1位(フロリダ):アーロン・エクブラッド (Aaron Ekblad) 。パンサーズは既にジョナサン・ユベルドー (Jonathan Huberdeau) を筆頭に、ここ何回かのドラフトで優秀な若手フォワードを獲得している。従って、今回ディフェンスを指名したことは理解できる。GMのデイル・タロン (Dave Tallon) が今週1位指名権をトレードに使うだろうという噂があったが、そうはせずに賢明な指名をした。この選択の是非については今後何年も議論されるかもしれない。エクブラッドは今年のドラフト候補選手の中で最も成熟した、NHLでの即戦力選手としてスカウトに高く評価されていた。確かに年齢の割に既にスター選手のように見え、またそのように振舞っている。大砲のようなシュートを放ち、大柄ではあるが、プロとしての攻撃力を実際にどのくらい発揮できるかについてはまだ議論の余地がある。エクブラッドはジュニア (*OHL) のバリー・コルツで3年間を過ごした。「来シーズンからプレーして、チームに貢献できると思います。」とエクブラッドは言った。

3位(エドモントン):レオン・ドライサイトル (Leon Draisaitl) 。先駆者と言って良いだろう。ドライサイトルは、13年前に総合20位で指名されたマルセル・ゴック (Marcel Goc) を上回り、NHL史上最も高い順位で指名されたドイツで生まれ育った選手となった。大柄で、本格派、そしてWHLのプリンス・アルバートで既に際立った力を持っている。今シーズンは64試合で105ポイントを挙げた。オイラーズは、ライアン・ニュージェント・ホプキンス (Ryan Nugent-Hopkins) の高い技術と相まって中盤で今までとは違うゲーム展開をすることができるだろう。ドライサイトルの加入によりエドモントンは、他の若い選手たちの一人をブルーラインにコンバートする可能性を秘めることになる。最も可能性の高いターゲットは(*センターの)サム・ガニエー (Sam Gagner) だ。「オイラーズには才能のある若い選手がたくさんいます。みんな懸命に上達しようとしています。」ドライサイトルは言った。

4位(カルガリー):サム•ベネット (Sam Bennett) 。フロンティナクス (*OHL) のセンターが4位でフレームズに指名された時、誰よりも一番嬉しそうだったのはベネット自身だ。トロントの北にあるオンタリオ州のホーランド・ランディングという小さな町の出身で、彼はドラフトの前にカルガリーを見学し、とても好印象を持って帰ってきた。その後、「カルガリー・フレームズの一員になりたい。」と最終的に両親に話した。攻守双方に優れ、ゲーム感覚にも優れている。現在、キングストンでゼネラル・マネージャーを務めるダグ・ギルモア (Doug Gilmour) と比較されることが多い。 NHLでプレーできるようになるまでに時間がかかるかもしれないが、フレームズが再構築するための一歩を踏み出すのに役立つ非凡な才能を既に持っている。

6位(バンクーバー):ジェイク・ヴィルタネン (Jake Virtanen) 。力強いフォワードという評判である。現在、18歳。今シーズンはWHL (*Western Hockey League) のカルガリーで45ゴールという際立った活躍をした。年間を通じて、ドラフトのリストで急上昇してきた。既に210ポンド(約95kg)の体格で素晴らしいスケーターだ。よくいる体が大きいだけの選手ではない。セディン兄弟の引退が迫っている中で、バンクーバーが必要としているガッツとウイングへの深みをもたらすだろう。金曜日はほとんどの選手が到着した場所を見て興奮していた。しかし、ヴィルタネンは落ち着いていた。ドラフトに向けての下交渉中にバンクーバー関係者からの接触を何度も受けていたので、バンクーバーに指名される可能性が高いことが分かっていたからだ。ヴィルタネンもそれを希望していたし、カナックスは面談した当初からヴィルタネンを獲得することを望んでいた。「このチームは文化を変えようとしています。彼はその一員になれるはずです。」ヴィルタネンを頑丈で気性が荒い選手と評価しているカナックスのGM、ジム・ベニング (Jim Benning) はそう言った。

