こうして無事にモントリオールに着き、1980年12月30日に対Los Angeles Kings戦を観戦しました。Moutonさんは今回も記者席という特等席を用意してくれました。

 

この試合で印象に残っているプレーが二つあります。

一つはGuy Lafleur。

前に向かって走りながら後ろからのパスをバックハンドで、しかも、パックを見ることなく受けたのです。

後日、Lafleurはときどきそういうプレーをするという記事を読み、あの時が決して偶然だったわけではないことを知りました。それはLafleur個人の技量によるものであることはもちろんですが、組んでいる2人との息が合っているからこそできるプレーだと思います。チームとしての連携はもちろんですが、一組になっているフォワード3人の息の合ったプレーが見られるのもホッケーの面白いところです。

 

印象に残っているプレーのもう一つはディフェンスのLarry Robinson(ラリー・ロビンソン)。

大柄で、前に向かって走る選手よりも速く後ろ向きに滑ることができると言われていました。その試合でも後ろ向きに滑りながら対面する相手選手を押さえる場面が何度もありましたが、一度に二人を押さえ込んだのには驚きました。私はこのような守りのプレーを見るのが好きですが、最近はこのようなプレーが少ない気がします。何故でしょうね。

 

試合終了の少し前にMoutonさんに連れられてCanadiensのベンチ横の通路に行きました。試合が終わってロッカーに引き上げてくる選手たちを見ていると、私に気づいたSerge Savard(サージ・サバー)がスティックをくれました。その試合でSavardは自身通算100ゴール目を挙げました。アシストはBob Gainey。その点を取ったときのスティックはすぐにホッケーの殿堂用に渡されたことでしょうが、その記念すべき試合で使ったスティックです。ロッカーで本人とGaineyのサインをもらいながら「殿堂に渡さなくていいんですか?」と冗談を言ったら「他のスティックを渡しておくよ」と。

 

(私の部屋に飾ってあるSavardのスティック。ひときわ長い!)

 

それもその年最後の試合でしたので、昨年と同じくMOLSON醸造所でのパーティーに連れて行ってもらいました。その年にMoutonさんが出版した本に選手たちにサインをしてもらいながら、一つ一つテーブルを回りました。その試合でLafleurは目を負傷しました。サインをしている途中で痛みを感じ、目を抑えて手を止めたのでそれ以上書いてもらうのを遠慮しようとしたのですが、そのまま名前とメッセージを書いてくれました。サインの「Guy」のyの文字の後が少し乱れているのはそのためです。そして、「次にモントリオールに来るときは旅費を出してあげよう」と!もちろん、社交的に言ってくれたことでしょうし、実現することはありませんでしたが、スーパースターにそのようなことを言ってもらえただけで、とても光栄なことです。

 

(Moutonさんが出版した本と選手たちのサイン。太字がMoutonさんのメッセージとサイン)

 

年が変わって少しずつ選手が去ってゆく中、Savardが最後まで一人で踊っていました。YMCAという曲に合わせて決してうまいとは言えないダンスでした。もしかしたら、すでに引退を決意していたのかもしれません。それがSavardにとってCanadiensでの最後のシーズンでした。

 

この旅行中には朝食のためにMoutonさんのご自宅へ招かれました。

奥様のMonique、私と同年代の二人の息子さん、PierreとMichel、そしてMichelの奥さんのLiseと楽しい時を過ごしました。Moniqueが次々に手料理をテーブルに運んでくれます。俳優のような好男子のPierre。日本の野球について少し知識があり、まだ現役だった王貞治の名前を”Sa-da-a-ru O”と発音していたのにクスッと笑ってしまいました。フランス語では”h”を発音しないのでそうなってしまったのでしょう。Michelがちょっとエッチな冗談を言うと、Liseが怖い顔をして強い口調で「Michel!」と叱り、きっとMichelはLiseの尻に引かれているのだろうなと思いました!(笑

部屋にはワインをたくさん入れてある棚がありました。Moutonさんはワインが大好きで私との昼食のときには必ず飲んでいました。棚のワインのいくつかに「Michel NON!」という張り紙がしてあります。お気に入りのワインをMichelに飲まれないようにしていたのでしょうね。

 

Moutonさんには夕食もご馳走になりました。

Claude St-Jeanというレストランでした。食事をしながらチームの話をたくさん聞かせてくれた中で、背番号1から順に2、3とそれぞれの選手について話してくれました。Canadiensは毎年夏にいくつかの都市でその土地のアマチュア野球チームとチャリティーの試合をしていました。「10番(Guy Lafleur)はホッケーでは大スターだけど、野球はからっきしだめで、女の子みたいな格好でボールを投げるんだよ。いつも”ベンチにいさせてくれ”と頼むんだ。」とか。

 

("ベンチにいさせてくれ")

 

また、MichelはCanadiensのアウェーの試合を観にスポーツバーに連れて行ってくれました。

私は日本でスポーツバーに行ったことがなかったので、それが初めての経験でした。(そもそも日本にはまだそういう場所がなかったと思います)全員がCanadiensのファン。ビールを飲みながら、みんなでCanadiensを応援し、点を取ると大騒ぎ!誰彼となくハイタッチ。こうして毎晩のようにForumやスポーツバーで試合を見ることができたらどんなに楽しいでしょう。

