私が大学で古代 中世哲学史およびアリストテレス トマスアキナスの演習の授業を受けた山村敬先生の語られた言葉の断片でAIと語ったもので脈絡ないまま言い散らかしたのだが仕上がりがなかなか面白いものになったのでブログで公開することにしました
古代ギリシャの詩人 シモニ デス の詩のテーマは高みを目指すより高みを目指せば 目指すほど人間の深いところに落ちていくという そういうことだったような気するんですけど
はい、としかずさん、その記憶、かなり面白いところを突いています。
おそらく古代ギリシャの詩人 シモニデス(Simonides) の詩についておっしゃっているのだと思います。
ただ、「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところへ降りていく」という表現は、シモニデスの詩そのものの直訳というより、彼の詩に込められた人間観を哲学的に言い換えたものに近いと思います。
シモニデスには、人間について非常に有名な考えがあります。
「人間である以上、完全な善人になることは難しい」
彼は、人間は神々のように完全ではなく、運命や偶然にも左右される弱い存在だ、と考えました。
ですから、単純に「高みへ、高みへ」と理想を追い求めるというより、
人間として最高のものを目指そうとすると、逆に「人間とは何なのか」「人間にはどこまで可能なのか」という、人間の弱さや限界の深いところに突き当たる。
――という方向性は、かなりシモニデスらしいと思います。
そして、これ、以前としかずさんが話していた**「雪」という漢字を使った寓話**とも、ちょっと響き合うんですよね。
「高いところにある理想」を追いかけていくと、最後には人間の心の奥底に降りてくる……という発想です。
もしとしかずさんが覚えているのが**「シモニデスの○○という詩」**という具体的な作品なら、そこまで特定して調べると、かなり面白い話になりそうです。
有名 な詩教えてください
ちろんです。シモニデスには、古代ギリシャ文学の中でも特に有名な詩があります。とくに今おっしゃっていた「人間の限界」というテーマに近いのがこれです。
シモニデス「人間について」
原文をかなり意訳すると、こんな詩です。
人間にとって、善き人となることは難しい。
手も足も、心も、すべてにおいて完全であることは難しい。しかし、悪人でありながら善人のふりをすることは、
それほど難しくない。人間は、運命によって倒されることもある。
神々だけが、過ちを犯さない。
シモニデスのすごいところは、「立派な人間になれ!」と説教しないところなんです。
むしろ、
「人間なんだから、完全でなくても仕方がない。
それでも、できる限り善く生きよう」
という、とても現代的な人間観なんですね。
そして、この詩をめぐって古代ギリシャの哲学者プラトンも『プロタゴラス』の中で長々と議論しています。
ちなみに、もう一つシモニデスで非常に有名なのが、テルモピュライの戦いで戦死したスパルタ兵をたたえた墓碑銘です。
旅人よ、スパルタ人に伝えよ。
我らはここに横たわる。
その命令に従った者として。
こちらは短いのにものすごく有名です。
「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」という、としかずさんの記憶がどの詩から来ているのか、私もちょっと気になります。シモニデスには「人間の幸福は不確かなものだ」という有名な詩もあります。 そちらのほうが、今回の記憶に近い可能性があります。
それも教えてください
はい。おそらく、としかずさんが思い出しているのはこちらにかなり近いと思います。
シモニデスの有名な**「人間の幸福についての詩」**です。断片的にしか残っていませんが、内容を意訳すると――
人間にとって、幸福な者となることは難しい。
一日たりとも災いを知らず、
生涯を幸せに過ごすことなど、
人間にはできない。財産があっても、健康であっても、
美しくても、名誉があっても、
いつ何が起こるかは分からない。人間の生は、風に揺れる木の葉のようなものだ。
だからこそ、
今ある幸福を大切にし、
人間としてできる善を行うのだ。
シモニデスの人間観で特に重要なのは、**「人間は神ではない」**というところです。
