校了版◆ダ・ヴィンチへの旅と「サルバトール・ムンディ」への俺流対峙姿勢 | 異端のTourism Doctrine

校了版◆ダ・ヴィンチへの旅と「サルバトール・ムンディ」への俺流対峙姿勢

◆ダ・ヴィンチへの旅と「サルバトール・ムンディ」への俺流対峙姿勢

 

予定通りの進捗をみせている。

他人ごとの様に描き始めたが自分のことだ。

先週は仕事と断捨離と小説の見直しとアートジャーナルへの投稿原稿の執筆に時間を取られブログ迄手が回らなかった~というのが真実。

ここのフォロワーの皆さんの原稿には可能な限り目を通させて頂き、勉強をさせて頂くことは続けてきた。

みなさん本当に一生懸命原稿を書いておられることに私も触発されている。

この数日、ブログをアップしていないにもかかわらず、アメブロからのアクセスを頂戴することも毎日少なくなく

心から感謝申し上げる次第でございます。

 

 ここの性質というのは、概ね、それぞれの描かれた文章から滲み出る雰囲気を拠り所とし、時局毎の脳味噌の中身を推し量ることも可能である。寧ろ、取り繕った書き方をしたところでバレバレになる場合が少なくはないのだが、時折、ふーん~そう取られるのか~そう読まれるのか~というのも散見されるのが淋しい処でもあるのだが、それらは概ね考え過ぎに分類される_______________。

 フワッと実態から離脱した高い処から眺めてみると"またやってるわ"と看えてくることもある。が以前書いたように、一方通行型の交換日記的性質も持たせることも可能であるからして、読み方としては件のような読み方も成り立たせることも楽しみ方のひとつだろう。

 

 

 さて、読み方といえば"文章(ブログ)"だけではない。

画の観方というものは"読み方"に通じるのだが、これも一方通行の交換日記に似る。「反応が拾えないではないか」という声もあろうが、反応は拾えると書いておこう。以前、画の中に過去・現在・未来を観るという話を描いたのだが、研究目的ではない観方をした時。眺め手の心のあり様によって、過去・現在・未来は見せてくる切り口を異ならしめる。

 

 シロウトがあまり無理して難解なテーマに取り組むと云うと、本質を見誤ることに通じるからして、しっかりとした良書に向き合い勉強を重ねることが容易でない場合は、精々、美しいか美しくないかという、個人の価値観に頼ったところから眺めてみることが落ち着きを得やすいのだが、なまじの勉強らしきものを背景と見誤ると、やれタッチだなんだと、結果的にエヴィデンスにもならないグダグダを描き殴って終わりを迎えてしまうのが常のようだ。

 

例えばだが__________________

 

これまで、凡そ数万人の方に読んで頂けている関連ブログの一本だが、この9年間に19本の原稿を描いている。

「サルバトールムンディの意味 俺流解析総集編」

 

 
 
有難いことに、どうやらここにお運びの皆さんの中でも、ファンは少なくないようであり________________。
専門家と云われる皆さんから、オフィシャルファン、隠れファン、そして、否定するくせに無視できなく、無視できない自分に気が付いていない気の毒な御仁迄~最後の御仁などは、まるで憑りつかれた様な塩梅であるからして精神的な疲弊を想うと、寧ろ心配になってくるのであるが、どのような背景からであろうと、お運びには感謝申し上げる次第。
 
 さて、"読み方"に話を戻すが、こういう画が出て来る度に「真筆」か否か~という議論が巷間を賑やかすことになる。
にわかヒストリアンや、にわかダヴィンチ研究者が登場し、これは真筆だ、真筆ではないという議論に血道を上げておられるのだが、そもそもこの時点で"にわか"の限界は、底が見えているということに気付く必要があるのだが、残念ながら思い込みに支配された御仁にとっては、そこすら重要と気が付くことは無いようであり、不毛な論争が続く。
 真正の専門家は概ねこの階層で賑々しく繰り広げられるディベートに加わることは無い。優しい一言だけを用意している。「それをひっくり返したいのなら、論文の一本ぐらい、書いてみることをお勧めする。」と。
 浅はかさという言葉を知る者は、このタイミングで概ね赤面することになり、早々に「有り難うございます。」と腰を低くするものだが____________。
 
 さてもしも、この画をダヴィンチの真贋論争の対象として取り組むことを本格的に試みるのであれば、その御仁は2500年の時空を超えた"旅"をする必要がある。
そして、それは概ね数十年の時間をかけて2500年の旅をしなければならないという、気の遠くなるような旅の中に身を置かねばならないと気付く必要があるだろう。