 

あるとき、Moutonさんに尋ねたことがあります。

「何故、こんなに良くしてくれるんですか?」と。

 

「はるばる日本からCanadiensを見にきてくれるからだよ」

 

選手たちを自分の子供のように感じていたMoutonさん。

そのチームを地球の反対側から見にきていたことを喜んでくれていたのでしょう。

 

このころから手紙の最後にこう書いてくれるようになりました。

 

”Your Dad in Canada”

 

 

1980年12月末に3度目のモントリオール旅行をしました。

 

今回もモントリオールでのその年最後の試合を見に行ったのですが、その前にCanadiensの試合が

ニューヨークであったので、先ずニューヨークへ行きました。

 

「ニューヨークは怖いところ」という印象を持っていたので、試合を見る以外はできるだけ外に出なくて良いように、ニューヨークレンジャース (N.Y.Rangers)のホームリンク、マジソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden:MSG) のすぐ向かいのホテルに宿泊しました。空港からのタクシーが市街に入ると薄暗くてまるで高層ビルの林の中を進んでいるような感じがしてますます不安になりました。ホテルにチェックインした後は、時差ぼけもあったので、試合開始までずっと部屋にこもっていました。

 

 

MSGは以前に行ったロサンゼルスの競技場と同じく、客席の傾斜が緩やかで開放的な印象を受けました。そのせいか、モントリオールで感じたような、「絶対に勝ってもらわなくては困る』という観客の切実感のようなものは感じませんでした。MoutonさんがRangersの関係者に連絡をとってくれており、記者席という特等席で試合を観戦しました。

 

(緩やかな傾斜の客席)

 

(記者席に配られるプレスリリース)

 

ニューヨークでの滞在はその日1泊だけで、翌朝早くモントリオールへ向かうべく、タクシーでラ・ガーディア(LaGuardia) 空港へ向かいました。タクシー運転手が「ニューヨークは初めてか?」と聞くので、「そうだ」と答えると、「じゃあゆっくり行く」との答え。その理由を尋ねると、「ニューヨークに慣れている人だったら、スピードを出してジグザグ運転をするけど、初めての人にとっては怖いと思う」ということでした。

 

空港に着き、紙幣を渡すと運転手が「お釣りがない」と言います。ニューヨークに到着して以来ずっと緊張しっぱなしでしたが、このときまで危険な思いをすることはありませんでした。しかし、「あーついにやられた!」と思いました。お釣りがないことを理由に、ぼったくられるのだと思ったのです。しかし、「あなたが今日の最初の客だから釣り銭がないんだ」と言って、外へ出て行き、仲間にお金をくずしてもらってきてお釣りをくれました。

ホッ。

 

空港の中は騒然とした雰囲気でした。ニューヨークはいつもこうなのかと思っていたら、濃霧のため飛行機が飛べない、と。

 

さあ大変!どうしよう。

 

「こんな怖いところにはもういたくない。一刻も早くモントリオールに行きたい。」もう一泊することは考えず、長距離バスで行くことにしました。タクシーでContinentalバスのターミナルへ向かいました。ターミナルに着いて時刻表を見ると、急行が出たばかりで、各駅停車しかありません。モントリオールまで10時間。しかし、迷うことはありませんでした。切符を買い、バスに乗り込みましたが、一つ心配なことがありました。空港で両替するつもりだったので、手元にあるのは日本円と20米ドルだけ。

 

「どうにかなるだろう」

「途中に両替できる場所があるだろう」

 

しかし、バスが寄るのは小さな街ばかり。とても国際通貨の両替をするところはありません。食事休憩のときもずっとバスの中にいる私を不審に思った運転手に訳を尋ねられたので、事情を話し、途中に両替ができる場所はないかを聞きましたが「ない」との答え。

 

モントリオールに着くのは夜。銀行は閉まっているに違いありません。12月でしかも夜。東京育ちの私には想像もつかない寒さでしょう。(翌日、外へ出ると日中でもマイナス20でした)

「モントリオールのバスターミナルがどういう所か分からないけど、そこで朝を待つか、それとも20ドルで行けるところまでタクシーで行ってあとは歩くか」

 

不安でしたが、「モントリオールに向かっている」という気持ちが私の支えでした。

 

朝、ニューヨークを出発して、すっかり夜になりました。高速道路の標識に「Montreal xx km」という表示が出てくるようになり、それがどんなに励みになったことでしょう。

 

そして、モントリオールに到着。バスを降りようとすると、運転手が「これからどうするのか?」と聞くので、ここで朝を待つか、タクシーで途中まで行こうと思っていることを話しました。すると「ここで待っていなさい」と言って、バスを降り、事務手続きを済ませて戻ってきました。

 

「ホテルまで送ってあげる」と。

 

バスでホテルまで行ってくださり、無事ホテルに到着したのは多分10時ころだったと思います。

 

今回の宿泊はWindsor Hotel。

もう社会人の私ですから、これまでのYMCAではなく、中心地にある一流ホテルに泊まりました。

 

