パノラマ展望台のトレッキングから帰ってきてトンネルの中へ戻ってきました
トンネルの中は涼しくて気持ちがいいです。
階段で上がらなければならないほどの急勾配にもトロッコ軌道が敷かれています。
こんな急坂をトロッコが・・・・登る姿を見てみたいものです。
線路わきに敷かれた鉄板の上を歩いて戻ります。
ポイントの信号機もありますね。
所々は素掘り状態でコンクリートが吹き付けてありました。
線路内にいるのは工事関係者です、私たちは鉄板の上を歩きます。
トンネルの中でも植物が・・・・・逞しいですね。
トロッコ電車の見学の時間です。
凸型機関車は運転席が横向きについています
右と左を見れば、進行方向と反対方向を確認できるので便利ですね
ここには架線が張ってないので、バッテリー駆動の電気機関車でした。
湿気で曇るのでしょうか、客車の窓にはワイパーが付いてますね。
車体には関西電力のマークがしっかりと標されています。
連結器はこんな感じでした。
峡谷美人というのはゴミ運搬車のようです。
環境を守るためにはこんな貨車も必要なのですね。
上部専用軌道は、欅平上部駅から黒四発電所前まで繋がっています。
黒部川第三発電所関連施設の仙人谷ダム建設に伴い、工事用資材を運搬するために選任谷まで建設され、
黒部川第四発電所関連施設建設のために、さらに仙人谷から黒四発電所前まで延伸されたのです。
仙人台までの建設工事では、仙人谷 - 阿曽原の第一工区、阿曽原 - 志合谷の第二工区、志合谷 - 欅平の第三工区に分けられます。
第二・第三工区では比較的順調に工事が進捗しました。
しかし、第一工区では本坑工事を開始した1937年(昭和12年)頃から、掘り進めるにつれて岩盤温度が上昇し始めます。
当初は摂氏65℃程度であったが翌年の7月に100℃を越え、最終的には166℃に達したのです。
坑内の気温が上昇する中、作業員の体に黒部川の冷水をホースでかけたり、坑内を冷却する散水装置を設置するなどして作業を続けたましたが、熱中症で次々と作業員が倒れてしまいます。
1938年(昭和13年)8月23日には、切端でダイナマイトの装填作業が行われていた最中に、地熱でダイナマイトが自然発火する暴発事故が2箇所同時に発生し、装填作業を行っていた作業員のうち8名が死亡、6名が重傷を負ってしまいます。
事故が発生した当時の岩盤温度は摂氏120度に達していて、事態を重く見た富山県警察部から工事中止命令が出されましたが、電源開発が国策であることと、日本電力が社運を賭けていたために工事は続行されたのです。
岩盤からの熱伝導を防ぐために、ダイナマイトにはエボナイトやボール紙、割り竹などを被せて対策が施されましたが、暴発事故はその後も相次ぎ、多くの人命が失われる超難工事となっていました。
そんな悲しい歴史と共に、このトンネルとダムが完成し、日本の電力が賄えるようになっていったのですね。
岩盤温度が高い超高温区間は「高熱隧道」と呼ばれ、現在では冷却用の導水管などの敷設により温度は下がっているそうです。
それでも平均40℃とまだまだ高熱であり、さらに十数年に1回程度は異常高温で導水管が機能不全となって運行中止になる場合もあるそうです。
「高熱隧道」の近辺の隧道には硫黄が付着し、特に高温の区間では壁面がコンクリートで補強されています。
この区間を建設するための過酷な工事を紹介したものとして、吉村昭の小説『高熱隧道』がありまして、私も学生時代に読んだ記憶があります。
いまでは、工事関係者用の便が定期的に走っていて、ダムなどの保守がされているようです。
手掘り感の残るゴツゴツとした岩肌が、難工事を物語っているように見えました。
トンネル内の温度は15℃で湿度が95%でした。
涼しいけれど、トンネルに靄がかかっているのは湿度が高いからなのですね。
これからエレベーターに乗って欅平下部駅に戻ります。