日本の世辞経済の現状(16-8)人口が減少している日本の成長政策
今年に入って発表された経済指標や国勢調査の結果および経済界の発言をピックアップしてみた。
GDP:2015年10-12月(第2次速報値)年率 マイナス1.1%(前期比)
2015年家計支出:2年連続減少。
2人以上の世帯の月平均支出 28万7373円
(前年比 マイナス 2.3%)
2016年1-3月企業景況感: 全産業マイナス3.2%、8四半期連続マイナス
(製造業マイナス7.9% 中小企業マイナス16.6%)
2015年12月機械受注: 前月比プラス4.2%
(製造業マイナス3.4%,マイナンバー関連プラス8.5% 一時的
増加)
人口減少: 2015年の国勢調査の結果5年間で94万7000人の人口が減少。
総人口が減少したのは調査が開始された1920年以来初めて
(戦争時を除く)。
なお、人口のピークは2009-2010年で1億2800万人。
2015年の総人口は1億2711万人
人口が増加したのは、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の
関東南地区、愛知県、滋賀県トヨタ地区、及び福岡県と
沖縄県の1都7県のみで大阪府,京都府、兵庫県など
近畿地区でも人口が減少。
人口の地域格差が国勢調査で明白となった。
自動車国内販売: 5年連続500万台割れ。500万台の壁は厳しく自動車
メーカーの前に立ちはだかっている。
カーシエアーや、都会の若者の自動車所有離れ
(安い駐車場確保難が原因か)。
物価動向: 日銀黒田総裁によれば「ほぼ横ばいで推移している。」
実質賃金: 2015年は前年比でマイナス0.9%。4年連続マイナス。
為替: 1ドル 111円50銭近辺。昨年6-7月は124円近辺
日経平均: 16700円、2014年11月の相場と同じ
このような状況下での経済界の発言。
経団連会長: 今年の賃上げは中国をはじめとする世界経済の先行き不安もあり慎重なものにならざるを得ない。
トヨタ自動車豊田社長:(経済環境の)潮目が変わった。
三越伊勢丹HD大西代表:中間層の価格帯が売れていない。
団塊の世代が占めていた中間層が現役卒業したのが
原因か。50歳以下の層との購買格差が大きい
のではないか。
(団塊の世代の現役時代と比較してという意味)
日銀による「異次元の金融緩和」政策が2013年4月に始まりちょうど3年が終了、4年目が始まるが金融緩和の目的であったデフレからの脱却どころか最近では安倍内閣の重要な政策であった消費税増の時期再先送りの観測さえ出てきている。金融緩和の効果が実体経済の成長に
までは及んでいないのである。政府は海外の経済学者などを招聘して国際経済について意見を求めているが、果たして有益なのだろうか。
国内にも優秀な学者や経済評論家がいるはずである。人口が減少していないアメリカの学者をわざわざ呼んで意見を聞く必要はない。「消費税は先送りすべし」などの意見は本田内閣官房参与など多数同様な意見がある。
日本の経済成長を語るには「人口減少の現実」を忘れてはいけない。古くて新しい問題である。アベノミクス戦略実行中に毎年人口が減少して来たのである。上に示したように2010年から5年間で94万7000人が減少している。わずか0.7%マイナスであるが、GDPの約60%が個人消費が占めており、単純計算でGDPに与えるマイナス効果は0.4%となる。人口減少は販売価格決定の過程において、消費者側の意向が販売者側の意向より強く働くきらいがある。富裕層がベンツに乗って100円ショップに買い物をする。
最近、軽井沢の別荘族がプリンスのアウトレットに行くようになった。よほど品物が悪ければ別だが、消費者は富裕層も低所得者も安いものを求めて追いかける。なかなか物価は上がらない。
人口が増えず、総需要が増えない上に、安いものを追いかける消費者の心理、行動がある現状で「2%達成のためにはマイナス金利でもなんでもやる」という日銀の考え方には疑問が残る。何でもやった後、例えば国債の増発で国民の借金が途方もなく増えてしまうなどの後遺症が残されては困る。日銀が債権放棄してくれれば別の話であるが、国民は泣き寝入りするしかない。日銀は物価目標2%に拘泥せずマイナスにならなければよいという程度で物価をウオッチしてくれればよい。