8位(トロント):ウィリアム・ナイランダー (William Nylander) 。長年NHLでプレーしたマイケル・ナイランダー (Michael Nylander) の息子である。年間を通して、全てのドラフト・リストに名前が上がっていた。しかし、ドラフトでトップ10に入るかどうかについては疑問符が付いていた。リーフスは新社長ブレンダン・シャナハン (Brendan Shanahan) の下で、もっと大柄で荒っぽい選手を取るだろうという予想が多かったので、意外な指名だった。しかし、ナイランダーは中盤で高い能力を存分に発揮できる。それが未だにこのチームに欠けている点であることは明らかである。ナイランダーはやや個人プレーに走り、攻撃中心と見られているが、上位指名を受けた他の有望選手たち同じように未知数の部分がある。次のレベルへのジャンプをするためには単に力強さと成熟度が増せば良いだけなのかもかもしれない。「彼は今年のドラフトで最も技術の高い選手かもしれない」とリーフスのGM、デイブ・ノニス (Dave Nonis) は言う。「見ていてわくわくします。今でももうNHLのスピード、テクニック、シュート力を持っています。」

9位(ウィニペグ):ニコライ・エーラース (Nikolaj Ehlers) 。デンマーク出身の小柄のウイングである。北米での最初のシーズンをハリファックスでプレーし、驚いたことに104ポイントを挙げてQMJHL (*Quebec Major Junior Hockey League) に明るい材料を提供した。攻撃に関してずば抜けた直感を持つダイナミックな選手だが、唯一本当に残念なのは165ポンド(約75kg)しかない体格だ。NHLで目立った活躍ができるようになるには時間がかかるだろう。ジェッツはトップ・クラスのフリー・エージェントたちを引き留めるのに苦労すると思われる。その中で、エーラースが得点力のある選手に化ける潜在性を考えれば、目玉となる選手が比較的少なかった今回のドラフトで賭けてみる価値のある9位指名である。

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1989年は歴史的にとても大きな意味のある年であった。ヨーロッパでは、第2次世界大戦後、より近代的な西側諸国と東欧諸国とを分断していた鉄のカーテンが崩れつつあった。東西のイデオロギーの違いを最も明白に象徴していたベルリンの壁はその年の11月に崩壊した。ソ連内では共産主義体制が徐々にその力を失っていた。「冷戦」はもはや寒いものではなくなってきていた。

ドイツのハード・ロック・バンド、スコーピオンズ (Scorpions) のヒット・シングル、「変化の風 (wind of change) 」はあの時代の精神を反映していた。同じようにNHLもその変化を感じていた。ミネソタ州ブルーミントンのメット・センター行われた1989年のドラフトでは、41人のヨーロッパ人選手が指名された。しかも、そのうちの一人は総合第1位で選ばれた。背が高く、金髪のスウェーデン人はケベック・ノルディックスのチーフ・スカウト、ピエール•ゴーティエ (Pierre Gauthier) に呼ばれて緊張した面持ちで壇上に上がった。ストックホルム郊外のブロンマ (Bromma) 出身で名前はマッツ・サンディン (Mats Sundin) といった。

「今回の指名候補選手の中で最高の人材です」とサンディンを指名したゴーティエは言った。「類まれなスティックさばきと素晴らしい才能を持っています。良いラインを組めると思います。」

ゴーティエは正しかった。指名を受けたサンディンは寸法の合わないノルディックスのキャップを無理矢理かぶろうと引っ張っていたが、その時から彼の長い旅が始まった。その旅はNHL史上最も多くのポイントを挙げたスウェーデン人としての道を歩み、ケベック、トロント、バンクーバーで18シーズン以上を過ごし、通算1,346試合で1,349ポイントという成績で殿堂入りへと到達した。

このドラフトが行われた週末にサンディンと一緒にいたのは代理人で元ウィニペグ・ジェッツのフォワード、ベント・ルンドホルム (Bengt Lundholm) のとサンディンの父、トミー (Tommy) だった。

「トミーと一緒にスタンドに座って見ていました。全てのことが驚きだったのを覚えています。」とルンドホルムは語った。「大きなシステムが順調に動き始めているのを見るようでした。何か大きなことが起こっているのを感じました。」

自分たちが関わることになるまで、スウェーデンから来た代表団の誰もドラフトがどんなに重要な意味を持つかを把握していなかった。それは目を見開くような経験だった。

「スウェーデンでは、NHLのドラフトはほとんど知られていませんでした。」とルンドホルムは言う。「今日のような派手な売り込みはまだ発明されていませんでした。私自身、NHLで何シーズンかプレーしましたが、ドラフトがあることとそれが何を意味するかをかろうじて知っていた程度です。」

