徳島市立高校の校誌を「葦芽」と書いて「あしかび」といいます。


創立当初の学校は葦原の中にあり、葦の芽のことを「あしかび」と言ったのです。


昭和62年3月10日に発行された「葦芽25号」の、「同窓」というページは、1ページを割いて合唱部OBの佐野靖氏を取りあげています。


佐野さんは私の2つ上、現在は東京芸術大学教授ですが、当時は東京学芸大学助手でした。


このページには、自分の人生を変えた川人昭夫先生への熱い思いがあふれています。



その年度、市高に赴任した国語の太田雅彦先生は佐野さんの同級生、合唱部OBです。


また、この「葦芽25号」の特集記事、「もし市高に銅像を建てるとしたら」というアンケートで、ある1年生女子の答えとして、「市高賛歌を作った川人先生」というのがありました。

昭和60年4月、私は三好農林高校から鳴門高校に転任になりました。


その年8月29日、初めて自分が指揮してNHKコンクールに出ましたが、惜しくも優秀校、ずいぶん悔しい思いをしたことを憶えています。


この年の8月18日の第3回市高OB合唱団定期演奏会をもって、OB合唱団の定演が終了することになります。


私が、自分の学校に忙しくなったのです。



翌昭和61年からは、市高OB合唱団は「ねぎぼうず」と名乗って、合唱祭に出ることになります。


そしてその61年8月22日のNHKコンクールでは、わが鳴門高校と徳島市立高校はともに最優秀校に選ばれました。


私はとてもうれしくて、マクドナルドでの市高の反省会におそるおそる顔を出しました。


大歓迎を受けました。

昭和58年から始まった市高OB合唱団定期演奏会は、3年続きました。


そもそもは、現役合唱部に、NHKコンクール前に文化センターで歌う経験をさせてあげたい、というものでした。


それが功を奏し、3年間はずっと市高はNHKコンクールで最優秀校でした。


OBの定演のほうも、楽しく充実したステージを続けることができました。



昭和63年8月に浅井敬壱氏は、「OB合唱団は酒の勢いでできる」「3年でつぶれる」と語りました。


そのとおりでした。


市高OBの場合は、その後「合唱団ねぎぼうず」と命名し、合唱祭参加へと続いていきます。


また、現役の黄金時代もずっと続いていくことになります。

昭和56年11月22日、徳島県高等学校文化連盟が発足しました。


私は就職1年目、三好農林に勤めていました。


川人先生は、音楽部門総括になりました。


それまで「高校芸術祭」と言っていたものは、「高文祭」と呼ぶようになりました。


文化センターでの発会式では、「海鳥の詩」を合同合唱しました。

以前にTBSの夜のニュース番組で、筑紫哲也さんとともにキャスターをしていた浜尾朱美さんは、市高合唱部で私の2つ後輩です。


その浜尾さんは、昭和58年に女優としてTBSの朝ドラ「おゆう」の主役としてデビューしました。


ところが何と、裏番組はNHKのあの「おしん」でした。


相手が悪かったですね。