ここにいる関係者や記者たちが軽食を摂れる場所があります。

試合の前後や合間にはそこで一息ついたり、情報交換をしています。

私がサンドイッチを食べていると、”Are you a Japanese ?”と言って、向かいに座った男性がいました。

Denis Gibbonsさんとの出会いです。

 

Gibbonsさんとはそれ以来、今もお付き合いを続けており、Moutonさん同様、とても大切な人です。

どれだけのことをしてくださってきているか、それはおいおいお話しすることにします。

このときに話をしていると記者仲間から「日本語もできるのか」と声をかけられていました。

「日本語も」?

そう、Gibbonsさんはヨーロッパのホッケー事情に通じており、フランス語はもちろん、ロシア語やチェコ語も話せます。

ですから、記者仲間からそう尋ねられたのでした。

その日本語は…

そのときはできませんでしたが…

 

試合が終わり、一仕事を終えたMoutonさんが連れていってくれたのはビール会社Molsonの醸造所でした。

Molson社(Molson家?)はCanadiensのオーナーです。

 

 

そのため、毎年の最後の試合の後はこの醸造所でチームの忘年会、というかNew Year Partyというか、をおこなうのですが、そこに連れていってもらったのです。

全選手が夫人同伴で参加します。

忘年会といっても、日本のように「はい、みんなで乾杯!」「まずは誰々さんのご挨拶から」「ここで一曲!」などということはなく、三三五々集まってきて、テーブルについておしゃべりを楽しんでいました。

しかし!

Moutonさんが前へ出ていったかと思うと、手招きして私を呼び、私のことを紹介したのです。

みなさん立ち上がって拍手で歓迎してくれました。

すると、奥様たちが私のところへ来て、一人ずつ順にキスで挨拶をしてくれたのです。

唇と唇で!

日本にはそういう習慣はないので、少し戸惑いましたが、ありがたくお受けしました。(笑

実は、このとき、ちょうどアメリカに留学していた大学での後輩が私に会いに来てくれていて、一緒に試合を観戦し、このパーティーにも参加させてもらっていました。

奥様たちはその彼にもキスをしようとしたのですが、彼はどうにもそれを受け入れることができませんでした。

「日本にはそういう習慣がないから」と説明して、みなさん納得してくださいましたが、一人だけ、なんとかして彼の唇を奪おうと会場中彼を追いかけ回してみんなの爆笑をさらっていました。

(誰の奥さんかはご本人の名誉のために内緒にしておきます)

 

結局、彼は唇を許しませんでした。

あぁ、なんともったいないことを!

 

この時代にはまだスマートフォンはなかったので、なんの「証拠」も残っていませんけどね。

 

そのパーティーで出会ったMolson社のSales Promotion(販売促進部)のRichard Dubreuilさん。

日本ではNHLの試合はまったく見ることができないことを話すと、「では、フィルムを貸してあげよう」と。

日本に戻ってしばらくすると、税関から手紙が来ました。

「モントリオールからフィルムが届いたが、どういうものか説明をするか、受け取りを諦めるか選択してください」

おそらく成人向けの映像など問題のある内容だと疑われたのでしょう。

内容の説明を書類に書いて、空港の税関に行きました。

直径40センチくらいの頑丈なケースの中に入っていたのは16ミリフィルムのロールでした。

当時、家庭用にビデオが普及し始めていましたが、動画撮影の主流は8ミリフィルムでした。

16ミリフィルムは産業用にしか使われていません。

 

さて、どうしたものか。

 

私の勤務先では家庭用ビデオ機器の開発、販売を始めていました。

そこで、その部門の人に事情を話したところ、16ミリフィルムをVHSビデオテープに変換してくれる業者を紹介してもらいました。

その映像は1979年のCanadiensの優勝までの30分の記録でした。

私が自分のものとした最初のNHLの映像です。

 

この旅行中にはCamil DesRochesさんとも会いました。

後に大きな役割を果たしてくれた方です。

 

 

ー Moutonさんからの招待。夢はまだまだ続きます ー

 

ますます拍車がかかるホッケー中心の生活の中で、もう一つやったことがあります。

試合前に歌われるカナダ国歌を一緒に歌いたくて、カナダ大使館に歌詞をもらいに行ったところ、レコードをくれました。

英語版とフランス語版の両方が入っています。

それを英仏両方とも覚えて次回の訪問に備えたのでした。

 

そして、1979年12月。

Moutonさんの「またおいで」のお言葉に甘えて、2度目のモントリオールへの旅をしました。

Moutonさんからの手紙にはこんなことも書いてありました。

 

