◆永久保存版・サルバトールムンディ~最後のダ・ヴィンチの真実 集英社 | 異端のTourism Doctrine

◆永久保存版・サルバトールムンディ~最後のダ・ヴィンチの真実 集英社

 

 

 

 

 

 

最後のダ・ヴィンチの真実

集英社・オフィシャルプロモーションpdf

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昨年の秋 ____________2020年10月20日。

集英社がやってくれていた。

 

なんど連絡をしても、折り返しの電話をくれない大切な存在。

いつまでたっても既読のサインが点灯しないチャット。

そんな思いを抱きながら本のタイトルを眺めていた。

寧ろサルバトール・ムンディの存在が私にとってはそれにあたる。

 

今日の未明。

インターネットであれこれやっていると、この本のpdfがプロモーションされているのを見つけた。

40ページ以上にわたるイントロは既にイントロではなく"ファースト・リフ"までを読ませるサービスぶりだ。集英社さんの意気込みも伝わる。

一気読みだった。

 

書評や、購入者の読後感などを読んでみると概ね好意的ではあるものの、有体に申し上げれば"身内びいき"を感じられなくもないのが些か持ち上げ過ぎては無いのかとも思えたのは事実である。

この辺りは、へそ曲がりなここの筆者のこと。

人の意見や、人の評判に頼るまでもなく、我が身をもって体験、経験、確認するまで腹に落ちることは無いからして仕方がない。

 

ただ、結局のところ登場人物の凡てが"宗教的"ドグマからの解放を得ることなく、可能性に及ぶことなく、置き去りのまま話は進むようだ。

まぁ、寧ろ話はその方がつごがよかろう。

ダ・ヴィンチをテンプル騎士団の会員と見立てる辺りは"当たり前"の枠が前提として存在することを感じさせるのである。

"諸説"あるが、ここの筆者としてはフリーメイソンの会員であったとする読み方に倣うほうが、サルバトール・ムンディの意味を増幅させるに繋がるのだ。

人間の~そして男女の融和。時は人文主義(ヒューマニズム)が脚光を浴びでいた時代であり、芸術家、文化人がこぞって参加していたメディチサロン~即ちネオプラトニズムが文化の枢軸を担っていた時代である。

 

して読み込むなら。

サルバトール・ムンディの意味も自ずと見えて来よう。

 

我思うことであるのだが。

やはり、欧米人______________________一神教の国々に住まう人々にとってのあの画の価値は、経済的な価値と政治的な価値、即ちパワーゲームの材料程度にしかならぬのだろうという処として落ち着くのである。

そういう意味においては書評や読後感のすり合わせは概ねマッチングする。

 

マーティンケンプ教授も口にした「ダ・ヴィンチの手による人物画」という評は、甚だ不遜ながら海の向こうの東の辺境の地から送られた一本のメールが引き金となった可能性を"私"は否定できない。

一神教世界に住む人々にとっては、あの画は「イエス・キリスト」以外のものが入り込む余地はないのだ。

 

しかし、描き手のダ・ヴィンチかもしれぬ芸術家にとっては~救世主~この世を救う者(サルバトール・ムンディ)の存在は、それ以外のものであったかもしれないのである。

ルネサンスとはそういうものが存在することを学び始めた時代であるに他ならないのであるからして。

 

まずは"手にしたのち"にもう一度( ´∀` )ワクワクwww

 

~了~

おかげさまで______________。