リオ・オリンピックから、国旗掲揚の時の「君が代」の演奏音源が変わったそうです。


そのテンポがえらく遅いのです。


一曲が何秒から何秒の間という、IOCの指示らしいのです。


内村航平選手などは、「歌いにくい」と言っていました。


東京五輪でも、この音源を使うと、JOCは言っているそうですが、私は、歌いやすい店舗にしてほしいと思います。

今日は、徳島市立高校合唱部を訪れてみました。


新校舎になって、新しい音楽室で私が振るのは、初めてです。


本番は15人出るそうですが、ほとんどのメンバーがオーケストラ部からの助っ人で、オーケストラの練習もしながらですから、大変です。


発声の初歩から教えなければいけないので、なかなかです。


お盆休みなどを考えると、もう日がないというのが実情です。

平成10年12月30日から翌1月2日にかけて、徳島市立高校オーケストラ部は、恒例の全国高校サッカー選手権応援に、東京へ行きました。


このときは、1回戦で岐阜工業に3対1で敗れました。


1月1日は、終日ディズニーランドで遊ぶというツアーでした。


この時私は、帰りの集合時間に大遅刻してしまいました。


実は、ディズニーランドには何度も来ている私は、抜け出して神奈川の友人宅に遊びに行っていたのです。


そこで酒を思いっきり飲みまくり、記憶をなくしていました。


どこをどう通ったのか、気が付いたのは新木場近くの京葉線の電車内でした。


そのときすでに遅刻でした。


新年早々待たせてしまった皆さん、ごめんなさい。

平成10年12月7日月曜日、期末考査中だった私は、2時過ぎに学校を出て、恩師川人昭夫先生が入院している徳島大学病院に向かいました。


病室前についた途端、ストレッチャーと泣き崩れる家族に出会いました。


「たった今、亡くなった」


それから、あちこちに連絡を取りました。


その日の晩は、弟さんの指揮で、愛息大地君がオーボエを吹く、室内楽の演奏会が郷土文化会館でありました。


父や兄が亡くなっても、演奏する姿に、感慨をおぼえました。



翌12月8日はご自宅で通夜でした。


私たち男弟子は、駐車場の案内に立ちました。


それはそれは寒い寒い夜でした。


あんなに寒い日は、その後一度も経験していません。


それでも外で耐えられたのは、やはり恩師への熱い思いがあったからでしょう。


東京フィルフルート奏者のお兄さんが、第15回徳島市立高校定期演奏会のチャイコフスキー交響曲第5番のテープを聴きながら、

「とても高校生の演奏とは思えない」とほめていました。



そして12月9日、告別式の日は、朝から快晴でした。


式場は、県内外から教育界、音楽界、教え子たちなど1000人を超える人たちで埋まりました。


出棺時には、川人先生作曲の「市高賛歌」の生演奏で送り出しました。


皆が声をあげて泣きました。



命日12月7日近くには、今でも毎年、教え子が川人家に集まって、先生をしのんでいます。

平成10年11月28日、徳島市立高校オーケストラ部は、第18回近畿高校総合文化祭に出場するため、大阪に向かって出発しました。


この日の午後は、大阪市中心部で半日自由行動でした。


宿泊は、堺市でした。


翌11月29日、器楽・管弦楽部門の開かれる、大阪府立夕陽ヶ丘高校ヴィオーラホールへ向かいました。


ところが、宿舎に予備のヴァイオリンを忘れてきたことに気付き、演奏の間に東急観光八尾さんが電車を乗り継ぎ、わざわざ取りに行ってくれました。


演奏のほうは事なきを得、ワーグナー作曲「ローエングリンより第3幕への前奏曲」と、チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形よりパ・ド・ドゥ」を見事に演奏しました。


総合閉会式では、次期開催県を代表して、白川部長があいさつをしました。