「マットはドラフト会議に出席した最初のスウェーデン人でしょう。最初は大騒ぎに圧倒されていたようですが、うまく対処していました。年の割にとても大人で、落ち着いていました。」

ヨーロッパ人選手を総合1位でドラフトすべきかどうかという議論がそれまでにあったかどうかルンドホルムは知らない。

「いろいろな考え方があるでしょうが、肝心なのはそれがとても簡単な決断だったということです。」と言う。「マットはこの年の最高の選手だったし、ミネアポリスに来るにあたって、彼が1位か2位指名を受けるだろうと確信を持っていました。」

サンディンが登場するよりも前にNHLで功績を挙げてスタンレーカップを獲得したヨーロッパ人選手は何人かいた。しかし、スウェーデン人をドラフト1位指名したノルディックスの決断は欧州革命の始まりだった。

サンディンのドラフトから25年が経過し、NHLでプレーするヨーロッパ人の数は大幅に増えている。ウェブ・サイトのquanthockey.comによると、1989年にはヨーロッパ系のNHL選手の割合は僅か9%だった。それが今では23%だ。Kontinentalリーグがロシアで実を結ぶ前には30%に近かった。

「89年には多くのロシア人とチェコ人も指名された。しかし、彼らは鉄のカーテンのせいでNHLでのプレーが叶わなかった。」とルンドホルムは言った。「ヨーロッパには非常に高い素質を持った選手がいて、素晴らしい選手を発掘することができます。そのことをNHLの各チームが認識する時期に来ていると思います。」

その意味で1989年のドラフトは特別な意味を持っている。これまで北米でプレーして最も活躍したヨーロッパ人の中にはその年にドラフトされた選手が何人かいる。デトロイト・レッド・ウィングスは総合53位でニクラス・リドストロム (Nicklas Lidstrom) を指名し、74位でセルゲイ・フェドロフ (Sergei Fedorov) 、221位にウラジミール・コンスタンティノフ (Vladimir Konstantinov) を指名して将来の成功の礎を築いた。一方、バンクーバー・カナックスはNHL史上最もダイナミックなゴール・スコアラーの一人、パベル・ブレ (Pavel Bure) を113位で指名し、獲得することができた。かつてNHLでプレーするヨーロッパ人選手に着せられた汚名は消えていないにしても、もはや障害ではない。

「ロシア人とチェコ人にとってはより大きな出来事だったでしょう。」とルンドホルムは言う。「スウェーデン人選手は既にNHLで受け入れられていました。しかし、マットはスウェーデンのプレー・スタイルがNHLでも通用することを証明しました。その意味で新たなドアを開いたと言えるでしょう。リンクの中でも外でも、彼のマナーはスウェーデン・ホッケーが今日得ている高い評価の基礎固めをしてきたのです。」

【1989年のドラフト・プレビュー】
1989年のドラフトが始まるまで、ほとんどのスカウトの間で総合1位指名はマッツ・サンディンかカムループスで56ゴールを挙げたレフト・ウィングのデイブ・チゾウスキー (Dave Chyzowski) かで意見が分かれていた。私たちが話を聞いたスカウトの中にはノース・ダコタのディフェンス、ジェイソン・ハーター (Jason Herter) を総合1位とするものもいた。ハーターはセントラル・スカウティングのリストで第1位にランクされていた。

あるスカウトによれば、チゾウスキーは「文字通りゴールキーパーを怖がらせる」至近距離からのシュートを得意としていた。ハーターは沈着冷静な選手だった。

幸いなことにThe Hockey Newsのドラフト・プレビューはサンディンを総合1位に挙げていた。「彼はフランチャイズを代表する選手になる可能性を秘めている」と、あるスカウトは語った。「サンディンは、大きくて、強くて、フィジカルで、素晴らしい選手です。もし、北米でプレーすることになれば、ピエール•タージオン (Pierre Turgeon) がそうであったようにマスコミが騒ぎたてることでしょう。」

サンディンの指名を躊躇させていたことは、兵役が1年間残っていたことと、ユールガーデン (Djurgarden) チームとの契約が2年残っていたことだった。ドラフトで1位指名した選手を丸2年間待つというのは後にも先にもごく稀なことだ。「ケベックやアイランダースのようなチームが考えなくてはならないのは『NHLに来るまでに2年かそれ以上かかるかもしれない選手をそんなに早い順位で取るべきか』ということです。何の偏見も持たずに、見てきたものだけに基づいて指名するのなら、その選手はナンバー1でなくてはなりません。」