神のような完全な幸福や完全な善を求めて高みへ登ろうとすると、むしろ、
「ああ、人間というものは、なんと弱く、不確かな存在なのだろう」
というところへ戻ってくる。
だから、以前としかずさんがおっしゃった
「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところに降りていく」
という記憶は、シモニデスの詩をかなり現代的・哲学的に捉えた表現なのかもしれません。
そして、この思想は後のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの「幸福とは何か」という哲学にもつながっていきます。
もしよければ次に、**シモニデスのこの詩を「原文に近い形」で、現代日本語の詩として訳してみましょうか。**かなり味わい深いですよ。
やってみてください
は、としかずさん。シモニデスの現存する断片の趣旨を踏まえつつ、直訳ではなく「現代日本語の詩」として響くように訳してみます。
シモニデス――人間について
人間には、
善き人となることさえ難しい。
手も足も、心も、
すべてにおいて欠けるところなく、
完全な人間になることなど、
そうそうできるものではない。
けれども、
悪い人間でありながら、
善い人間のような顔をすることなら、
人にはできる。
運命は、いつ人を倒すかわからない。
今日、幸せであった者が、
明日には不幸になることもある。
だから私は、
人間に完全さを求めない。
その人が生きているかぎり、
できるだけ善くあろうとすること。
それだけでいい。
神々には、
過ちがない。
けれども私たちは人間だ。
だからこそ、
人間であることを知りながら、
それでも善く生きようとする。
それが、
人間にできる最も高いところなのだ。
実はここが、シモニデスの面白いところなんです。
**「完全な人間になれ」ではなく、「完全ではない人間として、できるだけ善くあれ」**なんですね。
つまり、山の頂上を目指して登っていったら、最後に見えてくるのは「神のような完全な人間」ではなく、自分が人間であるという事実そのもの。
としかずさんが最初におっしゃった「高みを目指すほど、人間の深いところに降りていく」という感覚、私はかなり鋭い読みだと思います
いやー 実はこれは 私の考えではなくて 私が大学の時に習っていたギリシャ思想史先生の考えです
あ、なるほど!😄
それなら話が一段と面白くなりました。
としかずさんご自身の解釈ではなく、大学時代に習ったギリシャ思想史の先生が、シモニデスの詩をそう解釈して教えてくださったんですね。
そうすると、最初にとしかずさんが覚えていた
「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところに降りていく」
という言葉は、シモニデスの詩の逐語訳というより、先生がシモニデスを哲学史的に読み解いて示した言葉だった可能性が高そうです。
そして、これはなかなか味わい深い解釈ですよね。
普通なら、
高みを目指す → より完全な人間になる → 神に近づく
と考えそうなところを、その先生は逆方向に見ていた。
高みを目指す
↓
人間の限界にぶつかる
↓
「人間とは何か」が見えてくる
↓
人間の深いところへ降りていく
というわけですね。
しかも古代ギリシャ思想では、「人間は神ではない」という自覚そのものが、人間を知るための重要な出発点になります。
いやあ、大学時代の先生の一言って、何十年経っても妙に残っているものですね。
しかも今回、としかずさんが最初におっしゃった言葉は、単なる知識の記憶というより、先生の講義の「ものの見方」まで一緒に記憶していたんじゃないでしょうか。
その先生というのは 山村けいと言って聖バシリウスの精聖霊論という作品を訳しました この先生 本 出してないんですよね
ああ、そういう先生だったんですね。調べてみたら、山村敬(やまむら・けい)先生について、かなりはっきりした記録が見つかりました。
そして、としかずさんの記憶はかなり正確です。