“Also on December 31st, after the game, there will be a party given by the Molson Brewery and I hope you will accept to be my guest to accompany my wife and myself,”

(12月31日の試合後、モルソンの工場で新年パーティーがあるので、そこに私のゲストとして参加してください)

 

 

モルソン(Molson)はCanadiensの所有者であるビール会社です。

 

今回の試合相手はソ連の中央陸軍(Central Red Army)チーム。

というとなんだか仰々しいですが、先述の通り、ソ連ではスポーツも芸術も国が保護して選手や芸術家を育成しているのですが、彼らは軍に所属しています。

ロシア語でCSKA(チェスカ)と呼ばれていたこのチームにはナショナルチームの選手のほとんどが所属していました。

ですから、CSKAとの試合はソ連のナショナルチームとの対戦と言って良いと思います。

 

1972年に初めてNHLとソ連が対戦してからはソビエトのチームがカナダ、アメリカを訪れることが多くなりました。

公式戦の合間の親善試合でしたが、いつも白熱した試合だったようです。

ある年にRed ArmyチームがPhiladelphia Flyersと試合をおこなったときには、Flyersのあまりに乱暴なプレーに腹を立てたRed Armyの選手が試合を放棄してロッカーに引き上げてしまったこともあります。

 

話がそれますが、そのころのFlyersは荒くれ者の集まりで、乱暴なプレーで知られていました。

ホッケーでは反則をすると一定時間選手が退場しなくてはならず、その間、そのチームは少ない人数で戦わなくてはなりません。

このFlyersは反則の時間が1試合平均30分もあったシーズンがあります。

それは単純に毎試合30分間少ない人数だったというわけではありませんが、通常は1試合あたり10分程度であることを考えるといかに反則が多いチームだったかをご想像いただけるかと思います。

それでもFlyersは2年連続優勝していたのですから驚きです。

 

話をMontrealに戻します。

Zこの試合は名試合として語り継がれています。

私が観に行った1979年12月31日の試合はその再現を期待する熱気に包まれていました。

選手がリンクに現れただけでものすごい歓声。

 

私の「席」は観客席ではなく、観客席の「上空」にある関係者の席でした。

そこは記録員や記者がいる場所で、見下ろすようにリンク全体を見ることができます。

そのような場所なので、なおさら場内の歓声が大きく聞こえます。

相手の耳元で怒鳴っても声が聞こえないほどでした。

 

試合前には選手やチームの情報が印刷されたプレスリリースが配られ、ピリオドが終わるたびにそれまでの記録が配布されます。

 

その中には前回の対戦の記録もありました。

 

Moutonさんはリンクサイドの放送席で場内アナウンスをするときもあれば、この場所にいることもありました。

 

試合はそれはそれは素晴らしいものでした。

と言っても、あまりに興奮していたのでほとんど覚えていないのですが…(笑

Canadiensが点を取ると、記録員たちも大喜びでお互いに手を打ったり握手をしたりで大変な騒ぎでした。

ある記録員がこれ以上崩れないというほど喜びで顔を崩していたのが印象に残っています。

 

Canadiensが点を取ってみんなが大喜びをしていたとき、「やったね!」という気持ちでMoutonさんを見ると渋い顔。

どうしたのかと思っていると、反則があったのでその得点は取り消されました。

あの騒ぎの中でも冷静に試合を観ていたMoutonさんでした。

 

その試合はCanadiensが4対2で勝ったのですが、試合終了とともにベンチからコーチ(監督)のClaude Ruelが靴のままリンクに下りて両手を広げて選手たちに駆け寄っていきました。

こんなことは優勝でもしない限りないことで、私の周りにいた記録員たちも「おい、見ろ見ろ!」と驚いていました。

ー夢を叶えて落ち着くかと思った私のホッケー熱はおさまるどころかますます熱くなりました。情報が少ないのなら自分で何とかしようと思いついたのが…ー

 

▪️『ますます燃え盛るホッケー熱』

そのシーズン、Canadiensは優勝しました。

 

 

旅行から帰国して間もなく、計画段階で相談に乗ってくれたカナダ大使館に報告に行きました。カナダ人大使館員にモントリオールでもらったユニフォームやスティック、そして、Moutonさんから送られてきたそのときの写真や雑誌を見せると、「信じられない」「いったいなんということをしてきたんだ!」と文字通り目を丸くして驚いていました。

 

