剣豪として有名な宮本武蔵は、天正12年(1584年)播磨国(兵庫県)[五輪書]に生まれた。13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、『五輪書』を書いた。注:江戸時代後期の地誌『東作誌』には美作国(現在の岡山県)で生まれたという説が記載されており、それを根拠として美作生誕説が生まれ、同説は吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用され有名であり、小説に基づいて岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
五輪書 火の巻 一部
第一、懸〔けん〕の先。我かゝらんと思ふ時、静にして居り、俄かに早くかゝる先、上を強く早くし、底をのこす心の先、又我心を如何にも強くしても、足は常の足に少し早く、敵のきわへ寄ると早く揉み立つる先、又心をはなつて、初中後、同じ事に敵を挫〔ひし〕ぐ心にて、底までつよき心に勝つ、是れ何れも懸の先なり。
第二、待〔たい〕の先。敵我方へかゝりくる時、少しも介意〔かまは〕ず、弱きやうに見せて、敵ちかくなつて、つんと強くはなれて、飛付くやうに見せて、敵のたるみを見て、直につよく勝つ事、これ一つの先、又敵かゝり來る時、我もなほ強くなつて出る時、敵のかゝる拍子のかはる間を受け、そのまゝ勝を得る事、是待の先の利なり。
第三、體々〔たいたい〕の先。敵早くかゝるには、我静につよくかゝり、敵近くなつて、つんと思ひきる身にして、敵の餘裕〔ゆとり〕の見ゆる時、直につよく勝つ、又敵静にかゝる時、我身浮きやかに、少し早くかゝりて、敵近くなりて、一揉み揉み、敵の色にしたがひ、強く勝つ事、是體々の先なり。(播磨武蔵研究会)
十三歳で新当流の有馬喜兵衛に打ち勝って以来、二十八、九歳までの間に六十余度の勝負をして一度も敗れなかったといいます。その後さらに剣理を追及して兵法の深奥を極め、二天一流を創始しました。
武蔵は晩年を熊本で過ごしています。武蔵は肥後藩主細川忠利に招かれ、自己の武道の集大成ともいえる「五輪書」を書き上げました。「島田美術館」
巌流島(がんりゅうじま)は山口県下関市にある、関門海峡に浮かぶ小島。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、現在もその住所は「下関市彦島大字船島」である。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたといわれていることで有名。
『武公伝』には、巌流島での勝負が詳述されている。これによると
巌流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巌流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。また、勝負の日は、島に近づくことは固く禁じられた。
勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は、滞在中に巌流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。
試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。
その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を梢人として舟で島に向かった。
待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、おまえは敗れた。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。
小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を打ち、小次郎の頭に中った。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。
武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰った。その時、半弓で射かけられたが中らなかった。
武蔵の三つの先は、有名です。 ビジネスでも使えますね。
二刀流は、剣道の試合で、2回みたことがあります。
高校の先輩が、やっていました。びっくりするぼど個性的です。
武蔵は生涯に、60回もの剣豪との試合で相手を打ち負かしたことで有名です。
佐々木小次郎との、巌流島の決闘なども・・
十代の頃の武蔵の立ち絵は、とても気迫があります。