そのバスの運転手さん(George Savignacさん)にはなんとお礼を言って良いのか分かりません。真冬の夜のモントリオールを歩いたら、決して大袈裟ではなく、凍え死んでいたかもしれないのですから。住所と名前を聞いて、帰国後すぐにお礼の手紙を書き、その後、何年かクリスマスカードのやり取りを続けました。

 

 

年が明けて1980年。

ホッケーの世界では忘れられない年です。

ミラクル・オン・アイス(氷上の奇跡)が起こりました。

2月にアメリカのレイクプラシッド(Lake Placid)で開催されたオリンピックでアメリカの学生主体のチームが無敵のソビエトを破り、その勢いのまま金メダルを獲得したのです。

学生主体とはいえ、決してにわか作りのチームではなく、このオリンピックに照準を合わせて早くからチームを作り、世界各地を転戦して回るなどして強化されたチームでした。

リンクを縦横に走り回り、強い体当たりでソ連を翻弄し、観客も一体となって勝ち取った勝利でした。

(スポーツ界として大きな出来事でした)

 

(年末にモントリオールで知り合ったGibbonsさんが送ってくれたレイクプラシッドオリンピックのプログラム)

 

聞いた話ですが、この試合の後、航行中のアメリカ軍の戦艦にソビエトの戦闘機が近づいて来たそうです。

艦内に緊張が走りましたが、その戦闘機は羽を上下に振って去っていったそうです。

この歴史的勝利のお祝いを告げに来たのでしょう。

 

日本ではこの試合は生中継されず、数時間遅れて放送されました。

放送開始を待つ間に他のチャンネルを見ていたところ、ニュース速報でこの結果が伝えられてしまい、がっかりしたのを思い出します。

しかし、国際的な大きなホッケーの試合を見ることのない日本にいる私にとっては貴重な機会でした。

また、以前のオリンピックの決勝でソ連とチェコスロバキアが名勝負をおこなったことを知っていたので、オリンピックの決勝戦を何としてでも録画したいと思っていました。

当時は家庭用のビデオが出始めたころでしたので、デッキ本体は大きく価格も高かったのですが、冬のボーナスをはたいて買いました。

決勝は期待していたソ連対チェコではありませんでしたが、ホッケーの、いや、スポーツの歴史に残る試合を手元に持つことができたことは幸運と言えるでしょう。

また、ソ連対チェコのオリンピックでの決勝戦を観ることが私の夢の一つになりました。

オリンピック、決勝戦、ソ連対チェコという三つの条件がそろい、しかも切符の入手という困難を乗り越えなくては実現できない難しい夢でした。

しかし、モントリオールであんなに素晴らしい経験ができたのだから。

この夢も諦めることはありませんでした。

 

ここでホッケーから話を逸らします。

私は高校生になったときに空手を習い始めました。

それは自分の意思ではなく、意気地なしで引っ込み思案だった私に豪を煮やした父が見つけて来た道場に強制的に入門させられたのでした。

それに反発すらできなかったほどの意気地なしでした。

道場は新宿の繁華街の中にあり、場所のせいもあったのでしょうが、門下生には大人しかいませんでした。

そのため、師匠も先輩たちも高校生の私を可愛がってくれたのですが、中には意地悪な先輩もいました。

口の中が切れて食事ができなくなるほど殴られ、みぞおちを蹴られて床を転げまわることもありました。

それでも何故かやめようとは思わず、黒帯を取り、また、大きな大会に出ることができるようにもなりました。

 

何をするにも自信を持てなかった私を変えてくれたのは、モントリオールでの夢のような経験をさせてくれたMoutonさんと空手とその師匠でした。

情熱を持てば、そして、辛抱すれば必ず何か結果を出すことができる。

その結果が良くても悪くてもまず行動してみよう。

何事も分からないままにしておくのはやめよう。

そう思うようになりました。

 

その空手道場には二組の外国人がいた時期があります。

私にとって幸運なことに、みなカナダ人でした。

そのうちの一組は前述のWinnipegに住む夫婦でホッケーにはまったく関心がありませんでした。

ホッケーに興味がないカナダ人はおそらくこの二人だけかもしれませんね。(笑

 

もう一組はCalgary在住で、そのうちの一人はホッケーが好きで、テレビでの試合をVHSテープに録画して送ってくれたり、ホッケーに関するものを送ってもらったり、また、今でもときどきビデオ通話でホッケーの話を聴かせてもらっています。

いつだったかSNSでチャットをしながら同じ試合を観たことがあります。

そのときのこと。

その彼がチャットで”Yes!”と叫びました。

私が観ている画面ではまだプレーが続いていましたが、ごく僅かに遅れてCalgary Flamesが点をとりました。

情報量が多い映像情報よりも文字情報のほうがほんの僅かに先に届くんですね。

 

Ray、いつもありがとう。

FlamesとCanadiens、次に優勝するのはどちらが先かな?

 

ホッケーがつないでくれた友情にも、心から感謝しています。

 

(Rayが送ってくれたカルガリーフレームスの切符の半券。これも大切な宝物です)