昔々・・・中学生の頃か!??何故か?記憶に残る 「お富・与三郎」舞台?(TV)だった?か!
お富が=三木のり平 与三郎が=八波むと志 ハルカナル 年月!未だに覚えているのは不思議
物凄く!衝撃的!に「面白かった」のだろう
昨日、お泊まりの母 春日八郎の「お富さん」を歌いながら『お富さんは新堀の人だよ!』と・・
・・『いや!切られの与三郎が清名幸谷の人だよ』・・・『子ども村へ行く途中に碑があるよ』・・・と・
・・・答えは 藪中か!・霧の中 自分の家 から~ 徒歩 3~4分 程の場所に「歌
舞伎狂言」の「与話情浮名横櫛」のモデルになった?有名人?が居たなんて
清名幸谷の紺屋の二男(中村大吉)として生まれました。 大吉は木更津
で型付け職人として腕を磨き清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝っていました。
長唄の好きだった大吉は、近くの新堀の茶屋へ(お吉さんの髪洗いの井戸現存)足しげく通っていました。
そこで、見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。
ところが (><;) きちには近くの堀畑の親分・山本源太左衛門と云う旦
那がいたのです。
間柄はすぐに親分に知られ・・・二人は勝手知った木更津に逃げましたが・・
子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろにに巻かれ海に投げ込まれました
しかし、奇跡的に漁師に助け上げられたのです。お吉は連れ戻されすぐに江戸に売られてしまいました。
※ 清名幸谷・新堀・堀畑は大網白里町・南白亀川沿いに在ります!
左が5代目・伊三郎の墓 右が4代目・伊三郎の墓(大吉)
後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代伊三郎を襲名しましたが、若い
頃の仕打ちで受けた顔から体中の数十の疵が、8代目・団十郎の目にとま
り、三世瀨川?如こう?に「伊三郎・おきち」をモデルに人物名。地名など、
筋書きも、おもしろおかしく善玉・悪玉を誇張して書き上げさせたものが!「
お富・与三郎」でした。
※ 最福寺 吉村伊三郎の説明板(上の写真・右)より
安國山 最福寺本堂は浅草・浅草寺より丸柱42本を譲り受け移築し
たものです。
歴代住職と対談する徳川家康の銅像があったり!八鶴湖のお花見のおりなど、
寄ってみたい 歴史を感じるところです。
※ 与三郎の墓が他にあったり 他にも、木更津「光明寺」 品川区「天妙國寺」にも!
「こうもり安」の姿がなかったり?・・・曇りガラスを手で拭いても曇りガラスで・・・謎(?_?)
は、まだまだ! [木更津説] [東京説] [大網説]・・・大網説を信じましょう
「こんな!ブログ『誰が読むんじゃい』と云う」感じ じ・end!