◆サルバトール・ムンディの意味「俺流解析総集編」 | 異端のTourism Doctrine

◆サルバトール・ムンディの意味「俺流解析総集編」

お陰様で息が長い原稿の一本。お運びに心から御礼感謝申し上げます。

さて、今年(2022年5月)の加筆部分に"極一部"クオリティーを下げる表現が散見されましたことから22/09/14に削除しております。これはとても珍しいことであり(笑) 我が内に健全なる価値観の機能を見た思いであります ! ! 
 「おそい」「もっと早く気付け」等々お考えがあろうかと存じますが…(笑)
 わたしも人間、それぞれの先様同様に「ケッタ糞」を抱え見せることもあるのです(笑)
ただ、概ねこれらのケッタ糞は向けられたが故に応えているだけであるからして、個人的に我をグラウンドゼロとして向けることはありませんので悪しからず。

仲良くしてね♬(笑)

 

■ご案内

 さて、日本だけに拘らず世界中からアクセスを頂戴しているこの原稿。昨年暮れから今年の初めにかけては、英文、仏文、日本語のノートも書き上げ、伊文も間も無く仕上がる見通し(小説優先なので少しずれるが)。西文までは仕上げておきたい。

 なぜこの作品にこれ程思い入れがあるのか。今日はそこを紹介しておきたいと思う。

これはあくまでも"アマチュア"が感じることだからして、本職のヒストリアンや芸術美術の専門家であり、世の先生と呼ばれる人々の目線から眺め観た時に同じ結論にはならなかろう。不遜な言い方に聞こえたら申し訳ないが、私にとってはそれすら興味の対象となることは無いのだが。

 ただ一点。美を愛する人として、芸術を慈しむ人間としての根っこを何処に張るか。私にとってのプライオリティーはそこに尽きる。

 それは、この画家は何を描いたのか。画を通じ何を云いたかったのか。

 

 如何だろう。数多芸術と云われるものの本質はこれ以上でもなければこれ以下でもないのではないだろうか。

 

 惜しむらくはこの画がエンターテイメント的切り口から取り上げられることなのだが、どの道芸術の価値とは多様な側面も併せ見せる。

 ただ、忘れてはいけないのは… 人は芸術に触れたとき一番最初に考えることは、この画は幾らだろう… ではない。この画は偽物かもしれない… でもない。

「この画は何を描いたのか、この画は何を表現したいのか」

ここが人間の根っこである。

根を置き去りのままに芸術に触れたところで「美」の本質は読めまい。

私とこの画の旅はそれ以下でもなく、それ以上でもないのです。

2022/07/16

 

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2022/01/08  ダ・ヴィンチ サルバトール・ムンディ 

俺流解析研究ノート完結編 ファイナルドラフト完成 !

 本稿は、およそ10年に渡り各種文献などを参考とし、まとめ上げたものであり、2011年7、8月に書かれたこれらブログの解析原稿とは詳細部分に解析結果の違いもあります。一つ言えることは、やはりこの画は、複数人の構図で描かれたものであると観ることが相応しく、それは明らかに男女の構図を対角線上に組み合わせたと観ることに合理性が見いだせるという結論です。また、その男女が「何」をアレゴリーとしていたかは、観るものに委ねられるべきかもしれません。

 結果申し上げられることは、ある種恣意的な「宗教的ドグマ」に支配されたところから眺めると、本作の本質を見誤る危うさがあり、客観的視点を持ち得たうえで、宗教と信仰に基づくのか、人本主義的観方に基づくのかが重要とみることが出来ると考えています。

どちらにしても、宗教と信仰、人本主義これらを寓意として顕した、まったく人騒がせであり、ダ・ヴィンチらしい、問題作であると眺めることが相応しいと落ち着けておくべきかもしれないと考えるのです。

2022/01/30

筆者

 

 

英語版

 

フランス語版

 

御礼とお詫び

 この度は、サルバトール・ムンディの意味「俺流解析総集編」にお運びいただき、誠にありがとうございます。ごめんなさい。当時はブログを書き始めて間もないこともあり、本当に不遜な書き口になっており、さぞかし読みにくいかと存じます。その様なところへお運びいただけましたこと、衷心より御礼、お詫び申し上げます。 

 

 特に、芸術や絵画を学んでおられたり、人文学、史学系のご研究をされておられる「専門家」の皆さんにするなら、これまた、なんとも笑えてくる書き口に閉口されるかもしれません。ご寛容くださいね。

 8年前の原稿、今さら手を入れるのも「潔し」とは思えず、当初スタイルの儘としております。因みに、小職の背景ですが、旅行会社勤めと関連の事業に携わる時間が30年以上あり、この間に世界中の美術館、芸術作品、歴史的建造物に触れさせていただくことが出来、その関係から、学際的ポジションからこれらを学ぶ機会を持つことが出来ました。最近では、小説を書くための学びとして、これらを勉強しております。

 

