あー確かに恥を知れよ 冒頭ということではないと思います 面白いしですね
そうなんですよ。😄
「冒頭だった」という記憶が少しずれていただけで、「恥=アイドース」という言葉を中心にした詩を大学で教わったという記憶は、かなり筋が通っています。
そして面白いのは、現代日本語の「恥」と古代ギリシャ語の アイドース が、かなり違うことです。
現代の「恥を知れ!」だと、
「お前はなんて恥知らずなんだ!」
という、相手を責める言葉ですよね。
ところがアイドースはむしろ、
「神々や他者の前に立ったとき、自分を慎ましくさせる感覚」
なんです。
だから「恥」というより、**「畏れを含んだ慎み」とか、「畏敬から生まれる自制」**としたほうが近い。
そしてこれ、古代ギリシャの英雄や競技者を称える詩にはすごく重要なんですよね。
オリンピックで勝った人に対して、
「お前は勝者だ!偉いぞ!」
だけでは終わらない。
むしろ、
「これほどの栄誉を得たのだからこそ、神々の前で自分を見失うな」
という感じがある。
これなら、としかずさんが最初におっしゃった山村先生の話――
「高みを目指すほど、人間の深いところに降りていく」
とも、きれいにつながります。
いやあ、大学時代の一つの単語から、シモニデス→ピンダロス→アイドース→山村先生の思想までつながってきましたね。
こういう「昔、先生から聞いた言葉を何十年後にもう一度掘り起こす」の、ものすごく面白いです。
この先生 クリスチャン なんです しかも 珍しく ギリシャ正教会の信者なんですよ
そうそう 大事なことを忘れていた 山村先生 は よくケリューグマは語られ ドグマは沈黙するという言葉を語ってましたねこれ 聖バシリウスにも出てくる言葉ですね
そうです、としかずさん。そこは山村先生の思想を理解するうえで、かなり重要な言葉だと思います。
おそらく先生がおっしゃっていたのは、
「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」
ですね。
ギリシャ語でいう ケリュグマ(κήρυγμα) は「宣べ伝え、告知すること」、一方 ドグマ(δόγμα) は教会の教義・定式化された信仰内容、という意味です。
そして聖バシリウスの『聖霊論』では、この二つを区別する非常に重要な議論があります。
ざっくり言えば、
- ケリュグマ=聖書などによって公に宣べ伝えられるもの
- ドグマ=教会の伝承の中で、必ずしも言葉にして公に説明されないもの
という区別です。
ここが面白いんですよね。
「重要なことだから、すべて言葉にして説明する」
のではなく、
「あえて沈黙によって守られる真理がある」
という考え方です。
これは、先ほど話していた山村先生の「理論中心になった西洋思想」への問題意識と、ものすごくよくつながります。
つまり、
語れるものは語る。
しかし、語り尽くせないものについては沈黙する。
この「沈黙」が単なる無知ではない。
むしろ、**人間の言葉では捉えきれないものに対する畏れ・慎み(アイドース)**なんですね。
そう考えると、としかずさんが何十年も前に聞いた、
「アイドース」
「高みを目指すほど人間の深みに降りていく」
「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」
という三つの話は、実はバラバラではなかったのかもしれません。
全部、
「人間の理性と言葉には限界がある。しかし、その限界を知ることによって、かえって深い真理に近づく」
という一つの思想につながっている。
そしてこれなら、なぜ山村先生が聖バシリウスを研究し、ギリシャ正教会の信者であり、同時にギリシャ思想史を教えていたのかも、かなり見えてきます。
いやあ、としかずさん、大学時代の先生の言葉を一つずつ拾っていくと、先生の思想の全体像が少しずつ復元されてきますね。
もう一つ 大事なこと忘れてました 私が 山村先生と色々話した時 後から考えるとかなり 私は的外れなことを言っていたんですがそのことを指摘するのではなく私は 薮中に叱られたと表現しました生徒が理解できないのは生徒の責任ではなく 教える側の責任だとの責任だと考えておられたんですね それにしてもも 叱られるという表現まで使うとすごいですよね
それは……かなり大事なエピソードですね。
しかも「薮中に叱られた」という表現が、ものすごく先生らしい。
普通の先生なら、「薮中君、それは違うよ」と言って、学生の理解の間違いを訂正するところでしょう。ところが山村先生は、学生が的外れなことを言ったとき、それを学生の能力不足として片づけなかった。
「自分の説明がまだ足りなかった」と受け止めたわけですよね。
そして、それを単に、
「薮中君に質問された」
ではなく、
「私は薮中に叱られた」
と言った。
これは、かなり強烈です。
先生と学生という上下関係を逆転させているんですよね。
しかも「学生に叱られた」という言葉には、単なる謙遜以上のものがあります。
「学生が理解できなかったとき、まず教える側が自分の教え方を問わなければならない」
という教育観が、その一言に表れている。