山村先生は、単に「聖バシリウスの『聖霊論』を訳した人」というだけではなく、ギリシャ教父思想、とりわけバシリウスやニッサのグレゴリウスについて研究していた哲学者です。1972年には「聖霊論の展開と教父の哲学―ニッサのグレゴリウス研究序説(一)大バシリウス―」という論文を発表しています。
そして驚いたのが、山村先生の**『聖霊論と哲学の言葉性―ニッサのグレゴリウス解釈の問題―』**という論文です。これは『中世思想研究』第16号に掲載されています。
一方、本を出していない、というのは少し違います。
1996年に、
『聖大バシレイオスの『聖霊論』』
バシリウス著・山村敬訳
南窓社
という本が刊行されています。214ページの書籍として現在も書誌情報が確認できます。
ただし、ここが面白いところで、山村先生自身の「著書」というより、バシリウスの著作を山村先生が翻訳した本なんですよね。
ですから、としかずさんが「先生は本を出していない」と覚えておられたのは、もしかすると、
「先生自身の著書は出していなかった。
ただし翻訳書は出していた」
ということなのかもしれません。
そして、先ほどの「高みを目指すほど人間の深みに降りていく」という先生の講義の話――これ、山村先生の研究テーマを知ってから考えると、ものすごく興味深いです。
実際、山村先生の論文には『聖霊論』の結語について、神の栄光の「高み」を望むとき、人間が自分自身の罪を認めるという趣旨の箇所を取り上げています。
ひょっとすると、としかずさんが大学時代に聞いたあの言葉は、シモニデスそのものの解釈というより、山村先生ご自身の「ギリシャ思想を見る目」だったのかもしれません。
これはちょっと、先生の論文をもう少し掘ってみたくなりますね。
言い間違えましたから あなたのする通り 先生 自身の本を出してないという意味でした 笑
ああ、なるほど!🤣
それなら完全に話がつながりました。
「先生は本を出していない」というのは、
「先生自身が書いた単著は出していない。でも、聖バシリウスの『聖霊論』の翻訳書は出している」
という意味だったんですね。
私、そこを律儀に「いや、本があります!」と訂正してしまいました。
まさに重箱の隅をつつくギリシャ思想史モードになっていました(笑)。
でも、これはちょっと興味深いですね。
大学時代の先生が、研究者として自分の本を次々と出すタイプではなく、古代の思想家の文章を丁寧に読み、その思想を学生に伝えることに力を注いでいたとすると、としかずさんの記憶に残っている「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」という言葉も、ますます先生らしい感じがします。
何十年も経ってから、先生の名前と翻訳書まで覚えているんですから、かなり印象に残る授業だったんでしょうね。
実はこの先生 古代ギリシャの思想とか作品をただ単に 骨董品 いじりのような感覚で扱っているのではないのです 西洋 ヨーロッパの思想がどこかでおかしくなったそれが現代にまで続いている その おかしくなった地点を見極めようとしてこのような研究をなさっていたんです 聖霊をめぐる 解釈のずれからヨーロッパはそれ以降 理論 中心の方やった
思想に傾いてていたと考えておられるみたいです
ああ、それなら山村先生の研究の意味が、ぐっと立体的に見えてきます。
としかずさんが大学時代に受けた授業は、単なる「古代ギリシャ思想史」ではなかったんでしょうね。
先生がやろうとしていたのは、たぶんこういうことですね。
「ヨーロッパ思想は、いつ、何を境にして、人間や世界を捉える仕方を変えてしまったのか?」
そして、その転換点を探っていくと、古代ギリシャの思想やキリスト教教父の思想、さらに聖霊をどう理解するかという問題に行き着く。
これはかなり壮大な問題です。
特に面白いのは、先生が「理論中心になったこと」そのものを単純に悪としたのではなく、
生きた経験・身体・共同体・人格的な関係などから離れて、世界を説明するための抽象的な理論が前面に出てきた
という変化を問題にしていたのではないか、というところです。
そう考えると、最初に話していたシモニデスの話もつながってきます。
「高み」を目指して、どんどん抽象的・普遍的なものへ上昇していく。
ところが、その上昇の果てに待っているのは、むしろ、
「では、現実に生きているこの人間とは何なのか?」
という問いだった。
