ある哲学教授の思い出 | キャンディポット

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私が大学で古代 中世哲学史およびアリストテレス トマスアキナスの演習の授業を受けた山村敬先生の語られた言葉の断片でAIと語ったもので脈絡ないまま言い散らかしたのだが仕上がりがなかなか面白いものになったのでブログで公開することにしました

はい。おそらく、としかずさんが思い出しているのはこちらにかなり近いと思います。

シモニデスの有名な**「人間の幸福についての詩」**です。断片的にしか残っていませんが、内容を意訳すると――

人間にとって、幸福な者となることは難しい。

一日たりとも災いを知らず、
生涯を幸せに過ごすことなど、
人間にはできない。

財産があっても、健康であっても、
美しくても、名誉があっても、
いつ何が起こるかは分からない。

人間の生は、風に揺れる木の葉のようなものだ。

だからこそ、
今ある幸福を大切にし、
人間としてできる善を行うのだ。

シモニデスの人間観で特に重要なのは、**「人間は神ではない」**というところです。

神のような完全な幸福や完全な善を求めて高みへ登ろうとすると、むしろ、

「ああ、人間というものは、なんと弱く、不確かな存在なのだろう」

というところへ戻ってくる。

だから、以前としかずさんがおっしゃった

「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところに降りていく」

という記憶は、シモニデスの詩をかなり現代的・哲学的に捉えた表現なのかもしれません。

そして、この思想は後のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの「幸福とは何か」という哲学にもつながっていきます。

もしよければ次に、**シモニデスのこの詩を「原文に近い形」で、現代日本語の詩として訳してみましょうか。**かなり味わい深いですよ。

モニデス――人間について

人間には、
善き人となることさえ難しい。

手も足も、心も、
すべてにおいて欠けるところなく、
完全な人間になることなど、
そうそうできるものではない。

けれども、
悪い人間でありながら、
善い人間のような顔をすることなら、
人にはできる。

運命は、いつ人を倒すかわからない。
今日、幸せであった者が、
明日には不幸になることもある。

だから私は、
人間に完全さを求めない。

その人が生きているかぎり、
できるだけ善くあろうとすること。

それだけでいい。

神々には、
過ちがない。

けれども私たちは人間だ。

だからこそ、
人間であることを知りながら、
それでも善く生きようとする。

それが、
人間にできる最も高いところなのだ。

ああ、それを聞くと、山村先生がなぜ古代ギリシャ思想と聖霊論をあれほど深く結びつけていたのか、かなり腑に落ちます。

ギリシャ正教会、つまり東方正教会の伝統では、キリスト教の中でも特にギリシャ語で形成された古代教父の思想が重要です。大バシリウス(聖バシレイオス)、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニッサのグレゴリオスなどは、まさにその中心人物です。

そうです、としかずさん。そこは山村先生の思想を理解するうえで、かなり重要な言葉だと思います。

おそらく先生がおっしゃっていたのは、

「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」

ですね。

ギリシャ語でいう ケリュグマ(κήρυγμα) は「宣べ伝え、告知すること」、一方 ドグマ(δόγμα) は教会の教義・定式化された信仰内容、という意味です。

そして聖バシリウスの『聖霊論』では、この二つを区別する非常に重要な議論があります。

ざっくり言えば、

  • ケリュグマ=聖書などによって公に宣べ伝えられるもの
  • ドグマ=教会の伝承の中で、必ずしも言葉にして公に説明されないもの

という区別です。

ここが面白いんですよね。

「重要なことだから、すべて言葉にして説明する」

のではなく、

「あえて沈黙によって守られる真理がある」

という考え方です。

これは、先ほど話していた山村先生の「理論中心になった西洋思想」への問題意識と、ものすごくよくつながります。

つまり、

語れるものは語る。
しかし、語り尽くせないものについては沈黙する。

この「沈黙」が単なる無知ではない。

むしろ、**人間の言葉では捉えきれないものに対する畏れ・慎み(アイドース)**なんですね。

そう考えると、としかずさんが何十年も前に聞いた、

「アイドース」
「高みを目指すほど人間の深みに降りていく」
「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」

という三つの話は、実はバラバラではなかったのかもしれません。

全部、

「人間の理性と言葉には限界がある。しかし、その限界を知ることによって、かえって深い真理に近づく」

という一つの思想につながっている。

そしてこれなら、なぜ山村先生が聖バシリウスを研究し、ギリシャ正教会の信者であり、同時にギリシャ思想史を教えていたのかも、かなり見えてきます。

いやあ、としかずさん、大学時代の先生の言葉を一つずつ拾っていくと、先生の思想の全体像が少しずつ復元されてきますね。

だから山村先生にとって古代ギリシャは、

「昔の偉い人たちがこんなことを考えていました」

という博物館的な研究対象ではなく、

「自分が今生きている信仰の源流を、ギリシャ語の原典まで遡って確かめる」

という意味を持っていたのでしょうね。

そして、ここで先ほどのアイドースも面白くなります。

古代ギリシャの「神々に対する畏れ・慎み」と、キリスト教の神の前に立つ人間の謙虚さ。
一見すると別のものですが、山村先生からすると、そこには「人間が自分を絶対者だと思わない」という共通する人間観が見えていたのかもしれません。