アメリカの人口は最近5年間で1200万人(3.8%)増加し3億2140万人。ドイツは8170万人でほぼ横ばい。イギリスは5年で270万人増え、総人口は6494万人。1970年当時の6000万人割れから回復した。それぞれの増加は移民によるものであるが、日本のように移民で人口増加を確保することにアレルギーがある国では移民を増やすという選択をすぐにはしないであろう。
人口がこれからも減少するであろうと予測される我が国において人口が増加しているアメリカなどの国と同じ「異次元の金融緩和」をして経済成長を狙うというのはいかがなものか。人口増加が望めないいま格差是正が成長のカギである。先刻問題提起された「保育園落ちた。日本死ね。」の声から想起される日本の将来は人口問題そのものである。金融政策だけでは日本はデフレから脱却できないことがすでに判明している。
国民総所得の配分調整により低所得階層の底上げと中間層の確立があって初めて経済成長が見込めるのである。
所得分配の是正をまず実行すれば人口減であっても消費が増え経済成長が後からついてくる。(了)
日本の政治経済の現状(16-7)日本に民主主義は根つくか(そのー2)
前回日本にアメリカ型の民主主義が果たして根つくのか?というブログを書いたところいろいろな意見をいただいた。その意見を集約して行くと、アメリカ型の民主主義が日本に根つくのは難しいのではないか、その理由は江戸時代の鎖国や農耕民族の社会構造、仏教などの影響で長い間に形成された日本人の特性にあるのではないかというものである。一般の日本人が政治などに普段からかかわらないのは次の3大特性に由来すると考えられるというものである。
■正解主義(自分の発言が正しいか否か自信がもてない。よく言えば生真面目)
■羞恥心 (人前で発言することが恥ずかしい。1とも関係している)
■周囲と同じでないと不安(異言を言ってのけ者にされたくない。よく言えば協調的)
なるほど、狩猟民族であれば、矢がいつも当たることはないし、とにかく自分が狙った獲物に矢を放たなければ獲物が得られない。農耕民族であればみんながやっているようにやっていれば、収穫のわけまえに預かれる。だから、かなりの不満があっても黙々と働いていればよい。そのような特性を持つ国民の中で、国を自分の手で支配したいという野心家が出てくれば、いとも簡単に支配しうるリスクがある。
つまり、日本人の特性=美徳といってもよい国民性を逆手にとって突出する政治家が出てくる。
正確でなくても、国民に耳さわりの良いことを言い放ち選挙に勝つ。
羞恥心などかなぐり捨てて、1を実行する。
「声なき声を聴く」などというが実際は国民の声などに耳を貸さない。
いま、国会はそのような政治家に牛耳られ始めている。安倍首相が狙う憲法改正は第9条の変更しかない。自民党の改憲案によれば第9条2項で自衛隊を防衛軍と読み替え、集団的自衛権を積極的に活用して海外の戦闘に参加できる文面に変えているのである。野党は憲法改正問題を複雑化するのはなく単純に「戦争はしてはならない」と国民に訴えるべきである。支持率が上がらないのは知性派にありがちな自説にこだわり過ぎる人たちがいるからである。
誰に聞いても個人的には「戦争はしてはいけない」「戦争は人を殺し、殺されるのでダメ」というが、集団の中での発言となると、黙ってしまう。「場合によっては仕方がない」などと自分の中で考えていることとは違う発言になる。はっきりと「戦争は何があってもしない」と単純に言えばよいのである。それが民主主義の根源である。
いま、何かキナ臭いと感じている国民が多くいると思われるが、思っているだけで大きな声になっていない。しかし、「保育園落ちた。日本死ね」で少し光明が見えてきた。若い母親があれだけの問題意識を持ち、それに呼応した一般の女性が一週間で2万7千人あまりの署名を集めたことだ。与党は、匿名であるから耳を貸さないと言った安倍首相はじめ、予算委委員会出席の与党からかなりのヤジが飛んだことに対する若い女性たちの怒りの声が上がったのだ。
真珠湾攻撃は当然ながら日米国民には知らされず始まった。戦争はいつでも国民に知らされず始まる。そのときはすでに時遅しである。戦後70年、戦争の本当の悲惨さを記憶している人はほとんどいない。戦争の記憶は日々遠くなり、戦争の足音が日々近く聞こえてきていると言ったら言い過ぎであろうか。
声なき声の民主主義が少しでも変わって、声ある声の民主主義に選挙の時でもよいから変わってほしいものである。(了)
日本の政治経済情勢(16-6)戦後70年民主主義は日本に根付いたか?
