転職千夜一夜物語 60

(ムツゴロウ先生登場の巻)



イナゴの佃煮は私の田舎では『食料』であり、秋の風物詩の一つであり、田んぼでのイナゴ獲りは子供が憶える狩猟として最適なものだと思う。


直接は調理に携わった事はないのだが、獲ったイナゴは丸一日程、麻袋の中で放置し体内の糞を出さ、その後、茹でてから佃煮にしていた様に記憶している。上品な佃煮はイナゴの脚を外して煮るらしいが、私の田舎では全身丸ごとの佃煮だった。


店で使う佃煮も脚が付いていたので、親近感を憶える。熊、鹿、猪などの野性味溢れるメニューの中では、イナゴの佃煮は可愛らしいものだ。


お通しとしてのもう一種、からしナスだが、これも田舎の母が弁当のオカズに多用しており、懐かしく、辛子のツーンとした辛さと甘じょっぱいタレに漬け込まれた小茄子はお通しには適しているらしい。この頃はまだ酒を愉しむほどの経験が無いので、日本酒の旨さなどを実感する事は出来なかった。



今夜も静かに開店して、最初の客は7時半を過ぎた頃だった。


入って来たのは、あのムツゴロウ先生に似た初老のおじさんだった。ショルダーバッグとハットを席に置きカウンター中央辺りの席に付く。


「いらっしゃいませ、先生、何時ものでよろしいですか?」

マスターのこの一言で、まさしく『先生』だったのには驚いた。


「先生はワインだから」

とコルク抜きを渡されて急かされる。


シグロ、というワイン、麻布に包まれたボトルのコルクを見事なまでの不器用さで抜こうとしていると、マスターは手招きしボトルを渡した。


「あまり下手に抜こうとすればコルクのカスが入ってしまう」


ムツゴロウ先生はそんな光景を温かく見守りながら、両切りのピースに火を点けていた。


タバコを指で挟みながらワイングラスを持ち一口飲むと、

「これが目的で前橋に来ている様なものですね」


煙が目に染みるのか、目を瞬かせながら自嘲する様に笑った。

口元の銀歯が深い印象を与える。



続く