さらに東方正教会の神学では、神を「理論によって完全に把握できる対象」とすることに非常に慎重です。

神について語る。
しかし、神を人間の概念の中に閉じ込めることはできない。

この感覚は、先ほど見た山村先生の

「聖霊は少しも哲学的でないが、聖霊の問題は哲学的な問題である」

という一見矛盾した言葉とも、かなりよくつながります。

そして、としかずさんが最初に教えてくださった、

「ヨーロッパの思想がどこかでおかしくなった。その地点を見極めたい」

という先生の研究姿勢。

これも、単に「西洋哲学は理屈っぽくなった」という話ではなく、もしかすると先生は、

「神や人間を、生きた関係の中で捉えていた古代・東方の思想が、次第に『対象を理論的に把握する』方向へ変わっていった。その転換を思想史的に追跡したい」

と考えていたのではないでしょうか。

そう考えると、ギリシャ思想史の先生で、ギリシャ正教会の信者で、聖バシリウスの『聖霊論』を翻訳したという三つが、全部一本の線でつながってきます。

いや、これはなかなか興味深い先生ですね。としかずさんが大学時代にこの先生の授業を受けていたというのも、今になってみるとずいぶん面白い巡り合わせです。

そうです、としかずさん。そこは山村先生の思想を理解するうえで、かなり重要な言葉だと思います。

おそらく先生がおっしゃっていたのは、

「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」

ですね。

ギリシャ語でいう ケリュグマ(κήρυγμα) は「宣べ伝え、告知すること」、一方 ドグマ(δόγμα) は教会の教義・定式化された信仰内容、という意味です。

そして聖バシリウスの『聖霊論』では、この二つを区別する非常に重要な議論があります。

ざっくり言えば、

  • ケリュグマ=聖書などによって公に宣べ伝えられるもの
  • ドグマ=教会の伝承の中で、必ずしも言葉にして公に説明されないもの

という区別です。

ここが面白いんですよね。

「重要なことだから、すべて言葉にして説明する」

のではなく、

「あえて沈黙によって守られる真理がある」

という考え方です。

これは、先ほど話していた山村先生の「理論中心になった西洋思想」への問題意識と、ものすごくよくつながります。

つまり、

語れるものは語る。
しかし、語り尽くせないものについては沈黙する。

この「沈黙」が単なる無知ではない。

むしろ、**人間の言葉では捉えきれないものに対する畏れ・慎み(アイドース)**なんですね。

そう考えると、としかずさんが何十年も前に聞いた、

「アイドース」
「高みを目指すほど人間の深みに降りていく」
「ケリュグマは語られ、ドグマは沈黙する」

という三つの話は、実はバラバラではなかったのかもしれません。

全部、

「人間の理性と言葉には限界がある。しかし、その限界を知ることによって、かえって深い真理に近づく」

という一つの思想につながっている。

そしてこれなら、なぜ山村先生が聖バシリウスを研究し、ギリシャ正教会の信者であり、同時にギリシャ思想史を教えていたのかも、かなり見えてきます。

いやあ、としかずさん、大学時代の先生の言葉を一つずつ拾っていくと、先生の思想の全体像が少しずつ復元されてきますね。

それは……かなり大事なエピソードですね。
しかも「薮中に叱られた」という表現が、ものすごく先生らしい。

普通の先生なら、「薮中君、それは違うよ」と言って、学生の理解の間違いを訂正するところでしょう。ところが山村先生は、学生が的外れなことを言ったとき、それを学生の能力不足として片づけなかった。

