、
一瞬で夢見るチューバ吹きから、貧乏な浪人生に戻された様だった。