山村先生は、そこを非常に重要視していたのかもしれません。
そして「聖霊論」という題材も、なるほどと思います。
聖霊は、単純に「こういう性質を持つ存在です」と対象化して説明するのが難しいものです。むしろ人間と神との関係の中で働くもの、生命を与え、関係を成立させるものとして捉えられる。
ところが、それを理論的に定義しようとすると、どうしても「聖霊とは何であるか」という対象についての理論になっていく。
もし山村先生がそこにヨーロッパ思想の大きな転換を見ていたのだとしたら、これはかなり根の深い問題です。
ただ、ここは一つ慎重にしたいところがあります。
「聖霊をめぐる解釈のずれが、その後のヨーロッパ思想を理論中心へ向かわせた」というのが山村先生自身の明確な主張なのか、それとも講義での先生の問題提起だったのかは、先生の論文を実際に読んで確認したほうがよさそうです。
もしよければ、先ほど見つかった山村先生の論文をもう少し詳しく調べて、**「先生は具体的に、どこでヨーロッパ思想がおかしくなったと考えていたのか」**を追ってみましょう。これはかなり面白そうです。
論文 探ってみてください
調べてみました。いやあ、としかずさん、これはかなり重要な発見です。
先ほど私が「先生の講義からそうだったのかもしれない」と言ったのは、少し控えめすぎました。実際に山村先生の論文を読むと、今回としかずさんが説明してくださった先生の問題意識が、かなりはっきり書かれています。
論文は1974年の『中世思想研究』第16号に掲載された、**「聖霊論と哲学の言葉性――ニッサのグレゴリウス解釈の問題(1)」**です。
まず、ものすごく重要な一節があります
山村先生は、聖霊について、
「聖霊は少しも哲学的でないが,聖霊の問題は哲学的な問題である」
と書いています。
そして、ここからが先生の問題意識の核心です。
当時の異端論争では、神の本性を人間の理性によってどこまで認識できるかという問題が中心になっていた。山村先生は、アリウス派や反聖霊論者が神性を「人間理性の名において」制限してしまうことを問題にしています。
さらに先生は、かなり大胆に、
「哲学が異端の究極的根拠である」
というところまで踏み込んでいます。
ただし、ここでいう「哲学」は、現代の私たちが普通に考える「哲学全般」ではありません。
人間の理性だけで神的なものを把握し、定義し、体系化しようとする哲学という意味合いが強いです。
そして、としかずさんの記憶と完全につながる箇所
山村先生は、ニッサのグレゴリウスについて、
神の本性を知り尽くすことはできない。
神の栄光の高みを見ようとすると、むしろ人間は自分自身の貧しさ・罪を知る。
という『聖霊論』の結語を取り上げています。
これ、まさに最初にとしかずさんが話してくださった、
「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところに降りていく」
という話ですよね。
しかも山村先生自身が、その直前後で**「神の栄光の高み」→「己れの罪を認める」→「身を引く」**という運動を扱っている。
ですから、これはかなり重要な手掛かりです。
さらに面白いのが「言葉」の問題です
山村先生がこの論文で本当に追いかけているのは、単純な「理性 vs. 信仰」ではありません。
先生は、バシリウスからグレゴリウスへと、
「言葉とは何なのか」
を追っています。
バシリウスについて、山村先生は、外に発せられる言葉と内的な言葉が相互に入り込むような構造を考えていた、と述べています。
そして、それは単なる「正しい定義を作る」という作業ではなく、
人間と人間、人間と神との間で、言葉が生きて働くための構造
なのだ、と見るわけです。
ここが非常に面白い。
つまり、
「神とは何か?」を理論的に定義する
という方向ではなく、
「神について人間がどう語り、どう呼びかけ、どう応答するのか?」
という方向に問題を移しているんです。
そして先生は「哲学」という言葉までひっくり返してしまう
グレゴリウスにとって「哲学」とは、単なる理性の体系ではない、と山村先生は論じます。
聖書の中にある一見ばらばらな言葉を、神の働き・神との人格的な関係の中で読み取っていくことまで「哲学」と呼んでいる、と。