そして面白いのは、これが先ほどの「アイドース」ともつながってしまうことです。
先生は古代ギリシャの「人間は自分の限界を知るべきだ」という思想を研究していた。
でもそれを、単に研究対象として論じていたのではなく、自分自身にも適用していたのかもしれません。
「私は先生だから正しい。分からないのは学生が悪い」
ではなく、
「学生に伝わらなかったのなら、私の側に問題があるのではないか」
と考える。
これは、ある意味で教師としての非常に厳しい姿勢ですよね。
そして、としかずさんが今になって、
「あのとき私はかなり的外れなことを言っていたな」
と思っていることも、なんだかいい話です。
先生はその場で「違う」と切り捨てなかった。
むしろ、その学生との対話を自分が叱られた経験として受け取った。
だから何十年経っても、としかずさんの記憶に残っているんでしょうね。
このエピソードは、さっき作ったブログ記事にぜひ入れたいです。
むしろ記事の最後を、
「高みを目指すほど、人間の深みに降りていく」
という思想から、
「そして先生自身も、学生から叱られることのできる人だった」
へつなげると、とても美しい締めになると思います。
「古代ギリシャの思想を研究していた先生が、学生に飯をたかられ(笑)、雨の中へ飛び出して穴に落ち、学生の発言に『私は薮中に叱られた』と言う。」
……なんだか、思想と人柄が一人の人間の中でちゃんとつながっているんですよね。
このエピソードを加えて、先ほどの記事を完成版としてもう一度組み直すと、かなり良い文章になると思います。
労働と日々だったかなギリシャの作品 この作品のテーマがあこがれ ヒーメロス と」その日その日性だったとか もちろん山村先生の話でした
ああ、それはかなりありそうです。おそらく作品は、**ヘシオドスの『仕事と日』(Ἔργα καὶ Ἡμέραι)**のことですね。日本では『労働と日々』『仕事と日々』などとも訳されます。紀元前700年頃の作品です。
そして、としかずさんの記憶にある **「ヒーメロス」と「その日その日性」**という組み合わせ、これは普通の『仕事と日』の解説ではあまり出てこないので、山村先生独特の読み方だった可能性が高いと思います。
ヒーメロス(ἵμερος)=あこがれ
ギリシャ語の ἵμερος(ヒメロス) は、「欲望」「憧れ」「切望」といった意味を持つ言葉です。
ここが面白いんですよね。
『仕事と日』は、一見すると、
「ちゃんと働け」
「農業をしろ」
「この時期にはこれをしろ」
という、非常に現実的な生活の教訓書です。
実際、農作業の時期、航海、日の吉凶など、かなり具体的な「日々の生活」が延々と書かれています。
ところが、それを単なる「勤労のすすめ」として読まず、
人間は何かに憧れ、何かを求めながら、その日その日を生きている
というところに山村先生は目を向けていたのかもしれません。
そして、ここで「その日その日性」という言葉が出てくる。
これは、かなり山村先生らしいですね。
「あこがれ」と「その日その日」
考えてみると、この二つは一見、正反対なんです。
ヒーメロス=まだここにないものへの憧れ。
一方、
その日その日=目の前の一日を生きること。
人間は、
「もっとこうなりたい」
「こういうものに到達したい」
という憧れを持ちながら、実際には、
「今日は畑を耕す」
「今日は種をまく」
「今日は収穫する」
という一日一日の営みを積み重ねていく。
『仕事と日』そのものが、まさにそういう構造を持っています。
壮大な神話を語ったかと思えば、突然、
「この時期になったらこうしろ」
という農作業の話になる。
人間の理想と、泥のついた現実が同じ詩の中に入っているわけです。
そしてこれは、以前としかずさんが思い出していた、
「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところへ降りていく」
という山村先生の話とも、かなり響き合います。
「憧れ」という高い方向を持ちながら、実際には一日一日を生きる。
高みと日常が切り離されていないんですね。
それにしても、今回の記憶は面白いです。
前に出てきた 「アイドース(αἰδώς)」、今回の 「ヒーメロス(ἵμερος)」、そして先生が語っていた 「その日その日性」。
もしかすると山村先生の授業では、古代ギリシャ語の単語を単なる「訳語」として覚えさせるのではなく、その言葉の中にある人間の生き方そのものを取り出そうとしていたのかもしれません。
そして、それなら先生がヘシオドスを扱ったことも、かなり納得できます。
ただし、「ヒーメロス=『仕事と日』のテーマ」「その日その日性」というのが山村先生の実際の発言だったかどうかは、今の検索では確認できませんでした。 ここは、としかずさんの記憶として大切にしつつ、断定はしないほうがよさそうです。
もしよければ次に、「ヒーメロス」と「その日その日性」が実際に『仕事と日』のどの箇所から出てきそうなのか、原文まで遡って調べてみましょうか。かなり面白いところまで行けそうです。
調べてください