ケベックはサンディンを1年間待つだけで済んだ。そして、サンディンは3チームで18シーズンプレーし、1,346試合で564ゴール、1,349ポイントを獲得して殿堂入りを果たした。

チゾウスキーは2位指名を受け、燃え尽きるまでにNHLで126試合に出場し僅か15得点を挙げたに過ぎなかった。ハーターはNHLでは1試合しかプレーしなかった。

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デニス・ギボン記 (By Denis Gibbons)

エミー賞を受賞したテレビのゲーム・ショー「What’s My Line ?」では、目隠しをされた回答者がゲストに質問を浴びせて、その職業を当てようとする。時には制限時間がなくなり、回答者が目隠しを外すと、そこによく知っている有名人がいるのを見てショックを受けることがある。

私は今回のオリンピック期間中に、ソチのアジムット・リゾート・ホテル&スパ (Azimut Resort Hotel and Spa) のスチーム・バスで同じような経験をした。バス内の温度は約110 F(43.3℃)で自分の鼻の6インチ(約15cm)先も見えなかった。

部屋の反対側に、杉でできたベンチから年配の男性のものと思われる2本の足がだらりと下がっているのが見えた。しかし、顔と上半身は完全に蒸気で覆われていた。

「NBCの関係者ですか?」と私が尋ねると、「いや、CBCだ。」という声が霧の中から聞こえた。

多分、国営放送局のカメラマンの一人だろうと思った。

そこで、その謎の男の仕事が一体何であるかを知ろうとカマをかけてみた。

すると「Hockey Night in Canadaのスターだ。」と彼は答えた。

それは本当だった。紛れもない事実だ。10,000万マイル(約16,000km)離れた黒海の海岸で、ほんの1週間前に80歳になったばかりのドン・チェリー (Don Cherry) と私の偶然の出会いだった。

このホテル、アジムット・リゾート&スパは黒海に面しており、ウォーキングやジョギングやサイクリングのための小道が海岸線をたどっている。ロシアと、グルジアの一部であるAbhazhia自治共和国との境界の壁まで歩いて僅か3マイル(約4.8km)の距離だ。ナイアガラ半島と同じく、Abhazhiaは広大な桃の産地だ。私たちは毎朝その桃を食べていた。

私が滞在した3週間、気温は50~65F(10~18℃)だった。ヤシの木がいたるところに茂り、元気な地元民が何人か海で泳いでいた。

ほんの600マイル(約966km)離れたウクライナのキエフで、ヤヌコビッチ(Yanukovych) 政権に対する抗議デモで82人が死亡したとは信じられないことだった。ロシアのテレビ局が街の広場での火災を映し出していた。それは私の過去6回のロシア訪問中に起こった大地を揺るがすような二つの出来事とは異なるものだった。その一つは1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故であり、もう一つは1989年のベルリンの壁崩壊である。その二つの出来事は共産主義時代の新聞、イズベスチヤ (Izvestia) の裏ページのたった3インチの記事でしか報じられていなかった。

心配されていたオリンピックへのテロ攻撃を防ぐためにロシアの沿岸警備隊の監視船が黒海の海岸線を毎日パトロールしていた。完全な制服姿のコサック兵がロシアとグルジアの国境を厳重に監視していた。

ホテルから約2マイル(約3.2km)離れた小さな村では、子供たちのための「文化とレクリエーションの公園」にレーニンの銅像が未だに異彩を放って立っているのを見た。何匹もの野良犬が街を歩き回っていた。中には足が3本しかない犬もいた。

有名人がそこら中にいた。グルジアへまで歩いて行った時には、セルゲイ・プロスクリャコフ(Sergei Proskuryakov) に出会った。今、世界で最も大きなバレエ団であるマリンスキー (Marinsky) 劇場バレエ団の副部長である。このバレエ団は閉会式が行われるアドラー (Adler) でリハーサルを行っていたのだ。1988年のカルガリー・オリンピックの華だったフィギュア・スケートの金メダリスト、カタリーナ・ヴィット (Katarina Witt) は毎朝私たちと同じ朝食ルームにいた。

アンカスター (Ancaster) 高校を卒業し、ハミルトン・デュークのジュニア・ホッケー選手だったブレント・ポウプ (Brent Pope) はBBCラジオで個性豊かな解説をしていた。ポウプはホッケーをするためにイングランドに移住し、そこを終の棲家としていた。

