きのう、MXテレビで、石原慎太郎都知事が、
第二次大戦の空の撃墜王、坂井三郎さんの話をしていた。
講演会で、いろいろ話してからの最後、
中央線に乗っていて、高円寺あたりで、
20才ぐらいの学生さん、2人が、話していた話しの内容が・・・
「50年前に、日本は、アメリカと戦争していたんだってよーー・・
知ってるカーーー・・」
「えーーー、本当かよーー!!??」
坂井さんは、びっくりして、電車から降りて、ホームで呆然としたようです。
坂井さんの本は、3冊程、もっています。
実戦の話しが多く、人柄がでていて、とても有名です。
空中戦後、敵に撃たれて負傷しての、海洋上500キロの基地への帰り道・・
気がついたらゼロ戦が、上下さかさまになってズーと飛んでいたとか・・ね
坂井三郎
さかい さぶろう
1916年8月26日 - 2000年9月22日

渾名 大空のサムライ
生誕地 佐賀県佐賀郡西与賀村
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1933-1945
最終階級 海軍中尉
指揮 ラバウル台南航空隊他
部隊 ラバウル台南航空隊他
戦闘/作戦 第二次世界大戦
日中戦争
ソロモン諸島の戦い
マリアナ・パラオ諸島の戦い
日本本土の戦い
戦功 撃墜数64機
撃墜王への道 [編集]

九六式艦上戦闘機に乗った坂井(1939年)
坂井は佐伯航空隊での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日には、三等飛行兵曹に昇進して台湾の高雄航空隊に異動後、同年9月11日には、中国大陸の九江に進出していた歴戦の航空隊である第十二航空隊に配属となる。
1938年(昭和13年)10月5日の漢口空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗し、初出撃ながら中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜。翌1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加し、6月には占領された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB(エスベー)爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌1940年(昭和15年)5月には、運城基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。
1940年(昭和15年)6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)と初めて出会う。同年10月17日に再び高雄海軍航空隊に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島の三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場にも進出する。
1941年(昭和16年)4月10日、第十二航空隊の横山保大尉からの「坂井は俺の隊にくれ」との要請を受けて、高雄空から、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。漢口基地から華中での作戦に従事し、5月3日には重慶攻撃に出撃する。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の成都攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲(攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流)で、中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となる。更に8月21日には、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜する。
坂井は、ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは日中戦争における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。
坂井は、1941年(昭和16年)10月に台湾の台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で「ラバウルの貴公子」とも称される笹井醇一中尉(当時)らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。
1941年(昭和16年)12月8日の開戦時はフィリピンに駐留するアメリカ陸軍航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後はラバウル、ラエに移動、ニューギニアやソロモンに展開する連合国軍(米豪軍)と激戦を繰り広げた。
後にアメリカ大統領となるリンドン・B・ジョンソン(当時下院議員)が同乗していたB-26爆撃機を撃墜しかけるという逸話を残している。(この逸話は特に米側では長く真実と受けとめられていたが、空戦事実こそ存在したものの、下院議員に同乗したとされるクルーへの聞き取りおよび飛行記録等から、政治的なプロパガンダ・宣伝による創作美談であり、事実とは異なる、あるいは同乗の事実なしとの指摘がその後なされている。)
ソロモン、ラエでの活躍 [編集]
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の1942年(昭和17年)5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった西沢広義と太田敏夫の3人により、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して笹井醇一から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。