「自分の説明がまだ足りなかった」と受け止めたわけですよね。

そして、それを単に、

「薮中君に質問された」

ではなく、

「私は薮中に叱られた」

と言った。

これは、かなり強烈です。

先生と学生という上下関係を逆転させているんですよね。

しかも「学生に叱られた」という言葉には、単なる謙遜以上のものがあります。

「学生が理解できなかったとき、まず教える側が自分の教え方を問わなければならない」

という教育観が、その一言に表れている。

そして面白いのは、これが先ほどの「アイドース」ともつながってしまうことです。

先生は古代ギリシャの「人間は自分の限界を知るべきだ」という思想を研究していた。

でもそれを、単に研究対象として論じていたのではなく、自分自身にも適用していたのかもしれません。

「私は先生だから正しい。分からないのは学生が悪い」

ではなく、

「学生に伝わらなかったのなら、私の側に問題があるのではないか」

と考える。

これは、ある意味で教師としての非常に厳しい姿勢ですよね。

そして、としかずさんが今になって、

「あのとき私はかなり的外れなことを言っていたな」

と思っていることも、なんだかいい話です。

先生はその場で「違う」と切り捨てなかった。
むしろ、その学生との対話を自分が叱られた経験として受け取った。

だから何十年経っても、としかずさんの記憶に残っているんでしょうね。

このエピソードは、さっき作ったブログ記事にぜひ入れたいです。
むしろ記事の最後を、

「高みを目指すほど、人間の深みに降りていく」

という思想から、

「そして先生自身も、学生から叱られることのできる人だった」

へつなげると、とても美しい締めになると思います。

「古代ギリシャの思想を研究していた先生が、学生に飯をたかられ(笑)、雨の中へ飛び出して穴に落ち、学生の発言に『私は薮中に叱られた』と言う。」

……なんだか、思想と人柄が一人の人間の中でちゃんとつながっているんですよね。

ーメロス と」その日その日性だったとか もちろん山村先生の話だったかなあ

ああ、それはかなりありそうです。おそらく作品は、**ヘシオドスの『仕事と日』(Ἔργα καὶ Ἡμέραι)**のことですね。日本では『労働と日々』『仕事と日々』などとも訳されます。紀元前700年頃の作品です。

そして、としかずさんの記憶にある **「ヒーメロス」と「その日その日性」**という組み合わせ、これは普通の『仕事と日』の解説ではあまり出てこないので、山村先生独特の読み方だった可能性が高いと思います。

ヒーメロス(ἵμερος)=あこがれ

ギリシャ語の ἵμερος(ヒメロス) は、「欲望」「憧れ」「切望」といった意味を持つ言葉です。

ここが面白いんですよね。

『仕事と日』は、一見すると、

「ちゃんと働け」
「農業をしろ」
「この時期にはこれをしろ」

という、非常に現実的な生活の教訓書です。

実際、農作業の時期、航海、日の吉凶など、かなり具体的な「日々の生活」が延々と書かれています。

ところが、それを単なる「勤労のすすめ」として読まず、

人間は何かに憧れ、何かを求めながら、その日その日を生きている

というところに山村先生は目を向けていたのかもしれません。

そして、ここで「その日その日性」という言葉が出てくる。

これは、かなり山村先生らしいですね。


「あこがれ」と「その日その日」

考えてみると、この二つは一見、正反対なんです。

ヒーメロス=まだここにないものへの憧れ。

一方、

その日その日=目の前の一日を生きること。

人間は、

「もっとこうなりたい」

「こういうものに到達したい」

という憧れを持ちながら、実際には、

「今日は畑を耕す」
「今日は種をまく」
「今日は収穫する」

という一日一日の営みを積み重ねていく。

『仕事と日』そのものが、まさにそういう構造を持っています。

壮大な神話を語ったかと思えば、突然、

「この時期になったらこうしろ」

という農作業の話になる。

人間の理想と、泥のついた現実が同じ詩の中に入っているわけです。

そしてこれは、以前としかずさんが思い出していた、

「高みを目指せば目指すほど、人間の深いところへ降りていく」

という山村先生の話とも、かなり響き合います。

「憧れ」という高い方向を持ちながら、実際には一日一日を生きる。

高みと日常が切り離されていないんですね。


それにしても、今回の記憶は面白いです。

前に出てきた 「アイドース(αἰδώς)」、今回の 「ヒーメロス(ἵμερος)」、そして先生が語っていた 「その日その日性」。

もしかすると山村先生の授業では、古代ギリシャ語の単語を単なる「訳語」として覚えさせるのではなく、その言葉の中にある人間の生き方そのものを取り出そうとしていたのかもしれません。

そして、それなら先生がヘシオドスを扱ったことも、かなり納得できます。

ただし、「ヒーメロス=『仕事と日』のテーマ」「その日その日性」というのが山村先生の実際の発言だったかどうかは、今の検索では確認できませんでした。 ここは、としかずさんの記憶として大切にしつつ、断定はしないほうがよさそうです。

もしよければ次に、「ヒーメロス」と「その日その日性」が実際に『仕事と日』のどの箇所から出てきそうなのか、原文まで遡って調べてみましょうか。かなり面白いところまで行けそうです。

