そのころは、インターネットなどの発達により様々な情報がいくらでも入ってくる現在と違って、外国のことを知る機会は限られていました。

そういう意味で、1970年の大阪万博は多くの日本人にとって意義のあるものだったと思います。

野球は当時も人気のあるスポーツでしたが、オオタニ選手のような日本人がいなかったアメリカ大リーグがどのくらい知られていたでしょう。

まして日本ではほとんど関心をもたれることのないホッケーに関する情報がないのも当然です。

 

それでも東京都心には外国のスポーツのTシャツやレプリカのユニフォームを売る店がありました。

そういう店を見つけると必ず入りましたが、野球、バスケット、アメリカンフットボール、ヨーロッパサッカーのものはありましたが、ホッケーのものがあることはごく稀でした。

もちろん、見つけたら買いました。

 

少しでも何か手がかりはないものかと英字新聞を購読し、休日には新宿や銀座の洋書店を回ることが習慣になりました。

英字新聞には試合結果が出ていることがあり、たまに記事が載ることがありました。

それらを切り抜いて紙に貼り付けてゆきました。

試合結果だけでも私にとっては貴重な情報でした。

洋書店にはSports Illustrated というアメリカのスポーツ週間誌がありました。

ホッケーは野球、バスケット、アメリカンフットボールと並んで北米の4大スポーツの一つに数えられてはいましたが、他の三つほどファンは多くありません。

その雑誌でのホッケーの取り上げられ方も少ないものでした。

それでもたまに載る綺麗なカラー写真が嬉しくてなりませんでした。

もちろん、買いました。

表紙にホッケーの選手が出ていたりすると、さあ大変!

「他の人に取られてなるものか」と急いでそれを自分のものにしました。

周りには誰もいないんですけどね。

 

(初めてのカラー写真!)

 

また、洋書店のスポーツコーナーには本や写真集などハードカバーやペーパーバックが置いてありますが、ホッケーのものはほとんどありません。

しかし、ごくたまに、どういう風の吹き回しか、置いてあることもありました。

もちろん、買いました。

 

(最初に買ったホッケーの本)

 

そうするうちにだんだんNHLのことが分かってきました。

モントリオール・カナディアンズというチームが強いらしい。

そのモントリオールではフランス語が使われていて、カナディアンズは「フライイング・フレンチメン (Flying Frenchmen)」と呼ばれているらしい。

フィラデルフィア・フライヤーズという乱暴なチームが優勝したらしい。

 

(Flying Frenchmen:フライイング・フレンチメン)

 

いつでしたか日本でNHLの試合がありました。

1975年ころだったと思います

「NHL初来日!」と銘打ったシリーズ。

来日したのはWashington Capitals(ワシントン・キャピタルズ)とKansas City Scouts(カンサスシティ・スカウツ)。

もちろん喜び勇んで見に行きました。

東京の代々木体育館で2試合。

しかし、なんだかパッとしない。

私に目を開かせてくれたテレビで見たあの試合に比べるとぜんぜん面白くない。

それまでに集めた数少ない資料で調べてみると、両チームともそれぞれが所属するディビジョンの最下位。

その試合は4月だったと思いますが、4月といえばプレーオフが始まっています。

つまり、プレーオフに進出できなかった2チームが来日したというわけです。

しかも、後から知ったことですが、当時のワシントンは年間80試合の公式戦で8勝しかできなかったチームでした。

これは公式戦が年80試合以上になってからのNHL最小勝利数記録のはずです。

 

逆にそのころのモントリオール・カナディアンズは年間80試合で8敗しかしなかったほど強いチームでした。

これもいまだにNHL記録です。

 

「モントリオールに行きたい!」

 

そう思うようになりました。

 

この「NHL初来日!」についてよく覚えていることがあります。

プレーではなくオルガンもことです。

本場のホッケーを真似たのでしょう、試合が止まるたびにオルガンが弾かれました。

しかし、本場で流れる柔らかで軽快な音とは違い、キンキンして、とても耳障りでした。

そう感じたのは私だけではなく、そのオルガンが弾かれるたびに場内からは「うるさい!」「やめろ!」という野次の嵐。

オルガンメーカーとしては最新機種の音の良さを披露したかったのかもしれませんが、むしろ逆効果でした。

 

 

 

私がホッケーがカナダの国技であることを知ったのはその2年前(1970年)の大阪万博のカナダ館でのことでした。

 

この大阪万博では月の石や宇宙ロケットの展示でアメリカ館やソビエト館には待ち時間が3時間を超える大行列ができていました。

私はそういうものには興味がなかったし、なにより並ぶのが嫌だったので並ばずに入れるアフリカやアジアなどの国の小さなパビリオンを見て歩きました。

カナダ館は建物は大きかったのですが、誰も並んでいなかったので入ってみました。

五つくらいの部屋を順番に回ってゆくと、それぞれの部屋でカナダの自然や産業を紹介する短い映画が上映されていました。

特におもしろいことはなく来場者が少ないのも当然だな、と思いました。

最後の部屋ではマス目で表現するアニメーションが流れていました。

事務所やビルの建設現場など様々な職場で働いていたり学校で勉強したりしている人々。

それが、ホッケーの試合が始まると一斉に仕事や勉強をやめてテレビの前に集まります。

試合に熱狂する人々。

そして、試合が終わるとまたそれぞれの仕事や勉強に戻る。

そういう内容でした。

五つのテーマの一つとしてホッケーが取り上げられていることに、カナダの人々にとってホッケーがいかに大きな意味を持つものなのかを知りました。

これが私とホッケー、それもカナダのホッケーとの出会いと言って良いでしょう。

 