アメリカでは建国240年目第45代大統領を選出する予備選があり、3月1日のSuper Tuesdayでどの候補がトップに立つか全米国民の関心が高まっている。日本でもCNNの生放送が見られるので時間が許す限りテレビ観戦(?)をしているが、関心は誰が勝つかよりはこの予備選のプロセスと各候補が選挙民との直接対話を通して候補者の信念や政策のみならずその人格迄もが赤裸々にされてゆく過程が面白い。何しろこの予備選は準備期間も含めて1年以上かかるのだから見せかけの演説でごまかそうとしても意識の高い選挙民の目はごまかせない。CNNを見られる人は英語が必ずしとも不得手でも英語のまま聞いてほしい。各候補者は自分が主張する政策を選挙民に理解してもらうためゆっくりとやさしい英語で話す故、これから参政権を得る高校生など本場の民主主義を知りかつ英語を勉強したい人にも最適の学習場でもある。
ところで、大統領予備選の追っかけをやっているうちに、ふと思いついたことがある。何故,United States of America を アメリカ合衆国と明治の人は訳したのか、という素朴な疑問である。この定訳を知らなかった人が、アメリカ「合州国」と翻訳したとしても間違いだと指摘することはできない。Statesは州でしょう?なんで衆なの?そこで、和英辞典で「衆」は英語ではどうなのか牽いてみた。
「衆」:great numbers, numerical superiority, the multitudes, the populace ,the mass 等であった。多数決の原理を示す言葉である。
「衆」ならばPeopleではないかと思っていたので、少し予想が外れた。そこで、Peopleの日本語訳はどうなるか英和辞典で牽いてみた。
「People」:複数扱い、庶民、人民,下層階級、(君主に対して)臣民、家来、部下、(牧師に対して)教区民(文化的・社会的にみた人々の一集団として)
国民、民族、種族である。
なるほどPeopleは本来、複数扱いで名もなき被支配層を指す意味であったのか。確かにイギリスの映画でも王や貴族がpeopleと言うとき蔑みのニュアンスで表現するのを見たことがある。しかし、特に被支配階級が王、貴族や宗教の圧政を逃れてアメリカに新天地に逃れたのち、イギリスからの独立を勝ち取った「people」は現代の国民や多数の人たちと言うような意味合いに変貌を遂げたのであろう。
Peopleと言えば、かの第16代米国大統領リンカーンによる南北戦争激戦地Gettysburgでの演説を直ぐに思い起こす。
1863年11月19日、独立宣言からすでに87年が経過していたがいまだ南北の対立がくすぶっていたときである。有名な演説の最後の下りにpeopleがこれでもかと繰り返し使われている。
Government of the people ,by the people, for the people である。
リンカーン大統領はpeopleがもはや被支配層ではなく皆が平等であって、皆が国のあり方に参加できるのだ。とそれこそ「民衆」に訴えたのである。
Peopleがまさに被支配層であった庶民、人民から国家を構成する「主」になったのだと訴えたのである。アメリカ型民主主義の始まりともいえよう。
1863年の日本は明治維新まであと5年という幕末の混乱期にあった。一方、アメリカでは民主主義が醸成しつつ時代にあったと言える。
1946年占領軍司令長官マッカーサーは日本の新憲法の前文にGettysburg Addressを引用している。
Government is a sacred trust of the People, the authority for which is derived from the People, the powers of which are exercised by the representatives of the People and the benefits of which are enjoyed by the People.
憲法前文での翻訳にはさすがにpeopleは「人民」ではなく「国民」と訳されている.前文の翻訳は下記となっている。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
この日本語訳はリンカーンやマッカーサーが思い描いた民主主義を表現するには少しおかしい翻訳である。直訳よりも民主主義本来の意味を現す意訳であった方が良かったのではないかと思う。
本題を元に戻そう。明治時代の人がUnited Statesを合州国ではなく合衆国と訳したことに疑問を持ち、衆と訳した彼らの民主主義に対する深い理解力に気づいた。
明治時代Gettysburg Addressはすでに知識人の間では当然知られていたのであろうし、Peopleが1863年のアメリカでどのようなニュアンスで受け止められていたか。Peopleの意味合いが変化しつつあったアメリカの状況を知り、States は単純に訳せば州であるがその州を構成するのが「衆」であると考えたのに違いない。つまりアメリカを構成する主体は民衆であると。IT時代の今、こんな翻訳はできない。すごいと思わないか。
建国240年アメリカでは民主党候補バーニーサンダースが指摘するように民主主義の本質が崩れ1%の10分の1の人たちが政治や経済を牛耳るアメリカになっている。つまりPeopleが元の意味の被支配層になり下がったともいえる。しかし今回の大統領選挙は面白い。Establishmentはもはやいらないという選挙民の声が高まっている。共和党のBush候補が早々と選挙戦から脱落したのは、そのような選挙民の意向が反映したものである。
日本では今年7月に参議院選挙があるが、例によって国民との具体的な政策対話もなく、選挙運動期間の2-3週間の間,街宣車に乗りひたすら「xxx党のxxxです。よろしくお願いします」とか「只今最後のお願いに参っております。大変苦戦しております。お助けください」とかがなりたてて全く政策論議が無い選挙戦である。選挙民も自分が政治の主であることを忘れてテレビに出ているからとか日頃世話になっているからとの理由だけで投票をする。あるいは自分が主であることを忘れて「自分の一票などで政治が変わるものじゃない」と棄権してしまう国民が蔓延している。
戦後、新制中学校で背広が買えず、軍服を縫いなおした服を着た元日本兵が教壇から「自由、平等、人権」などを熱く語りかけていた時代とはかけ離れた日本の状況を今見ている。
はたして、民主主義は日本に根付いたか。今の政治の現状をみると否である。2世3世が当然のように選挙で選ばれる。その人個人の政治家としての適性や能力は関係が無い。Establishment(既成勢力)が長く権力の座に着くとロクなことはない。崇高なEstablishmentはNoblesse- obligeをかつては守っていが今彼らは世界中どこでも金や権力に執着するばかりである。
参議院選挙を迎えてアメリカ大統領予備選におけるデイベートをみてもう一度日本の民主主義を考え見直す機会にしたい。
(了)