そんな日本は明治維新から27年しか経たない1895年に清国と戦争を起こす。明治二十七八年戦役(通称「日清戦争」。以下通称にならう)である。この戦争の直接の契機は以下の事柄による。1894年3月に朝鮮半島で東学党の乱と云う内乱が起きる。朝鮮は宗主国である清朝に援軍を要請。清朝は宗主国として当然出兵する。これに対して、日本にとっても朝鮮半島はロシアの南下政策を食い止める為の要地でもあるので邦民保護名目の為出兵。ところが日本軍が朝鮮半島に着くや、清朝側は乱をまだ鎮圧していないのに之を鎮圧したとデマを流した。乱の鎮圧後日本は、朝鮮の政治改革を清朝と共にする事を提案する。しかしそれは朝鮮が自立的な方向へ行く事を指す為、朝鮮への影響力を失いたくない清朝はこれを拒否。
そして遂に、豊島沖で礼砲の準備をしていた大日本帝国海軍に向かって清側が砲撃※1。日本側もこれに対して応戦。これが豊島沖海戦である。そして8月1日、両国は宣戦布告する。これが日清戦争の大体のあらましである。
さて、周知の通り日清戦争は日本の勝利に終わった。下関にて講和会議が開かれた事もご存知であろう。しかし、これから書く胸が熱くなる話は意外と知られていない。
当時清は、極東最強と謳われた北洋艦隊を保持していた。日清戦争の際、「定遠」「鎮遠」と云う主力の戦艦の名を聞けば、幼い子供でも怯えたと言う。また子供だけではない。我が国海軍の創設者とでも言うべき勝海舟も、「みないうちはナーンにと思っていたが、来て見れば・・・今度ばかりはびっくりしたよ。あの艦は良いねーなかなか良い艦だよ。新聞屋なんぞは・・・艦の善し悪しなど分かるまいがマーマーよおくあーいう艦をみておいて世の中の惰眠を警醒しなくちゃーいけないよ」と述べている。この時点で、大日本帝国海軍と北洋艦隊との戦いで大日本帝国海軍の勝利を考えていた人間など数名を除いていない。
日本が北洋艦隊と矛を交えたのは1895年2月のことである。しかし形勢は日本が優勢であって、しばらくすると日本の勝利はほぼ確実なものとなった。あとは、北洋艦隊の母港・威海衛を占領した日本が最後の締めをする時である。指揮官の能力だけで追い詰められた訳ではない北洋艦隊に、日本は降伏勧告を行う。
北洋艦隊を率いるのは丁汝昌(ていじょしょう)提督。日本の連合艦隊司令長官は伊東祐亨(いとうすけゆき)。友人であった。

(左から伊東祐亨と丁汝昌)
伊東提督は幕末を潜り抜けてきた、云わば明治日本海軍の草創を知る人物。対して丁提督も清の海軍の育成に力を注いだ人物。ともにその苦労は分かっている。当然伊東提督が送った降伏勧告文は、儀礼的なものではなくして心からの、丁提督のその人を思う心からの書簡であった。伊東提督は丁提督の能力を惜しんで、こう送る。
「僕が誓ってわが明治天皇の大度を担保とすべし」
あなたを失うには惜しい。貴方の身は、私が誓って陛下のその大きな御心を以て守るから降伏されたし、そういう事であろう。そして、「この書を致すや、実に友諠の至誠より出で、決して匆々(そうそう)に出たるものにあらず」と結んだ。
この書簡を読んだ丁提督はしばらく無言のまま佇んで、その後諸将を集めてこれを見せ、こう語った。「伊東提督はまことに礼を知った武士である。自分も威海衛が長く支えきれないことを承知しているが、国家に報いるという大義は捨てることはできない。自分はただ死をもって全うするのみである。もし諸君が降伏しても、自分は恨まない・・・」
将官等はこれを聞くや、皆涙を流し、丁提督とともにその最期を迎えることを決意する。丁提督は伊東司令長官からの手紙には返事を出さず、部下と最後の指揮を執る。
しかし大日本帝国海軍の攻撃は熾烈を極め、遂に北洋艦隊はことごとく大破。ここに勝敗は決した。丁提督は自らの部下を助ける為、降伏の使者を送る。その使者の持つ書が言うに、「艦隊と砲台兵器はすべて日本に渡すが、兵と人民の命は助けてほしい。これが嘘ではないという証拠に、イギリス艦隊司令長官に証人となってもらう」
伊東提督はこの書を読み終わるなりこう即答した。「証人は一切不要。私が信頼するのは、丁汝昌という一人物である」。丁提督がこの返信を読むと、感極まり天を仰ぎ、無言の涙に沈んだ。そして使者として帰ってきた者に、「そうか・・・伊東提督は降伏を許してくれたか・・・。まさに武人の本懐である。友情に本当に感謝する。しかし、国家に報いる義務をどうするか!わがこと足れり・・・」こう言うと、自室にこもり毒杯をあおいで自決した。
丁提督は自らが育てた海軍と清とに殉じた。丁提督の部下は涙を流し、伊東提督に降伏した。そんな彼等に伊東提督は尋ねる。
「丁提督の御姿が見えないようだが?」
部下は伊東提督に丁提督の最期を伝えた。そして丁提督の遺体をジャンク船(小船)に乗せて生まれ故郷に帰してほしいと懇願した。しかし伊東提督はこれを聞いて、怒髪天を衝く勢いで激怒した。
「断じてならぬ!」
清国の将兵はショックであった。しかしその次の瞬間、伊東提督は語を続けた。
「丁提督といえばアジアに久しく威名をふるった北洋艦隊の司令官である。その棺を送るのに、一葉のジャンクを用いるとは何事か!港で没収した商船を使い、余裕があれば戦闘員も乗船させて帰還させよ」と一喝した。
この伊東提督の恩情に、北洋艦隊の生き残りの者たちは声をあげて泣き出し、伊東提督に感謝の言葉を述べて帰国の途に着いた。丁提督が降伏したと日本で報じられた時、人々は口々に「彼こそ珍客として接待する価値がある」「丁汝昌一人を得たのは、北洋艦隊全艦を獲たよりも価値がある」と歓喜した。
ところがその死が伝えられるや、勝海舟は「海外における一知己」と云う漢詩をつくり、女流作家樋口一葉は「丁汝昌が自殺は仇ですが、本当に哀れです。このような豪傑を失ったのだと思うに、疎ましいの戦いです」と日記に書き残し、「中垣の 隣の花の ちる見ても つらきは春の 嵐なりけり」と詠んだ。
徳富蘇峰は、陸軍の有力人物が語った言葉として次の言葉を紹介している。「丁汝昌ためには、彼の死せんことを欲し、わが大日本のためには、その生きんことを欲す」と。
註
※1 しかしこれには異論もある。(たとえば、潮匡人『司馬史観と太平洋戦争』PHP新書)
