“赤とんぼ”特攻兵から大学生へ 語り継ぐ『永遠の0』 | 東京リーシングと土地活用戦記

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足がある、幽霊じゃない」祖母は足にしがみついてきた…“赤とんぼ”特攻兵から大学生へ 語り継ぐ『永遠の0』

2014.3.6 07:00 (産経)[westピックアップ]

若き日の粕井貫次さん。通称「赤とんぼ」と呼ばれた
九三式中間練習機の特攻隊員として猛訓練に明け暮れた
空自パイロットが語る『永遠の0』の真実…から続く

 ゼロ戦の特攻パイロットを主人公にした映画『永遠の0(ゼロ)』(山崎貴監督)がロングランヒットを続ける中、通称「赤トンボ」と呼ばれた日本海軍の九三式中間練習機の操縦士で特攻隊員だった粕井貫次さん(90)が大阪大学で講演を行った。「この中で『永遠の0』を見た人はどれくらいいますか?」。粕井さんが聞くと、大学生、院生ら約50人中3分の1ほどの学生が手を挙げた。「映画を見て直接、特攻兵の話を聞きたかった」と語る学生たちは、粕井さんの生死の狭間で見た壮絶な体験談に耳を傾けた。

「嘘」が見当たらない

 講義の冒頭、粕井さんは「小説『永遠の0』を読んだ人は? では映画を見た人は?」と質問。それぞれ3分の1ほどの学生たちが挙手
し、若者たちの間にも小説や映画が浸透していることを実感させた。

 「正直、これまで小説や映画で描かれる戦記物には嘘が少なくなかった。でも、『永遠の0』の中に嘘は見つからなかった。作者の百田尚樹さんは本当によく戦史を調べて書いています。映画をまだ見ていない人は、ぜひ見てほしい」と粕井さんは高く評価した。

 粕井さんは大正12(1923)年、大阪生まれ。昭和18(1943)年、飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。翌年、水上機操縦訓練のため、福岡県の博多航空隊に配属される。

 「水上機の離着陸は陸上機と違って独特の操縦技術が必要で、習熟するまで大変でした。ですから、初めて陸上機を操縦したときは、こんなに簡単に離陸できるものかと思ったほどです」と明かした。

 粕井さんは出水航空隊・国分分遣隊に赴任し、九三式中間練習機「赤トンボ」の教官となる。まだ20歳だった。

米機との力の差に唖然

 そして昭和20年、機体も燃料も不足する状況下、練習機による特攻隊が編成されたのだ。粕井さんは連日、特攻のための夜間飛行、急降下爆撃などの厳しい訓練に明け暮れた。



 「布張りの翼の練習機に250キロ爆弾を積んで飛ぶのですから、水平飛行も旋回も安定せず、スピードも思うように出ません。だから、とにかく技量を磨くしかなかったんです」

 あるとき、部隊の練習機20機が飛行中、米グラマン戦闘機1機が襲いかかってきた。見る見る間に、たった1機の戦闘機に練習機18機が次々と撃墜され、その力の差に唖然(あぜん)とした。

 7月になり、鹿児島県・国分の基地に特攻隊員として着任した粕井さんはひたすら出撃命令を待つ日々を送る。

「30分待機」死を覚悟

 そして8月10日。「敵艦隊が日向灘沖100マイルに接近しつつあり」と索敵機から基地へ連絡が入る。「攻撃3時間待機」の命令が出され、特攻隊員の名前を記した「搭乗割」が張り出された。粕井さんは一番先頭に自分の名前が書かれているのを見つけた。

 命令は30分以内に特攻に出る「30分待機」に切り替わる。

 「ついに私にも順番がきたか。潔く死に花を咲かそう」と覚悟を決めたという。しかし、一方で、「こんな考えが頭に浮かんだことも事実なんです」と粕井さんは続けた。

 数年前、米軍の空襲を受けた際、隊員は二つある防空壕に別れて逃げ込んだ。粕井さんが飛び込んだ防空壕は直撃を免れ、もう一方は全員が死亡したという。

 「このとき私は助かったものの、もう少しで片足が飛ばされるところでした。が、30分待機のときにこう思ったんです。あのとき、足を負傷していたら、こうして操縦士にはなれず、命だけは助かったかもしれないな…と。誰でも、やはり死は恐いのです」

精神も24時間体制で特攻精神の日々…ユーモアで振り返る真の理由は

 軍隊生活のエピソードをユーモアを交えながら披露する粕井さんの講演に時折、学生の笑い声もあがっていたが、「待機30分前」について話し始めると会場は静まり返った。

この世に生を受けたことが奇跡


 結局、天候が悪化したため出撃は中止。15日の終戦を迎える。焼け残った大阪の実家に帰ると、祖母が出てきて、いきなり粕井さんの両足にしがみつき、泣きながらこう言ったという。「ああ幽霊と違う。足がある。よう帰ってきたな…」

 講演を企画した大阪大学学際融合教育研究センターの松行輝昌准教授は、その理由について「就職も厳しい、そんな時代だからこそ、生きるための知識、考え方を身に付けてほしい。粕井さんの生き方を学生たちの人生の糧にしてほしかったんです」と語る。

 文学部3年の男子学生は「僕の親戚のお祖父さんは戦艦大和の乗組員でした。幼い頃は無理矢理、特攻に連れていかれたと思っていたのですが、最近になって実は志願して大和に乗っていたことを知り、特攻隊に興味がわき粕井さんの話を聞きに来ました」と話す。

 「大学生に期待することは何ですか?」という学生からの質問に、粕井さんは「私たちは勉強したくてもそれが叶わない時代でした。この世に生を受けたことは奇跡です。自分に与えられた人生でベストを尽くし、可能性に向かってチャレンジしていってほしい」とエールを送った。