昔からずっと考え続けていることがある。
死んだらどうなるのかという事だ。
「身体」
「魂」
「心」
に分けるのだったら
「身体」はこちらで処分されるとして
「魂」と「心」はどこにいくのだろう。
天国地獄があると信じて
その先に幸せや苦しみがあるのなら
「魂」に「心」が乗っていくのだろうか。
「魂」と「心」は全くの別物なのだろうか。
分裂してしまうのなら「魂」があの世だとして「心」どこへいくのだろうか。
たまに聞く「前世の記憶」を持つ人や「あの世を見た」と言う人がいて
それが事実だとするのなら
魂に心は存在しそこに記憶も残されているという事なのか。
本当に不思議でたまらない。
神様というものがいたのなら
僕たちはその存在からこの人間という存在で今まで進化して歩いてきた中で
ただひたすらに遠のいている存在なのではないのかと思う。
また、「死」ぬという事を疎かにしているような気がしてならない。
「生」を何かしらの形で全うして「死」する人間に
何らかの形での恩恵があるような気もする。
恩恵といってもここで恩恵を信じるのならそこには神がいて
恩恵は神からの慈悲と愛という事になるだろう。
そもそも人間や動植物の生命の仕組みというものに疑問を抱かない人間が不思議でならない。
どうして繁殖により産まれたものが、特に人間なんて
何もない血と肉の塊の「身体」に「魂」と「心」をどこから与えられてくるのだろうかと。
そういう疑問は持たないのだろうかと。
持つだけ無駄かも知れないけれど
持つ事が大事だと私は考えている。
全て自分自身の経験や出来事が「脳」によるものだとするのなら
それは物質世における事象だろう。
前者に述べた「前世に記憶」や「あの世へ行った」という話。
後者が脳によるものだとしたら
前者は脳によるものではないようにみえる。
じゃぁ前者のそこには何があるのか。
やらせなのか?虚実なのか?愚かな嘘なのか?
宗教がかった輪廻転生信者による愚者の言葉なのか?
その可能性は限りなく低いのではなかろうか?
勿論それは本人にしか分からない事であるが
本人は本人として在する以前に何を任された、もしくは許しを得たものではなかろうか。
「時間」は存在する。
目に見えないものだとしても私たちはそれにしたがって行動する。
「時間」を見えるようにするために「時計」を作った。
「魂」や「心」は物質では見ることができない。
そこには私たちの「生」と「死」の間の壁があるからに他ならない。
ただ壁があるだけで同じように存在しているような気がしてならないのだ。
この世界と並行して存在しており
そこには「時間」という概念はないのかもしれない。
時間がなければ生も死もそこにはなかろう。
その世界がもしあったとしてそこに存在するものがあったならそこが神の場所なのだろう。
皆気づいていない事は
この地球そのものが記憶媒体であり
この宇宙自体が一つのものである事だ。
人間の力で広がる空にデータを保存できる日がくる。
滅びない限りいつの日か必ず訪れる。
それが叶わない理由は考えれば分かるだろう。
私は宗教は嫌いだ。
神にそれぞれ好き好きに名前をつけて
崇めあって
争い
罵り
殺し合って
そんなもの名前を付けられてそれぞれの崇める神全て悪魔と変わりないではないか。
真に信じなければない神は心の内側にいる。
名前なぞつけなくても構わない。
目の前にある全てに対して感謝してやれば
内にある扉も開くだろう。
それができないのが今の世だ。
皆死を曖昧にされ
隣の火事を見るような目で人の死を見る。
人の死は自分に訪れる死と何ら変わりはない。
その死を自分に置き換える事のできない人間に
誰が手を差し伸べようか。
そんな都合の良い神なんて存在しない。
信じるのならそれは悪魔だと思った方がいい。
この世は人の世。
喜怒哀楽溢れ悲しくも苦しい人の世。
人の世?
人の世なんて言っている限り
一生人の世で生き続けるだろう。
この世の生と死に含まれる意味を考えなければならない。
人の世である限りこの世の争いはなくならない。
世界平和なんて誰でも言える。
誰でも言えるのに全ての人類がそれを口を揃えて言える日は来ない。
私たちは人間なのだから。
生と死の仕組みを
解明できたとして
それを公表したとしても
脳で理解した所では何も変わりはしない。
一番深くて一番近い所に
わたしたちが知らなければならない生と死の本当の意味があるのだから。