それからというもの、ホッケーを中心にした生活にますます拍車がかかりました。

海外のスポーツ関係のものを売っていそうな、例えばソニープラザのような店を見つけては何かないかと探し、気まぐれにおいてあるNHLチームのステッカーがあると必ず買いました。

野球やアメリカンフットボールのTシャツなどを売っている店はあっても、NHLのものが置いてあることはほとんどありませんでした。それでもときにはNHLのTシャツがあることがあり、その度に興奮したものでした。

 

相変わらずNHLの情報はFENのスポーツニュースがほとんどでした。ですから、日々の試合結果は分かっても、どのチームがどのディビジョンで首位なのかといったことは分かりません。

 

「ディビジョン」という言葉を使ったので、また話を逸らします。

当時のNHLには17チームあり、2つのカンファレンス、そして、それぞれのカンファレンスに2ディビジョンずつ、合計4つのディビジョンに分かれていました。

Prince of Wales Conference

 Adams Division

 Norris Divisionh

Clarence Campbell Conference

 Patrick Division

 Smythe Division

それぞれNHLの歴史に名を残す人たち名前が冠されていました。

2025年時点ではチーム数は32に増え、地域ごとに分けられて、カンファレンスやディビジョンの名称はEasternやWestern、Atlantic、Centralなど分かりやすいものに変わりましたが、私はこの歴史ある名称のほうが味わい深いと感じています。

 

「カンファレンス」は野球のアメリカ大リーグの「ナショナルリーグ」「アメリカンリーグ」の「リーグ」に相当するものです。

他のスポーツでは同じディビジョン内の対戦が多く、次に同じカンファレンス(リーグ)内の試合を多く組みます。スポーツによっては別のカンファレンス(リーグ)のチームとの試合はプレーオフでの優勝決定戦以外にはないこともありました。日本のプロ野球で、以前は公式戦ではセリーグのチームとパリーグのチームが対戦することはなかったのと同じことです。

 

これに対して、1978年当時のNHLでは17チームすべてが均等に対戦し、その結果、ディビジョン内で順位を決めるという仕組みになっていました。それではディビジョンの意味があるのだろうか、と思ったものです。このようにしていたのは、おそらく、古くからあったモントリオールを始めとする人気チームを各地で均等に見せることによってNHL全体の人気を高めようという目的があったのかもしれません。

 

ちなみに「古くからあった」チームとは、ある時点での6チームで、

Montreal Canadiens

Boston Bruins

Chicago Black Hawks

Detroit Red Wings

New York Rangers

Toronto Maple Leafs

これらの6チームは「Original 6」と称されています。

 

▪️『情報がない。ならば自分で作ろう!』

話を戻します。

在日米軍向けのラジオで日々の試合結果やちょっとした話題を知ることはできましたが、それでは物足りなくなってきました。

 

1980年ころはパーソナルコンピュータというものが出始めた時期でした。

しかし、当時のコンピュータはそれだけでは何もできません。電源を入れると画面の左上で四角が点滅しているだけでした。業務用には現在のWordやExcelの元となるソフトウェアがありましたが、個人が趣味で使うためには自分でプログラムを作るしか方法がありませんでしたので、よほどコンピュータに興味を持った人だけが使っていました。今のIOSやWindowsに相当するOSはMS-DOSと呼ばれるもので、プログラムを作るためにはBASICという「言語」を使います。

例えば、足し算をして画面に表示させるには、

Input A

Input B

A+B=C

Print C

という「式」をコンピュータに覚えさせます。

それぞれ、

入力された数値をAとする

入力された数値をBとする

AとBを足したものをCとする

Cを画面に表示する

という意味です。

 

 

そこで私はこのパソコンを使えば、NHLの試合結果を記録して順位表を作ることができるのではないかと考えついたのでした。

私はあの旅行の翌年1979年4月に社会人になりました。そこで、同じ職場にいたコンピュータ技術者に相談し、プログラムを作り始めました。その当時最も一般的だったPC-9800という日本電気製のパソコンを買い込み、その技術者を早朝出勤させて(笑)、職場にあったパソコンで毎朝30分、プログラムの作り方を教えてもらいながらプログラムを作ったのでした。

その結果、半年くらいかかったでしょうか、日々の試合結果を入力し、順位を表示することができるようになりました。それも、ディビジョンごと、カンファレンスごと、ホームやアウェイでの成績、得点数による順位など、いくつかの条件での順位を出せるものが出来上がりました。

 

しかし、ほどなくインターネットが普及し始め、NHLの情報も自由に手に入るようになったので、それ以上の「開発」はしませんでした。