最近聞いたことですが、今年4月の総選挙に向けたテレビ討論がおこなわれる予定だった時間にMontreal Canadiensがプレーオフ進出を賭けた試合をすることになったため、討論会の時間を早めたそうです。

 

さて、話をカナダ対ソ連戦に戻します。

 

当時、オリンピックも世界選手権もソ連の独壇場でした。

それは、そのころはオリンピックも世界選手権もプロの出場が許されていなかったことが理由です。

しかし、ソ連の選手のほとんどは軍人ではあるものの兵役に就くことはなく、ホッケーが「仕事」でした。

これはホッケーだけではなく、他のスポーツや文化活動でも同じでした。

今のロシアでも同じかもしれません。

そのことによって普段も引退後も生活が国によって保障されている。

これは紛れもなくプロではないか。

そういうソ連の選手はオリンピックに出られるのに「プロ」は出られない。

カナダがオリンピックなどに送れるのは大学生かプロになる手前の若い選手だけでした。

アメリカではカレッジスポーツが盛んで、そこでドラフトされてプロになることが多いようです。

カナダでプロを目指すには高校卒業後、大学へは進まず、一応アマチュアのジュニアリーグというリーグに属するチームに入ります。

16歳から20歳の選手で構成されるこのジュニアリーグにもいくつかのレベルがあります。

いずれはプロになる選手とはいえ、ホッケーを「仕事」にしているソ連にはかないません。

加えて、1972年当時の国際情勢は冷戦の真っ只中。

スポーツの世界でもオリンピックなど以外での東西の交流はあまりなかったでしょう。

「だったら真の世界一を決めようじゃないか」ということで実現したのが「Summit Series」と呼ばれるこの試合でした。

カナダの4都市とソ連のモスクワで4試合、計8試合おこなわれました。

 

誰もがカナダの圧勝を信じていて、合宿中も試合前もリラックスムードの選手たち。

しかし、モントリオールでの初戦、7-3でソビエトが勝ったのです。

慌てたのは選手たち。

試合会場のフォーラムはふがいないカナダにブーイングの嵐。

その後、カナダはなんとか立て直し、最終的には4勝3敗1分でカナダが辛くも勝ち越しました。

勝ち越しを決めた最終戦の決勝ゴールの場面は旧ホッケーの殿堂に人形で再現され、このシリーズについての本やビデオが出るほど歴史的な勝利でした。

 

(サミット・シリーズの本)

 

当時中学生だったカナダ人の友人から聞いたことですが、このシリーズの試合の日は授業をやめて体育館に集められ、小さな白黒テレビでその試合を観たとのことです。

 

image

(勝ち越しを決めた1点を取ったときの様子を描いた絵)

 

私が偶然テレビで見たのがこのうちのどの試合かは分かりませんが、まだホッケーのことをほとんど知らないながらも大きな衝撃を受けたのでした。

そして、「いつかこういう試合を生で見たい」「カナダに行く!」という夢を抱いたのです。

ですから、私は最初からプロホッケー、 NHL (National Hockey League) に目が向いたのです。

その後、日本リーグや国内でおこなわれた日本チームと外国のチームとの試合を見、あるいは世界選手権の結果を気にしつつも、常に頭にあったのはNHLでした。

 

時を遡って1972年。

私がホッケーに目覚めた年です。

この年に札幌オリンピックがありました。

スキージャンプ70mで日の丸飛行隊がメダルを独占。

転倒にも関わらず笑顔で人々を魅了した氷上の妖精、フィギュアのアメリカ代表ジャネット・リン。

覚えているのはそのくらいで、ホッケーについてはまったく関心がなく、日本のホッケーチームが活躍したらしいという記憶が微かにあるだけです。

その「活躍」も本当だったのか私の記憶違いなのか、分かりません。

 

その年の暮れに近いころだったと思います。

NHKで偶然見たホッケーの試合。

外国の試合でした。

なんとなく見ているうちにだんだん画面に目が釘付けになりました。

「なんだこれは!」

「すごい!」

それまでどんなスポーツでも見たことのない早くて力強い動き。

ただでも激しいホッケーの試合ですが、白のチームの選手はヘルメットをかぶっておらず、よりいっそう荒々しさを感じました。

中でも私の目を引いたのは小柄ながら誰よりも早く滑ってゴールに向かってゆく12番。

そして、いつもそこから攻撃が始まる7番。

その試合を見ているうちに心の中に「こんな試合を生で見たい」という気持ちが芽生えたのでした。

なにしろ、日本ではホッケーの試合はほとんどないし、ましてプロホッケーや海外の試合は皆無なのですから。

 

その試合は1972年9月におこなわれた「Summit Series(頂上決戦)」と呼ばれるカナダ対ソ連の試合でした。