 素人と変わらぬ身ではございますが、信条として「ゼロ起点」を知るということに基づいており、執着を観たものは、ゼロまで深掘ることを旨としております。500年前に活躍したダヴィンチも、紀元前500年前まで遡り、学んだ画家の一人。現代に生きる私たちがダヴィンチを知ろうと思えば、2500年を学ぶ必要があるでしょう。多分、歴史家として絵画の研究をされておられる研究者の皆さんは、そうして学ばれたことと存じます。

ここの管理者の私なぞは、急所急所を俯瞰するのが精いっぱいでした。

 ただし、一つ申し上げられることは、執着した興味対象に向かい合っては、可能な限り近寄るための努力をします。

ロンドンのマーティンケンプ教授への押し掛け自説の押し売り然り、ルーブルアブダビへのレポート然りです。執着したら、まずは疑ってみること。

 

 なにせ、あの時代を生きた芸術家は、"経過年代"を画に顕すという特殊技能を身に着けているのですから。疑ったら深掘ってみると、違った見方が出来そうです。

これがダイナミズムでしょう 

ほんとに読みにくくてごめんなさい。

是非、面白がってお帰り下さい。敬具 2019/11 吉日 

 

【我々は我々が見るところのものに執着するのではなく、それを超えた思索に赴かねばならない】※ヴァールブルクコレクション・シンボリックイメージ「前書きと覚書き」からの抜粋

2018/04/10 ルーブルアブダビからの返信

Thank you for contacting the Louvre Abu Dhabi,

’The Da Vinci’s Salvator Mundi is (indeed) coming to Louvre Abu Dhabi.

More information will be posted on our website when we get them as we have nothing confirmed in the meantime.

Kind regards, Pharlon

Louvre Abu Dhabi Visitor Services Team

やはり。。。皆様、あとは粛々とリリースを待つのみでございます。

 

「サルバトール・ムンディ」のこれまで伝えられている、客観的事実関係


◆◆◆to be loved in japan◆◆◆-サルバトール・ムンディ

作 者 レオナルド・ダ・ヴィンチの手による、

     真筆との鑑定結果が出ている。

題 名 Salvator Mundi「救世主」と訳されてい

     る。サルバトール・ムンディ
 ラテン語においては、「世界を救う者」という意味もあり

同義語に「メシア」=「救世主」も存在している。 

 描かれた年代は1500年前後と解析されている様だ。

 所有者の来歴は「チャールズ1世」・・・ピューリターン革命で処刑

後に、「チャールズ2世」へと受け継がれることになった。

 その後200年以上の長い間、行方不明の状態であったようだ

 

縦約 65センチ 

横約 45センチ 

ウオールナットに描かれた油彩画

 

2011年11月9日よりロンドンナショナルギャラリーの「ダ・ヴィンチ展」 て出展されることが決まっている。ニューヨークのart news では、この絵を「キリスト」と説明しているのが興味深い。宗教画の世界(キリスト教的ドグマ)では右手の印は「神からの祝福」を意味していると考えるのが一般的な様だが・・・ 

左手の手の上に乗っている球体は「世界・地上」を表すと考えられるのが、一般的なようだが・・・

さて、一部来歴等において文章の都合上、説明を割愛させて頂いていることを付け加える。

 

■「サルバトール・ムンディ」の俺流解析「俺流仮説」

 1.絵から受ける印象  

さて、左上の写真~「絵」を見せられた時、だれもが一見してキリストだと思うことだろう。しかし、見れば見るほど、居心地の悪さに似たものを感じるのは、私だけではあるまい。なにか、「キリスト」と云う一言で片づけてしまうには「釈然としない」思いが残る。それは、左右のアンバランスさに起因したもに他ならないだろう。  

7月16日に私のブログ「サルバトール・ムンディ俺流解析」 にアップした4分割画像をご覧頂きたい。


◆◆◆to be loved in japan◆◆◆-サルバトール・ムンディ 解析1
◆サルバトール・ムンディ4分割画像

 

如何だろうか、こうしてみると明らかに左右のバランスの違いに気がつかれることだろう。  

どう見ても、向かって左半顔は男性の顔、向かって右半顔は女性の顔に見える。

しかし、向かって左下、胴体部分は女性の体つきに見える。

向かって右下の動体は男性のものに見える。 

即ち、この絵の構図は対角線上に対をなす人物画であると言えるだろう。

 

後ほど、対角線の構図にした時の画像をアップするが、その前に部分的な考察をしてみよう。 

下の画像と上の画像を比べてみるとより判り易いだろう。


◆◆◆to be loved in japan◆◆◆
「サルバトール・ムンディ」4分割 解析画像


頬骨周辺の描き方の特徴だが、男性の顔と思しき向かって左側は、ガッシリと、えらが張った顎のライン。

そして逆三角形に描きこまれた頬周辺の薄い肉付きが特徴的なのことが判る。右側は、シャープに削ぎ落された顎のラインが明確だ。

そして、頬の肉付きは豊かであり、丸みを帯びている

非常に微妙だが、まゆ毛の角度も違いがある。

目の感じも明らかに異なっているだろう。 

2番を見て頂きたい。 

控えめな胸の膨らみが伺える 

ブルーの洋服に陰影をつけて楚々としたふくらみを齎せたものだろう。 

また、茶色の帯も同様に陰影をつけている。 

上部は明るめにし、下は暗めにしている。 

3番は持ち上げられた衣服が茶色の帯にかかっているのが判る。 

胸があるために衣服が持ち上げられ

下にたるみが出来たことによるものと、観ることが出来るだろう。 

4番を見て頂くと判るように、服がかかっていない。  

1番は筋肉の発達が伺える様な描き込みになっている。これは上の4分割画像を参考にすると判り易い。 

さて、以上のことから、ここで一つの仮説を立ててみる。

この絵が、専門家の鑑定により「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の手による真筆だという前提である。

