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日本の歴史と伝統を護る会のブログ

主に当会ホームページにて紹介している記事を再掲しています。

 義久は貴久の子。父の事跡を継いで九州に影響力を持ち、伊東、龍造寺等を破ってその勢いは、日増しに盛んとなった。元亀5年※1(1574年)、伊東義祐を破ってその本拠地を崩すと、義祐は逃げて大友氏に救いを乞うた。この時の大友氏というのは、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後をも併せた勢力を持っており、その勢いはとても盛んであった。翌年の秋に大友氏は勢力を集結させて日向の国を攻めた。義久は、弟家久に迎え討たせ、次に自ら兵を率いて日向に入って戦い、敵の将を11人斬った。大友義鎮はさんざんに討たれ、やむなく残兵を集めて本拠地へと逃れた。この戦いを世に「耳川の戦い」というが、これによって大友氏は家臣に背かれ、島津氏の勢いがますます盛んになった。
 これより前に、島津氏は肥前の龍造寺氏と肥後国の地を争ったが、龍造寺隆信は佐賀城を拠点として隣国を従わせたため、皆が恐れてその勢力はあなどることのできない程のものであった。
 天正10年(1582年)、肥前国は島原の城将・有馬義純が隆信から離反し、島津氏と誼(よしみ)を結ぶと、隆信は義純を攻めた。義純が島津氏に救いを乞うと、義久は配下の武将を遣わして義純をたすけさせた。天正12年(1584年)、隆信が再び義純を攻める。その時義久は八代(熊本県)におり、将兵を集めて派兵の事を合議させると、皆隆信を恐れて「派兵せず」との意見が大体を占め、話は「救うことは難しい」とのことでまとまった。しかし義久は、
  「成敗は天にあり。修理大夫、来たって我に依る。今や彼急を告ぐ。座視するは武士の義に非ず(勝つか負けるかの結果は天が決めることである。有馬義純殿は私を頼ってたすけを求めており、今、そのたすけは急を要する。ここで見過ごすのは武士のとるべき道ではあるまい)」と、家久をたすけに向かわせた。
 家久を智勇兼備の名将で、甚だしい戦果を挙げて、隆信を破り、とうとう隆信の首を得た。この戦い(沖田畷の戦い)で、家久の子供である豊久も従軍したが、歳は15になったばかり。戦に臨むに当たり、家久みずからが兜を着せ、その紐の余りを切って言うには、
  「今回の戦いには、御家の興廃がこれだけにかかっている。そういう訳だから生きて帰れるとは決して思うな。もし幸いに戦が有利に運び、死ななくてもいい場合になったなら、父がお前の為にその紐を解いてやろう」と。
 薩摩士風の精華がこの一時から窺い知ることができる。

 隆信が死に、龍造寺氏の勢いが衰えると、九州の諸侯は皆使者を島津氏に送って手紙を持って来させた。島津義久は筑前、筑後を攻めようと肥後国に入り、高橋紹運の守る巌城を攻めた。高橋紹運とは、立花宗茂(戦国武将)の父である。その高橋紹運は城を堅く守って降伏せず、城がようやく落ちてから進軍して、宗茂が根拠とする立花城を囲んだ。しかし宗茂も又堅く守って降伏せず、とうとう島津軍の兵は疲労し、一旦義久は軍を還した。
 この戦いより少し前に、大友義鎮が救援を豊臣秀吉に乞うたことがあった。義久は使者を秀吉の元に送り、こう述べさせた。
  「九州八ヶ国の守護職をお授け下さるならば、義久は謹んであなた様のおっしゃる通りにいたします」と。
 秀吉はこれに対して、「薩摩、大隅は完全に治めたらよいが、日向、筑後、肥後については元の領主らと私が折半し、統治は私に委任されて然るべきである」と返答した。使者が帰ってこのことを報告すると、義久は激昂して、「その八ヶ国は我が力によって合併できたのである。そんな急に他の人間に与えることなどできるはずがなかろう。しかも城を攻めて他国の地を侵すのは、いつの世にもあること。秀吉ごときがどうこうできるものではない。それにしてもなんとおこがましいことだろうか、何もせずして我を制しようなどとは」と。
 そういう経緯があって、秀吉は配下の将である、仙石秀久、長曾我部(ちょうそかべ)元親、十河存保(そごうのりやす)等を筆頭に進軍させた。対する島津義久は、その勢力を結集させて秀吉方の勢力を迎え撃とうと戦場に出発した訳だが、その際に通り道の城主等は義久軍を畏れ敬って降伏してしまった。義久の弟・家久は奮って戦い、戸次川(戸次川の戦い)で敵に大勝し、敵将存保と元親の子供である信親の首をはじめ、敵勢の首を取ること1000を超えた。

