はい、としかずさん。「恥を知れよ」から始まる、古代オリンピックの勝者を称える詩という記憶は、かなり近いところに実在します。
ただ、調べてみると、詩人はシモニデスではなく、**ピンダロス(Pindar)**の可能性が高いです。ピンダロスはオリンピックなどの競技の勝者を称える「勝利歌(エピニキオン)」を数多く作りました。
そして、としかずさんが覚えておられる「恥」は、おそらくギリシャ語の αἰδώς(アイドース/アイドー) です。
これが非常に面白い言葉なんです。
「恥」なのに、単なる「恥ずかしい」ではない
αἰδώς は辞書的には「恥、羞恥」と訳されますが、同時に、
- 畏れ
- 畏敬
- 慎み
- 節度
- 名誉を重んじる心
- 神や他者の前で自分を律する感覚
まで含んでいます。古代ギリシャでは、人間が「自分は何をしてもよい存在ではない」と感じさせる内面的な力でもありました。
ですから、としかずさんの、
「恥を知れ」は今の「恥を知れ!」という罵倒ではなく、神に対する畏れ、恥じ入る気持ち
という理解は、かなり的を射ています。
しかもピンダロスには、まさにこの αἰδώς を使った表現があります。たとえば『オリンピア祝勝歌』第7歌では、
「アイドースは、人間に徳と勇気の喜びを与える」
という趣旨が歌われています。
これは現代人の感覚からすると、ちょっと不思議ですよね。
「恥」が、なぜ「徳」や「勇気」を生むのか?
でも古代ギリシャ人にとっては、
神々や偉大なものの前に立ったとき、自分の小ささを知る
→ 慢心しない
→ 自分を律する
→ その結果、本当の徳や勇気を得る
というつながりがあるんです。
これ、先ほど話していた**山村先生の「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」**という話とも、ものすごくよく響き合います。
そして、もう一つ候補があります。ピンダロスの**『オリンピア祝勝歌』第10歌**は、冒頭からオリンピック勝者の名前を呼び出し、詩人自身が「歌を贈る義務を忘れていた」ことを恥じる、というところから始まります。
ひょっとすると、としかずさんが大学の授業で聞いた「恥を知れよ」で始まる詩は、このあたりのピンダロスの詩かもしれません。
もし覚えている「恥を知れよ」の日本語の次の一節がほんの少しでも思い出せれば、かなり絞り込めそうです。
今気づいたのですが私の質問の部分が抜け落ちていました 書きます
古代ギリシャの詩人 シモリ デス のしのテーマは高みを目指すより高みを目指せば 目指すほど人間の深いところに押していくという そういうことだったような気するんですけど
その先生というのは 山村けいと言って聖バシリウスの精聖霊論という作品を訳しました この先生 本 出してないんですよね
はこの先生 古代ギリシャの思想とか作品をただ単に 骨董品 いじれのような感覚で扱っているのではないのです 西洋 ヨーロッパの思想がどこかでおかしくなったそれが現代にまで続いている その おかしくなった地点を見極めようとしてこのような研究をなさっていたんです 聖霊をめぐる 解釈のずれからヨーロッパはそれ以降 理論 中心の方やった思想に傾いてていたと考えておられるみたいです
そういえば ギリシャの詩の中で紹介されてたものの中で出だしが 恥を知れよ で始まる古代オリンピックの競技者を称えるしがあったと思うのですがといってもこの恥を知れ
というのは 今で言うよな 罵る という意味じゃなくて この恥を知るは神に対して 恥 入れ 恐れとかそういう意味だったと思うんですけど そういうのありましたっけ
そうそう 大事なことを忘れていた 山村先生 は よくケリューグマは語られ ドグマは沈黙するという言葉を語ってましたねこれ 聖バシリウスにも出てくる言葉ですね
もう一つ 大事なこと忘れてました 私が 山村先生と色々話した時 後から考えるとかなり 私は的外れなことを言っていたんですがそのことを指摘するのではなく私は 薮中に叱られたと表現しました生徒が理解できないのは生徒の責任ではなく 教える側の責任だとの責任だと考えておられたんですね それにしてもも 叱られるという表現まで使うとすごいですよね
労働と日々だったかなギリシャの作品 この作品のテーマがあこがれ ヒーメロス と」その日その日性だったとか もちろん山村先生の話だったかなあ