サルバトール・ムンディは「キリスト」ではなく、キリストの持つ「神性」というフィルターを通して「男女」を描いたものではないだろうか。 

この絵の構図からは、それ以外の答えが導きにくい。

「意味づけ」はいかようにも出来るだろうと考える。

しかし、何が・・・何を・・・・描きたかったのか・・・は、意味づけではない。

レオナル・ド・ダビンチという人間を知れば知るほど、学べば学ぶほど「意味づけ」が無意味なことに気がつく。

弱い。8年という時間の経過を背景として眺めた時。私が申し上げたいこととは、幾許かの乖離を観る。というより、選択すべき言葉の誤りだ。しかし、ここを、ここで今、修正することは、ある事情から出来ない。8年の間に勉強したんだね~という優しい目で眺めて頂ければありがたい。(加筆部分2019/10/01)

  彼の描き残したとされる絵画は17点ほどしかない。  

彫刻、絵画、土木、建築、人体医学、数学と幅広い才能を有していたダ・ヴィンチ~およそ500年の時を経ても尚、色褪せることなく語り継がれ、様々な憶測や推測を呼ぶその生涯。

 どの道「正解」を見つけることは出来ないだろうし、出て来たもの全てが「推測」でしかないだろう。意味づけは見た者が感じた通りで良いのだろう。 

 

7月16日に初稿をアップした「サルバトール・ムンディ~俺流解析」では様々な推測を述べてみた。今回は推測を拡大することは控えさせて頂いた。 

何を描きたかったのか・・・これが判れば・・・あとは見る人に委ねるべきだろう。


 

サルバトールムンディ

上、オリジナルのサルバトールムンディと、顔のセンターセパレート。                             
                                 


 

女性像・右上から左斜め下画像         男性像・左上から右斜め下画像 

 

反転画像を組み合わせると、男性と女性像が明確に表れることになる。

 


この場合、この画を、キリストではなく、男性と女性を組み合わせた
人物画と仮定したとき。

既に、指のクロスサインと水晶は、キリスト教ドグマに裏打ちされた宗教的サインとして観ることに、「合理性を見出すことは出来ない」ということに結着を観ることになるだろう。

さて、ここで「人体比例理論」という言葉を持ち出して検証してみる。

ご存知のように、ルネサンス期のメジャーな画家たちが組み上げた絵画論の中には、「人体比例理論」という考え方がある。同時にこの絵画論を構成する上で数学的幾何学原理という存在を見落とすことは出来ないようだ。

この人体比例理論と解剖学的観察を加えてみた時。

顔と体の作りの他に、もう一つ、決定的な矛盾が覗えるのが「手」である。

水晶を持つ手と、印を結ぶ手の大きさに矛盾が見られるのは気のせいではないだろう。

私は画のカットの都合から、女性像に印を結んだ手を付けているのだが、女性像の割には手が大きい。

寧ろ、この手は、男性像に合わせた方が人体比例理論や解剖学的には矛盾はないと観える。

同時に、水晶を持つ手は小さく見えることから、女性像に持たせることに合理性があると観察できるのではないだろうか。

 

先ほど申し上げたように、この画が、キリスト教ドグマに支配された「イエスキリスト」ではないとしてみた時。印と水晶の持つ意味合いは宗教的ドグマからの解放に合理性が存在する。

として眺めた時。

この画のテーマは自ずと見えてくるのではないだろうか。

髪の毛にも幾分の矛盾が覗えるのだが、それはここの場では留め置く。

一方で、キリスト教ドグマに倣った見方を導き出すとすれば、男性像はイエスキリストであり。女性像はマグダラのマリアではないのか・・・とここまで行くと飛躍し過ぎとも思えるのだが_____________(笑)。

 この画を描くに至った背景が、ルイ十二世と王妃アンヌドブルターニュからの依頼によって描かれた、結婚を祝う目的であったとするのなら、やはり、男女の結婚、夫婦生活における「救世主」は、子供の誕生であるという思いを含ませていても不思議ではないのである。

アンヌドブルターニュは、あまりにも、多くの子供を失っていたのだから。

従って、水晶は子宮を表現し、指の印は、おち〇ちんを表現することに無理は感じられない。

 

ダヴィンチが、アンヌのそんな悲しみを汲み取り、救世主として、男女の愛を一枚の画にしたとすれば。

限定された選択肢の中から、許容される表現に取り組んだ、と観ることも出来そうではある。(2019/10/01加筆部・あぁ~あ、ついにここまで書いちゃったw。本当はもっと書きたい。もっともっと踏み込んで書きたい。8年あったからね。お勉強する時間。)

~了~