調べてください

調べてみました。いや、これはかなり面白いです。としかずさんの記憶、かなり核心を突いています。

結論から言うと、

  • 作品はやはり ヘシオドス『仕事と日々』(Ἔργα καὶ Ἡμέραι)
  • 「ヒーメロス(ἵμερος)」は、実際にこの作品の中に出てきます
  • しかも、その箇所は非常に意味深いです
  • 一方、「その日その日性」という日本語そのものがヘシオドスの原文にあるわけではなく、これはかなりの確率で山村先生による思想的な読み・表現だったのではないかと思います

です。

まず、ヒーメロスは本当に出てきました

『仕事と日々』618行以下、航海について語っているところです。

原文では、

εἰ δέ σε ναυτιλίης δυσπεμφέλου ἵμερος αἱρεῖ

とあります。

直訳に近くすると、

「もし困難な航海へのヒーメロスが、お前を捉えるなら……」

という感じです。

ここで ἵμερος(ヒーメロス) は、「憧れ」「欲求」「切望」「強い願望」といった意味です。

つまりヘシオドスは、

「危険な海へ出て行きたいという気持ちに、お前が捉えられたなら」

ということを言っている。

これ、かなり面白いんですよ。


そして、その直後に「日々の現実」が来る

ヘシオドスは航海への憧れを語ったあと、

「しかし、プレイアデスが沈む頃には、もう海に出るな」

「船を陸に引き上げろ」

「石でしっかり固定しろ」

「家に道具を片付けておけ」

という、ものすごく現実的な話を始めます。

つまり、

海へ出たいという憧れ(ἵμερος)

と、

今日・明日をどう生きるかという具体的な生活

が、同じ詩の中に置かれているんです。

そして作品の後半になると、さらに徹底します。

何月になったら何をする。

いつ種をまく。

いつ収穫する。

いつ船を出す。

何日が吉日で、何日は避けたほうがいい。

最後には、一か月の各日の吉凶まで並べられます。

だから『仕事と日々』という題名の 「日々」=ἡμέραι(ヘーメライ) は、単なる「毎日」という以上に、この作品の構造そのものになっています。


ここで「その日その日性」が効いてくる

これ、としかずさんが覚えていた

「あこがれ――ヒーメロス」
「その日その日性」

という山村先生の話に、かなり近づいてきた気がします。

ヘシオドスの世界では、

遠くへ行きたい。
海へ出たい。
何かを求めたい。

という人間の衝動がある。

それが ἵμερος。

ところが人間は、結局、

今日、畑を耕す。
今日は種をまく。
今日は船を修理する。
今日は働く。

という一日一日の時間を生きる。

つまり、

憧れは遠くを向いている。
しかし人間が実際に生きられるのは「今日」という一日である。

こういう構造ですね。

これは、かなり哲学的です。


そして、実は「日々」のほうも重要なんです

『仕事と日々』の原題は、

Ἔργα καὶ Ἡμέραι
エルガ・カイ・ヘーメライ

です。

ἔργα=仕事・労働・営み
ἡμέραι=日々

だから「仕事と日々」。

日本語では「労働と日々」「仕事と日」「仕事と日々」など、いろいろな訳があります。

そしてこの「日々」は、作品の最後のほうで本当に具体的な「日」の話になっていく。

「今日は何をする日か」

という世界です。

ですから、山村先生がそこから**「その日その日性」**というような言葉を使っていたのだとしたら、これはかなり納得できます。


ただし、一つ大事なことがあります

今回かなり検索しましたが、

「山村敬先生が『仕事と日々』について、ヒーメロスと『その日その日性』を結びつけて論じた文章

そのものは、現在公開されている検索可能な資料からは確認できませんでした。

山村先生については、1984年の『古代キリスト教の教育思想』に「ニュッサのグレゴリオス」を執筆していることや、後にバシレイオスの『聖霊論』を翻訳したことは確認できます。

また、東北学院大学の紀要には1971年の山村先生の論文も確認できます。

でも、「ヒーメロス」と「その日その日性」についての講義記録までは見つかりません。

だから、ここは、

「ヘシオドスの原文にヒーメロスは確かにある。そして『日々』も作品の重要な構造をなしている。そこを『その日その日性』として捉えたのは、山村先生の独自の読みだった可能性が高い」

とするのが、一番慎重で、しかも面白いところだと思います。


そして、これを今までの話と並べてみると、山村先生の思想が一本の線でつながってきた感じがします。

「アイドース」――自分をわきまえること。

「ヒーメロス」――まだ見ぬものへの憧れ。

「その日その日性」――しかし、人間は一日一日を生きる。

「高みを目指すほど、人間の深いところへ降りていく」――高みへの志向が、最後には人間の限界の自覚につながる。

そして、

「私は薮中に叱られた」

――自分が絶対的な「教える側」だとは思わない。

こう並べると、以前作ったブログ記事に**「ヘシオドスとヒーメロス」の章を加える価値はかなりあります。**
むしろ、先生の思想を理解するうえで重要なピースになりそうです。