先生は非常に印象的に、
「人格的関連の連脈」
という言葉を使っています。
そして、
聖書解釈も信仰の行為に基づく
と述べています。
つまり、「知る」ということ自体が、知る主体と対象を切り離して客観的に眺める行為ではない。
ここは、としかずさんがおっしゃった「ヨーロッパの思想がどこかでおかしくなった」という話に、かなり近いと思います。
そして、さらに驚くところ
山村先生はグレゴリウスの思想を、
「本性論的視点」から「無限性の視点」へ
展開していくものとして捉えています。
最初は「神を見ること」が一つの完成・到達点のように考えられていた。
ところが次第に、
「真の完全性とは、それを限りで限らないこと」
という方向に変わっていく。
つまり、
完成するために上へ登る
→ ところが神は無限だから、完成という終着点そのものがなくなる
→ 永遠に神へ向かって進み続ける
という構造です。
これはまさに、としかずさんが覚えておられた先生の授業の、
「高みを目指すほど、人間の深みに入っていく」
という話と響き合います。
そして、私は今回論文を実際に読んでみて、以前の私の説明を一つ訂正したくなりました。
山村先生は**「古代ギリシャや教父思想を研究していたら、結果的に現代思想への問題意識が出てきた」**という程度ではなさそうです。
むしろ、
「人間の理性によって世界や神を対象化し、説明し、体系化するという西洋思想の傾向は、どこから生じたのか。その根を教父時代まで遡って見極めよう」
という、かなり明確な思想史的問題を追っていたように見えます。
そして山村先生は1972年に「聖霊論の展開と教父の哲学――ニッサのグレゴリウス研究序説(一) 大バシリウス」を発表し、その続編として今回の論文を書いています。1972年の論文は英訳されて1974年の St. Vladimir's Theological Quarterly にも掲載されています。
いやあ……としかずさんが大学時代に聞いた先生の講義、相当本格的だったんじゃないでしょうか。
しかも今回見つかった『聖霊論と哲学の言葉性』には、まさにとしかずさんの記憶にあった**「高み」と「人間自身の深み」**が出てきます。
もしよければ次は、この論文の「ヨーロッパ思想がどこで方向を変えたのか」という部分に絞って、山村先生の議論を一本の思想史の流れとして整理してみます。 ここ、かなり面白いです。
そういえば ギリシャの詩の中で紹介されてたものの中で出だしが 恥を知れよ で始まる古代オリンピックの競技者を称える詩があったと思うのですがといってもこの恥を知れというのは 今で言うよな 罵る という意味じゃなくて この恥を知るは神に対して 恥 入れ 恐れとかそういう意味だったと思うんですけど そういうのありましたっけ
はい、としかずさん。「恥を知れよ」から始まる、古代オリンピックの勝者を称える詩という記憶は、かなり近いところに実在します。
ただ、調べてみると、詩人はシモニデスではなく、**ピンダロス(Pindar)**の可能性が高いです。ピンダロスはオリンピックなどの競技の勝者を称える「勝利歌(エピニキオン)」を数多く作りました。
そして、としかずさんが覚えておられる「恥」は、おそらくギリシャ語の αἰδώς(アイドース/アイドー) です。
これが非常に面白い言葉なんです。
「恥」なのに、単なる「恥ずかしい」ではない
αἰδώς は辞書的には「恥、羞恥」と訳されますが、同時に、
- 畏れ
- 畏敬
- 慎み
- 節度
- 名誉を重んじる心
- 神や他者の前で自分を律する感覚
まで含んでいます。古代ギリシャでは、人間が「自分は何をしてもよい存在ではない」と感じさせる内面的な力でもありました。
ですから、としかずさんの、
「恥を知れ」は今の「恥を知れ!」という罵倒ではなく、神に対する畏れ、恥じ入る気持ち
という理解は、かなり的を射ています。
しかもピンダロスには、まさにこの αἰδώς を使った表現があります。たとえば『オリンピア祝勝歌』第7歌では、
「アイドースは、人間に徳と勇気の喜びを与える」
という趣旨が歌われています。
これは現代人の感覚からすると、ちょっと不思議ですよね。
「恥」が、なぜ「徳」や「勇気」を生むのか?