ただ、過去への旅の有難さは「先達」がいるということに尽きるだろう。

一人きりではない。心細くなることは無い。良き先達に巡り合っておけば道を誤ることも無かろう。

 
 身の回りのご友人や、優しい目で眺めてくれる身の回りの知人に、自分の考えを聞いてもらっているうちは、優しい眼差しを頂戴することが出来るであろうからして、痛々しい存在となることは無い。
「うんうん、そうだね、きっと違うよね、モナリザと違うし、洗礼者ヨハネと全然違うし、真珠の耳飾りの少女とは全く違う雰囲気だし」
と・・・まぁ、ダヴィンチの実物を見たこともなく、若しくは一枚観ただけの感覚を頼りとして、フェルメールやダヴィンチがごっちゃになってしまうような芸術文化と縁遠い人々からの優しい眼差しを得ることを目的とするのなら、それもそれで良いのだが、学問として確立された世界に旅の収穫も無いままに飛び込む様子は、ドン・キホーテさながらの痛々しさを伴うことになる。
 
 
 
 敢えてこの画についての来歴は紹介を留め置く。ここまでの原稿と読み合わせて頂ければ、意味が分かる様に読んで頂けるだろう。
悪しからずご容赦いただければ有難い。
 
 ご存知のように、ここに登場する「サルヴァトール・ムンディ」に関連した原稿の凡てにおいて、私は「ダ・ヴィンチ作と云われている」としている。
 私のような素人が、こういう人知を超えた世界に存在するものに接する上で、最低限守るべきルールは、プロフェッショナルへの配慮を見せる姿勢前提であるべきだろう~という道理に支配されているからに他ならない。先達たちだ。
 
 学びに使った時間は素人には想像もつかない_____________寧ろ、常人とは呼び難いほどの時間を使っておられるだろう。
それが出来る人、その執着に迷いを持たない者だけが「専門家」として存在を許されるのである。
 
そういう研究者が導き出した「学説」であれば、そこを前提として不可侵にしておくことが求められる。
寧ろ、踏み込むのであれば、それ相応の学説や諸説に分類されるノート程度の発表はしておく必要もあるだろう。
 
 さて、ここまで書くと、素人のお前がいう「俺流解析」も同じではないのか~という疑問も沸き起こってくるのだが、画の観方という学問と、真贋という鑑定に通じる学問は地平が異なるという前提を知っておかなければならない。

 

 画には(芸術には)タイトルとテーマが存在する。
タイトルはタイトルでしかなく、「誰が描いた何というタイトル」という事実を検証するための存在に過ぎない。ここを飛躍させることは本質から離れることになる。
 
 しかしながら「テーマ」はそうではない。
極めて"観念的"なベースから派生しており、寧ろ作者の恣意的な部分、作為的な試みを通じ表現される。これは作者と画の中に旅をしなければ知る(推測と理解)ことは出来ないだろう。
これを証明する行為というのは____________多分、今の時代を生きる人間に可能性を求めるのは酷な話と想える。
将来、出てくるかもしれないが。現時点においては、口寄せでも試みるか、霊媒師に依頼してみるか、心霊研究という切り口からでなければ可能性は見出せまい。
 
オモシロい話をひとつ紹介しよう。
「ダ・ヴィンチは、この画を描いていないと云ってたよ」というツイートを目にしたことがある。
これはとても面白い。
この御仁が、真贋論争をあざ笑い、観念的世界への旅でしかないということを、狙って書いたのであれば相当にキれ者とも読める__________________。
 
【我々は我々が見るところのものに執着するのではなく、 それを超えた思索に赴かねばならない】

※ヴァールブルクコレクション・シンボリックイメージ「前書きと覚書き」からの抜粋

凡てはヴァールブルクの言葉に要約されていると眺めてみると落ち着きは良い。

しかし、この本の中への旅を終わらせずに、この言葉の本質を理解することは出来ないというのも中々のハードルではある。好きな人しかやり込めまいね。

 

 どちらにしても、この万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの描く画というヤツは、人の気がふれてしまうところまで誘う程の魅力に溢れていることは間違いない様だ。

 

 さて~以前も描かせて頂いているが、一応、この説(内容は上段リンク参照)の言い出しっぺとして申し上げておくが、アートジャーナルへの入稿と、国内での小説化を目指し、自説の責任を果たすことを目標としている。

 

 何なら、世界中のアートジャーナルへの投稿すら目指してみたい。

それをする理由は何処にあるのか~何がそこまで執着の原動力とさせるのか~と問われれば、アイデンティティーという一言で収まりはつくのだが________________。

 どれほどの芸術作品がどれほど宗教的ドグマによって縛られてきただろうか。

どれほどの芸術的試みが、宗教を背景とした庇護と圧政の中に沈んだだろうか。

どれほどの芸術家が、生きるために失意の中での創作活動に身を投じたろうか。

それを想うと______________多分、この解放に執着できるのは日本人しかいないと想えるのである。

 ボキャ貧、表現力、知識、知恵、学び~どれをとっても寸足らず。

仕方がないので最後まで持ち続け、挑戦を続けてみたい。

 

 物はついでであるので併せて記しておくが、「ホロフェルネスの首を切るユディト」は現在、2作品が見つかっているが、未だ見ぬ3作品目をイメージした小説は校了間近だ。

先に、サルバトール・ムンディを終わらせてから校了に取り組みたい。

 

 

想像は創造に通じる。

これを試みる執着に限っては万能ともいえることを押さえておきたいものである。

 

 

~了~

おかげさまで___________________。

 

初 稿 2020/06/14

加筆修正 2020/06/16