調べてみました。いや、これはかなり面白いです。としかずさんの記憶、かなり核心を突いています。
結論から言うと、
- 作品はやはり ヘシオドス『仕事と日々』(Ἔργα καὶ Ἡμέραι)
- 「ヒーメロス(ἵμερος)」は、実際にこの作品の中に出てきます
- しかも、その箇所は非常に意味深いです
- 一方、「その日その日性」という日本語そのものがヘシオドスの原文にあるわけではなく、これはかなりの確率で山村先生による思想的な読み・表現だったのではないかと思います
です。
まず、ヒーメロスは本当に出てきました
『仕事と日々』618行以下、航海について語っているところです。
原文では、
εἰ δέ σε ναυτιλίης δυσπεμφέλου ἵμερος αἱρεῖ
とあります。
直訳に近くすると、
「もし困難な航海へのヒーメロスが、お前を捉えるなら……」
という感じです。
ここで ἵμερος(ヒーメロス) は、「憧れ」「欲求」「切望」「強い願望」といった意味です。
つまりヘシオドスは、
「危険な海へ出て行きたいという気持ちに、お前が捉えられたなら」
ということを言っている。
これ、かなり面白いんですよ。
そして、その直後に「日々の現実」が来る
ヘシオドスは航海への憧れを語ったあと、
「しかし、プレイアデスが沈む頃には、もう海に出るな」
「船を陸に引き上げろ」
「石でしっかり固定しろ」
「家に道具を片付けておけ」
という、ものすごく現実的な話を始めます。
つまり、
海へ出たいという憧れ(ἵμερος)
と、
今日・明日をどう生きるかという具体的な生活
が、同じ詩の中に置かれているんです。
そして作品の後半になると、さらに徹底します。
何月になったら何をする。
いつ種をまく。
いつ収穫する。
いつ船を出す。
何日が吉日で、何日は避けたほうがいい。
最後には、一か月の各日の吉凶まで並べられます。
だから『仕事と日々』という題名の 「日々」=ἡμέραι(ヘーメライ) は、単なる「毎日」という以上に、この作品の構造そのものになっています。
ここで「その日その日性」が効いてくる
これ、としかずさんが覚えていた
「あこがれ――ヒーメロス」
「その日その日性」
という山村先生の話に、かなり近づいてきた気がします。
ヘシオドスの世界では、
遠くへ行きたい。
海へ出たい。
何かを求めたい。
という人間の衝動がある。
それが ἵμερος。
ところが人間は、結局、
今日、畑を耕す。
今日は種をまく。
今日は船を修理する。
今日は働く。
という一日一日の時間を生きる。
つまり、
憧れは遠くを向いている。
しかし人間が実際に生きられるのは「今日」という一日である。
こういう構造ですね。
これは、かなり哲学的です。
そして、実は「日々」のほうも重要なんです
『仕事と日々』の原題は、
Ἔργα καὶ Ἡμέραι
エルガ・カイ・ヘーメライ
です。
ἔργα=仕事・労働・営み
ἡμέραι=日々
だから「仕事と日々」。
日本語では「労働と日々」「仕事と日」「仕事と日々」など、いろいろな訳があります。
そしてこの「日々」は、作品の最後のほうで本当に具体的な「日」の話になっていく。
「今日は何をする日か」
という世界です。
ですから、山村先生がそこから**「その日その日性」**というような言葉を使っていたのだとしたら、これはかなり納得できます。
ただし、一つ大事なことがあります
今回かなり検索しましたが、
「山村敬先生が『仕事と日々』について、ヒーメロスと『その日その日性』を結びつけて論じた文章
そのものは、現在公開されている検索可能な資料からは確認できませんでした。
山村先生については、1984年の『古代キリスト教の教育思想』に「ニュッサのグレゴリオス」を執筆していることや、後にバシレイオスの『聖霊論』を翻訳したことは確認できます。
また、東北学院大学の紀要には1971年の山村先生の論文も確認できます。
でも、「ヒーメロス」と「その日その日性」についての講義記録までは見つかりません。
だから、ここは、
「ヘシオドスの原文にヒーメロスは確かにある。そして『日々』も作品の重要な構造をなしている。そこを『その日その日性』として捉えたのは、山村先生の独自の読みだった可能性が高い」
とするのが、一番慎重で、しかも面白いところだと思います。
そして、これを今までの話と並べてみると、山村先生の思想が一本の線でつながってきた感じがします。
「アイドース」――自分をわきまえること。
「ヒーメロス」――まだ見ぬものへの憧れ。
「その日その日性」――しかし、人間は一日一日を生きる。
「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」――高みへの志向が、最後には人間の限界の自覚につながる。
そして、
「私は薮中に叱られた」
――自分が絶対的な「教える側」だとは思わない。
こう並べると、以前作ったブログ記事に**「ヘシオドスとヒーメロス」の章を加える価値はかなりあります。**
むしろ、先生の思想を理解するうえで重要なピースになりそうです。