 しかしこの時、既に秀吉の前衛部隊である羽柴秀長は豊前に着いており、秀吉は諸軍を率いてこれに継いだ。秀吉は僧侶の興山を遣わせて和平をはからせたが、義久は了承しなかった。そんな中義久軍にとって良くない事態が起こる。義久についていた者たちが至る所で反旗を翻し、軍は意気消沈してしまい、仕方なく義久は兵を引き上げ鹿児島に帰った。
 翌年の元亀13年、秀吉は進軍して鹿児島に入り、太平寺と云うお寺に陣をとり兵を分けて立て続けに諸城を落とし、とりわけ先方の秀長の勢はどんどん鹿児島に迫っていった。
 これだけの苦境に立とうとも義久はあくまでも戦おうとしたが、配下の臣下等がしきりに降伏を勧めるので、ついに秀長に対して服従しなかった罪を謝し、髪の毛をとかして龍伯と名乗り、秀吉軍の陣である太平寺に赴いて降伏した。
 義久の配下の武将に、新納武蔵守忠元(にいなむさしのかみただもと)というものがいた。勇猛において並び立つものがいないと言われた人物であるが、この武将が義久の弟・歳久と共に降伏することを拒否し、憤慨して義久に説いて、
  「秀吉は我等が城下を蹂躙して、その様はあたかも無人の領地に入るようである。今までさんざん戦ってきたのにも関わらずここで降伏することは、薩摩男子の名に婦女の汚名を被るものです。中国は三国時代の曹操は、百万と云う兵を擁した為に呉・蜀を侮り、それで赤壁で敗れました。同じく中国は戦国時代の田単は、莒(キョ)・即墨(ソクボク)の2城だけで燕の兵から領地を守ったと聞いています。であれば我々とても精兵を以て戦い、また険しい地を拠り所として秀吉等と長い間睨め合っていれば、敵は勢いを失い、戦わずとも勝手に壊滅するでしょう。ここでお願い申し上げます。どうか私に領地を取り戻すことを委任して下さい」と言った。

 秀吉はこれを聞いて忠元の武勇を褒め称え、召して薙刀(なぎなた)を送って言った。
  「おまえは、まだ私に向かって弓を引こうとするのか」と。
 忠元は恐れず自信ありげに言う。
  「もし我が君がお許しになるならば、一矢報いることにも決して躊躇しない」と。
 秀吉は、その心意気を盛んであるとして感心し、かつ義久が配下の将の心を捉えていることに感じ入った。忠元の様な人物は実に薩摩武士の典型と言うべきである。

 島津義久が降伏するとことになった時、山田有信はなおも高城の城にこもって降伏せず、義久が使いを遣わして城を差し出してそこから退去することを命じた。それでも有信は従わず、義久が再び諭して「お前が速やかに城を差し出さないのであれば、君臣の義が絶えてしまう」と言うと、有信は泣く泣く降伏した。秀吉はその忠義を褒め称えて熊本県天草の地を与えたのだが、有信は、
  「もし、その地を(秀吉の所領ではなく)我が君の領地とするのであれば、謹んでお受け致す。しかしもし私をあなた様の近臣とする為の思し召しでございましたら、私は死んでもその命令には従いません。私は島津家恩顧の家臣でございますから」と辞退した。
 秀吉は、義久が配下の臣の心を捉えていることにますます感嘆した。実にこの一事をで義久の人となりを知るには十分であろう。


※1 元亀年間は4年までしかなく、ここでの記述はおそらく元亀3年の、木崎原の戦いを指したものと思われる。

クリップ公式サイト「名君とその忠臣・島津義久