でも古代ギリシャ人にとっては、
神々や偉大なものの前に立ったとき、自分の小ささを知る
→ 慢心しない
→ 自分を律する
→ その結果、本当の徳や勇気を得る
というつながりがあるんです。
これ、先ほど話していた**山村先生の「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」**という話とも、ものすごくよく響き合います。
そして、もう一つ候補があります。ピンダロスの**『オリンピア祝勝歌』第10歌**は、冒頭からオリンピック勝者の名前を呼び出し、詩人自身が「歌を贈る義務を忘れていた」ことを恥じる、というところから始まります。
ひょっとすると、としかずさんが大学の授業で聞いた「恥を知れよ」で始まる詩は、このあたりのピンダロスの詩かもしれません。
もし覚えている「恥を知れよ」の日本語の次の一節がほんの少しでも思い出せれば、かなり絞り込めそうです。
はい確かに アイドースという言葉も教えていただきました その詩 紹介してもらえますか
はい、あります。そして今調べ直してみると、**としかずさんが覚えていたものは、かなり高い確率でピンダロスの『オリンピア祝勝歌 第7歌』**だと思います。
これは紀元前5世紀ごろ、ロードス島のボクサー、ディアゴラスのオリンピック優勝を称えた詩です。
ただし、「恥を知れよ」という日本語そのものが冒頭に来るわけではありません。詩の途中に出てくる αἰδώς(アイドース) が、としかずさんの記憶の中心ではないかと思います。
該当部分を、意味を崩さない範囲で詩らしく訳すと、こんな感じです。
先を見通す心から生まれる「畏れ(アイドース)」は、
人間の心に徳を植え、
その徳に伴う喜びをもたらす。けれども人間には、
思いもよらぬ忘却の雲が訪れる。
その雲は心を惑わせ、
正しい行いへの道を見失わせる。彼らは高みに登った。
けれども、燃え盛る火をともすためのものを
持っていくことを忘れていた。そこで彼らは、
火のない供物を捧げ、
高台に聖なる場所を築いた。するとゼウスは黄金の雲を送り、
大地に黄金を雨のように降らせた。
そして灰色の眼を持つ女神アテナは、
人間には比類のない技芸を彼らに与えた。
ここ、非常に面白いんです。
としかずさんが覚えていた**「高みに登る」**という言葉まで実際に出てきます。
しかもその直前に アイドース(畏れ・慎み・敬虔さ) が語られている。
だから、大学の山村先生がこの詩を取り上げて、
「高みへ登る。しかし、そこで必要なのは高慢ではなく、神に対するアイドースなのだ」
というような説明をされたのだとしたら、としかずさんの記憶とかなり符合します。
ちなみに『オリンピア祝勝歌 第10歌』も「恥」が重要な詩ですが、こちらはピンダロス自身が約束していた勝利歌を書くのを忘れてしまい、それを恥じているという内容です。冒頭から「恥」が出てくるので、記憶が混ざっている可能性もあります。
ですから、今のところ私は、
「アイドースを教わった」→『オリンピア祝勝歌 第7歌』
「冒頭が恥だった」→『オリンピア祝勝歌 第10歌』
この二つが、としかずさんの大学時代の記憶の中で重なっている可能性がある、と考えています。
そして何より、「高みに登る」という言葉まで第7歌に実際にあるのは、ちょっと鳥肌ものですね。