ニューアーク (Newark) からトロント (Toronto) への帰りの機内ではカナダの元スキー代表のトッド・ブルーカー (Todd Brooker) と一緒になった。ブルーカーもまたクラスナヤ・プリャナ (Krasnaya Plyana) スキー場でNBCと働いていた。私は12歳の頃、アクトン (Acton) で育ったが、彼の父親のチャーリー (Charlie) はヒーローの一人だった。私が覚えている最初のオリンピックはイタリアでの1956年大会だが、チャーリーはカナダ代表のホッケー・チーム、キッチナー・ウォータールー・ダッチメンの一員としてオリンピックに参加した。
(*当時はアマチュアの1チームがカナダ代表となっていた。)

1984年12月には、フィンランド航空カップ大会に出場したホッケーのバンタム・チームであるバーリントン・クーガーズ (Burlington Cougars) と共にフィンランドを訪れた。ジョカリット・ヘルシンキ (Jokerit Helsinki) チームのスターはテーム・セラニ (Teemu Selanne) という14歳の少年だった。 そして、30年後、私はセラニのオリンピック最後のゲームを見る光栄に預かった。今大会でフィンランドは銅メダルを獲得した。セラニはホッケー選手としてのオリンピック出場回数のタイ記録を持っており、スコアではオリンピック史上1位である。

今回、さらにエキサイティングだったのは、アメリカとの銅メダル・ゲームの第2と第3ピリオドの間にテームの妻シルパ (Sirpa) と父親のイルマリ (Ilmari) に会ったことだ。イルマリはその1984年のバーリントン対ジョカリットの試合を見たと言う。

子供の頃、セラニはラウマ (Rauma) という町のマイナー・ホッケー・チームでプレーしていた。その町は何年もの間、バーリントン・チームが国際試合を行うための姉妹都市だった。

ロシアのウラジミール・プーチン (Vladimir Putin) 大統領は多くのオリンピック会場を訪問したが、私は1度だけロシア対アメリカの男子ホッケーの試合でVIPセクションに座っている大統領を見た。各会場訪問の間、プーチンは「オリンピア」という政府専用ヨットで各地を回っていた。

カナダの女子ホッケーで決勝ゴールをアシストして金メダルを獲得したビショップ・トノス(Bishop Tonnos) 高校の卒業生ローラ・フォルティノ (Laura Fortino) は忙しい毎日を送っている。

自宅に戻って間もなく、ローラはオタワに飛んだ。そこでは、NHLのセネターズ対デトロイト・レッド・ウィングスの試合の前に、彼女とチーム・メイトがリンクで紹介された。その数日後、彼女はバンクーバーで、ブリティッシュ・コロンビア州でのセネターズ対バンクーバー・カナックスのヘリテージ・クラシックスで、同じ名誉を与えられた。

オリンピックでは、ローラの両親イグナシオ (Ignacio) とイヴァナ (Ivana) が私たちNBC放送の記者席とリンクの反対側の角にいた。アメリカ・チームが1対0でリードしていた第2と第3ピリオドの間に、私はやっとの思いで歩いて行き、二人のスナップ写真を撮った。二人は少し気落ちしているようだったが、それでも楽観的に見えた。

ローラがフェイントをかけ、マリー・フィリップ・プーラン (Marie-Philippe Poulin) に完璧なパスを送り、延長戦で決勝ゴールを決めた。私はすぐに望遠レンズの焦点を合わせてお互いに喜びのキスをし合っている夫婦の写真を撮った。

メダル授与式の前に印象に残る場面があった。ローラは両親のいるあのコーナーに振り返り、長年彼女を支えてきたことに感謝して手を振ったのだった。

選手のほとんどはその二日後にスウェーデンに勝った男子カナダ・チームを応援するために、ボリショイ・ドーム(Bolshoy Dome) に戻ってきた。

(*オンタリオ州ハミルトン市出身の)フォルティノは市議会で市長のボブ・ブラティナ (Bob Bratina) からお祝いの額を授与された。3月は1ヶ月間の休養を取り、4月からトレーニングを再開する。来シーズンはカナダ女子ホッケー・リーグ (Canadian Women’s Hockey League) でプレーすることを考えている。また修士課程をどこで取るかも考慮中である。

「左サイドで ”プー”がフリーになっているのが分かったので、落ち着いて直感的にパスを出せたのが良かったです。」とマリー・フィリップ・プーランへのパスについて語った。 「ソチの選手村にいたことはとても素晴らしい経験でした。」

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